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第34話 工房:刻印師の手と、剣の模様

 夕方の空は、紙の町の白さを少しだけ落ち着かせる。


 昼の白は忙しい。湯気が上がり、繊維が舞い、足が止まらない。けれど夕方の白は、少し静かだ。手を動かしながら、頭の中で今日を整える時間の白。


 私は路地の奥を歩いていた。


 工房街。


 木と紙の匂いが混ざる場所だ。削り粉の乾いた匂い。湿った紙の匂い。墨の匂い。湯の匂い。全部が重なって、この一角だけ空気が別物になる。


 音も違う。


 金槌の乾いた音。刃物が木を削る音。紙を押さえる音。小さなため息。


 この街は、町の“手”が集まる場所だ。手が集まれば、仕事のやり方が残る。やり方が残れば、物の流れも見えてくる。


 ミドリが小声で言った。


「……この先です。裏通りを二つ曲がって、さらに奥」


 奥は、少し空気が重い。こちらから入るのを歓迎していない感じがする。


 レオンが淡々と確認する。


「派手な看板はない。作業音が目印になる」


 私は頷いた。


 手掛かりは、帳面に残った通称と、札の裏に残っていた小さな点だけ。あとは勘と観察で探すしかない。


 曲がり角を抜けると、木戸の並ぶ一角が見えた。


 どの戸にも小さな札が貼られている。受注状況、納期、休み。工房が自分を守るための札だ。


 その中に、目的の札があった。


 受注停止


 短い字。迷いのない字。近寄る側としては、それだけで身構えてしまう。


 けれど、戸の向こうから削る音が止まらない。


 しゃり、しゃり。


 一定のリズム。止めると考えが入り込んでしまうから、手を動かし続けているような音だった。


 私は息を吸って、ゆっくり吐く。


 背中の包みが、わずかに熱を持った。


『……ここだ』


 剣の声は低い。言葉というより、胸の奥に落ちる温度だ。


 レオンが視線で合図する。


 どう入るか。


 私は、相手を警戒させない入り方を選ぶことにした。


 戸を叩く音は強くしない。強すぎると、相手は身構える。身構えれば、話を聞く前に拒まれる。


 トン、トン。


 二回。短く。


「すみません。お話を聞きたいです。買いに来たんじゃありません」


 言い切って待つ。余計な説明は足さない。


 削る音が、一拍だけ止まった。


 静けさが落ちる。静けさの中では、相手の迷いまで聞こえてくる気がした。


 戸の向こうで足音がする。


 ギィ、と木戸が少し開いた。


 出てきたのは年配の男だった。


 背は高くないが、肩が厚い。顔には深い皺が刻まれている。刃物を扱う人の皺だ。


 何より目についたのは、片手の荒れ方だった。


 指先に細い傷。硬くなった皮膚。爪の際に残る木粉。紙ではなく、木と刃の手。


 男は私たちを一瞥して、ぶっきらぼうに言った。


「受注停止って書いてあるだろ」


 口は悪い。けれど、目は落ち着いていて、変に嫌な感じがしない。話を聞く余地が残っている目だった。


 私は短く頭を下げた。


「見ました。それでも、聞きたいことがあって」


「聞きたいってなんだ。役所か?」


 レオンが淡々と前に出る。


「管理局支部です。詰めるためではありません。確認です」


 男は舌打ちした。


「確認、ね。そういうのはだいたい面倒ごとだ」


 面倒ごと。工房にとっての面倒ごとは、生活に直結する。


 私は一歩だけ前に出て、言葉を選んだ。


「責めに来たわけじゃありません。仕事を止めたいわけでもありません」


 男の目が少し動く。


 仕事を止める、と言われるのが一番嫌だ。その反応が見えた。


「止めたいのは、事故です」


 事故という言葉は、現場の人には重い。重いからこそ、無視できない。


 男の眉が少しだけ寄った。


「……事故?」


 私は頷いた。


「箱が鳴ります。中が空なのに」


 男の顔が、一瞬固まった。


 知っている顔だ。知らないなら鼻で笑う。知っているから黙る。


 男は戸を少しだけ大きく開けた。


「……入れ。靴、拭け」


 乱暴に聞こえるけれど、許可の言い方だった。



 工房の中は薄暗い。


 暗いのに木目が見える。木は光を吸うからだ。紙の白い世界とは逆の、落ち着いた静けさがある。


 壁際には版木が並んでいた。大きいもの、小さいもの、札用、箱用。木の厚みがそれぞれ違う。厚みが違うと、用途も違う。


 男は作業台の横に立ち、私たちを見た。


「で、何が聞きたい」


 レオンが淡々と答える。


「刻印の出所。箱の作り方。誰の注文か」


 男は吐き捨てるように言った。


「羽組だよ」


 言い方は荒いが、怒りというより疲れが混じっている。


「羽組の仕事は金になる。納期も早い。単価もいい。……だから受けた」


 受けた理由は明快だ。生活のために、断れない仕事がある。


 私の視線が、入口の札に行く。


 受注停止


 今はもう受けたくない。そういう意思表示だ。


 男は眉をしかめた。


「けど最近は気持ちが悪い」


 気持ちが悪い。木の人が言うそれは、勘じゃない。手で感じた違和感だ。


 男は棚から布包みを取り出し、作業台に置いた。


「見せる。……外では言うな」


 布を開くと、小さな板が出てきた。試作品だ。模様の練習用の板らしい。


 そこに刻まれていたのは、木目に紛れる細い線だった。


 羽のような線。

 波のような線。


 どちらも細いのに、やけに整っている。自然の木目だけでは出ない揃い方だ。


 背中の包みが、わずかに熱を揺らした。


『……それ』


 剣が短く言う。


 私は板を少し傾け、光を当ててみた。


 線が浮かぶ。


 その線の流れが、剣の刃に走る模様に似ていた。


 刃文。


 磨いても消えない、作り手の癖が残る模様。


 私は確信した。


 この刻印は、剣と同じ系統だ。


「……これ、剣の模様に似てます」


 男は鼻で笑った。


「気づくか。気づく奴は少ねえ」


 軽い笑いじゃない。苦い笑いだ。


 男は指で板を軽く叩いた。


「この模様は“褒める剣”の系統の刻みだ」


 背中が少し冷える。


 褒める剣。あの剣と同じ流れが、札箱に繋がっている。


 男は続けた。


「昔な。鍛冶と版木師が組んだことがある」


 鍛冶と版木。金属と木。普通なら交わらない仕事だ。


「刃の模様ってのは、線がきれいに出るだろ。線ってのは、人の気持ちを落ち着かせる時がある。……そういう理屈だった」


 落ち着かせる。区切る。終わらせる。


 剣が鳴ると、空気が変わるのを私は知っている。偶然じゃなく、仕組みに近いのかもしれない。


 レオンが淡々と質問を重ねた。


「羽組は、その模様を箱に入れた?」


 男は口を歪める。


「入れた。正確には、入れろと言われた」


 頼まれ方が丁寧でも、断れない状況はある。


 男は荒れた手を見下ろしながら言った。


「箱は空なのに鳴る。木が、木じゃない感じになる。……そんな注文、普通は受けない」


 木が木じゃない感じ。


 素材が変わるわけじゃないのに、触れたときの感触が違う。そういう違和感は、職人ほど敏感だ。


 男は声を低くした。


「それに……見張られてる気がする」


 私は工房の外へ意識を向けた。


 微かな足音。砂利を踏む音。止まる気配。


 誰かが、こちらの様子をうかがっている。


 レオンは無言で立ち位置を変える。入口側から見えにくい位置に立つ。相手の視線を遮る位置だ。


 ミドリが唇を噛んだ。


「羽組の人……ですか」


 男は肩をすくめる。


「知らねえよ。けど最近、通りが静かすぎる。妙なんだ」


 静かすぎる通りは、確かに怖い。人がいない静けさではなく、人が息を潜めている静けさだ。


 私は男に尋ねた。


「箱は、どこへ運ばれてるんですか」


 男は一瞬黙った。


 黙るのは迷いがあるからだ。迷いがあるのは、言った後のことが想像できるからだ。


 それでも男は、決定的な言葉を吐いた。


「“札箱”は完成品じゃない」


 私は息を止めた。


 完成品じゃない?


 男は続ける。


「元になる型が別にある。箱は、そこから切り出して仕上げてるだけだ」


 元になる型。


 そこを止めないと、箱だけ押さえても終わらない。音が町に残っているのも、納得がいく。


 レオンが淡々と食い下がる。


「その型はどこに」


 男は荒れた手を握りしめた。


「羽組の保管庫より奥だ。……問屋の地下に近い場所へ運ばれた」


 問屋の地下。


 紙の流れ、札の流れ、金の流れ。全部が集まる町の中心に近い場所だ。


 背筋が冷たくなる。


 外で、足音が一つ増えた。


 コツ。


 硬い靴音。現場の靴じゃない。乾いた道を歩く人の音だ。


 男の顔色が変わる。口は悪いのに目は真剣だ。


「……帰れ。これ以上いると、こっちも危ない」


 私は短く言う。


「工房は守ります」


 男が睨む。


「簡単に言うな」


 私は言葉を重ねない。重ねると説教みたいになる。説教は相手を疲れさせる。


 だから短く。


「壊しません。止め方を考えます」


 男の目が揺れた。


 乱暴に止めるのではなく、“終わらせ方”を作る。そういう意味が伝わった気がした。


 男は舌打ちして、棚の奥から紙片を引き抜いた。


「……搬入口だ」


 紙片には地図のような線が描かれていた。裏通り、倉の壁、排水路、小さな印。


「ここ。問屋の地下に下りる搬入口がある。昼は荷で塞がれてる。夜は空く」


 夜は空く。


 その言葉は、行けと言われたのと同じだった。


 レオンが紙片を受け取り、淡々と言った。


「ありがとうございます」


 男は吐き捨てる。


「礼はいらねえ。……ただ、もう気持ち悪いんだよ。あんな木は」


 その言葉は、職人の正直だった。



 工房を出ると、空気が冷たかった。


 木の匂いが薄れ、紙の匂いが戻る。町に戻った感じがする。


 路地を抜ける途中、ミドリが小さく言った。


「……やっぱり見張られてましたよね」


 レオンが淡々と答える。


「いました。こちらに気づかせるための監視です」


 気づかせるため。


 つまり牽制だ。次の手がある合図でもある。


 私は背中の包みを背負い直した。


 剣の熱が少し落ち着いている。似た模様を見て、剣も何かを思い出したのかもしれない。


『……同じ線だ』


 剣が小さく言った。


「うん。だから手掛かりになる」


 言い切ると、足が進む。


 そのとき、通りの向こうから丁寧な足音が近づいた。


 コツ、コツ。


 急がない。余裕のある歩き方。


 現れたのは羽組の人間だった。


 作業員ではない。販売人でもない。


 服の質が違う。靴が違う。笑い方が違う。町の汗を知らない匂いがする。


 役員クラス。そう思わせる空気だった。


 男は丁寧な笑顔で、深く頭を下げた。


「お疲れさまです。少し、お時間よろしいでしょうか」


 丁寧な笑顔は断りにくい。断るとこちらが悪いみたいに見える。


 男は続ける。


「町のために、話し合いの場を。公開の場で」


 公開の場。


 話し合いと言いながら、空気は別の方向を向いている。噂と善意が混ざれば、誰かが悪者になりやすい。


 レオンが淡々と返す。


「用件は」


 男は笑顔のまま言った。


「あなた方の活動は善意です。ですが町は不安がっています。ですから――皆の前で、説明を」


 説明。


 説明の場は、言葉の強さの勝負になりやすい。強い言葉が出れば、反発も出る。反発が出れば、現場が荒れる。


 私は男の笑顔の奥にある狙いを感じた。


 こちらを表に引っ張り出す。

 そこで評判を落とす。

 そうすれば、手順も札も消えていく。


 背中の包みが、わずかに熱を持つ。


『……気をつけろ』


 剣が低く言った。


「うん。冷静に進める」


 丁寧な笑顔の男は、穏やかに言った。


「では。明日の昼、広場で。町のために」


 その言葉は優しい顔をしながら、逃げ道を狭くしていった。


 私たちは路地を抜けながら、地図の紙片を握りしめる。


 問屋の地下。元になる型。搬入口。


 そして、公開の場。


 町の空気はもう、次の一手を決めている。

 静かに、きれいな顔をして。

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