第32話 実地:紙漉き場の十五分
朝の紙漉き場は、湯気で白い。
白いのは紙だけじゃない。湿った空気が息の形をゆっくり残す。残った息は、すぐに繊維の匂いに溶けていく。紙の匂いは本来、落ち着く匂いだ。けれど今日は落ち着かない。音が多すぎる。
水が跳ねる音。桶が擦れる音。木枠がぶつかる音。濡れた板を踏む音。短く切れた声。
短い声は、余裕がない声だ。余裕がないと、人は足元を見る余裕もなくなる。余裕がないほど、体が勝手に動く。勝手に動くと、何かが起きる。
私は入口でいったん立ち止まり、布包みを抱え直した。
布の中には、試作札が入っている。
表は短い言葉。裏には細い線の印。触れたとき、区切りが手に残るように。
背中の包みが、静かに熱を揺らした。
『……多いな』
剣の声は低い。声というより、胸の奥に落ちる熱だ。気配だけでも、ここが危ない場所だと分かる。
紙漉き場は広かった。人が多い。動きが速い。速いのに、目が疲れている。疲れた目は遠くを見ない。遠くを見ないと、足元が滑る。滑ると、取り返しがつかない。
入口の近くで、腕を組んだ男がこちらを睨んでいた。
現場監督だ。肩幅が広い。顔が渋い。渋い顔は簡単に頷かない。でも、簡単に頷かない人ほど現場を守っている。
レオンが一歩前へ出る。
「管理局支部です。本日の現場で短時間の試験運用を行います」
監督は目を細め、吐き捨てるように言った。
「札? 気休めだろ。貼ったって手は増えねえ」
気休め。
この現場にとって「止まる」は「生産が落ちる」だ。生産が落ちれば責任が降ってくる。責任が降ってくると、現場の誰かが潰れる。潰れると、また押す言葉が増える。
レオンは表情を崩さない。
「止めるためではありません。事故を減らし、継続させるためです」
監督が鼻で笑う。
「事故? 起きるときは起きる。いちいち止めてたら、今日の分が終わらねえ」
終わらない恐怖は、人を押す。
私は一歩だけ前へ出た。
攻めない距離。刺さらない距離。言葉は短く。
「止めません。区切ります」
監督が私を見る。視線が重い。重い視線は責任の視線だ。
「区切って、何が変わる」
乱暴な言い方じゃない。試していいと思っている人の問いだ。
私は答えを盛らない。盛ると正しさが刺さる。
「息が戻ります。足が戻ります」
監督は一瞬黙った。否定できないとき、人は黙る。
レオンが手順を出す。
「十五分交代。湯を回す。鐘は一回だけ鳴らします」
監督が眉をひそめる。
「十五分? そんな短い休みで意味あるのか」
意味があるかどうかは、やってみれば分かる。けれど現場は“説明”より“形”を求める。
私は監督に言った。
「まず湯を飲める場所だけ作らせてください」
休憩所、じゃない。大げさにしない。場所だけ。だから動かせる。
監督は肩を揺らして笑った。
「湯ならある。勝手に飲め」
「勝手に、が難しいです」
私はゆっくり言った。勝手に、は許可がないと動けない人に刺さる。
「誰でも飲んでいいって見える形にします」
監督は渋い顔のまま顎で奥を指す。
「……好きにしろ。ただし邪魔はするな」
邪魔はするな。つまり試していい。
「はい」
ミドリが倉庫側へ小走りに向かった。動きが早い。早いのに焦っていない。やることが具体的だからだ。
ミドリは現場の端にある木棚へ布を敷いた。布を敷くと場所ができる。場所ができると、人は動ける。
「ここに札を置きます。手を拭いてから触れるように」
声は小さいのに、よく通る。現場に溶け込む声だ。
さらに湯桶の横に、小さな札置きを作った。
「湯のところに手順カードも置きます。湯を飲む流れで見えるように」
導線。現場は導線がすべてだ。
レオンは作業員の動きを見ながら、淡々と支部員へ指示を出した。
「交代札はここ。鐘は入口の柱。鳴らすのは一回。合図は短く」
短く。具体的に。押さない。
私は布包みを開き、札束を取り出した。
紙は同じ大きさ。字の太さも同じ。派手じゃない。派手じゃない札は主張しない。主張しないものは刺さらない。
作業員たちがちらりとこちらを見る。けれどすぐ目を逸らす。悪意じゃない。余裕がないだけだ。余裕がないと、新しいものは見ない。
だから、まず湯。
湯は目に入る。匂いが届く。手が伸びる。
私は湯桶の横に札を一枚置いた。
一度、湯を飲め
命令じゃない。手順だ。
次にもう一枚。
息をしろ
息は誰にでもできる。できることは続く。
そして、もう一枚。
今日は十分
十分だ、じゃない。今日は十分。今日に線を引く言葉。
若い作業員が札を見た。
頬が赤い。湯気の赤か、疲れの赤か分からない。分からないなら、湯を渡せばいい。
私は声をかけず、湯桶の前を少し空けた。
空けると、人は入りやすい。入りやすいと、自分で動ける。
若い作業員は迷いながらも湯を汲み、飲んだ。肩が少し落ちる。息が深くなる。目が戻る。
その瞬間、入口の柱でレオンが鐘を鳴らした。
チン。
一回だけ。
短い音は刺さらない。短い音は区切りになる。
レオンが淡々と告げる。
「交代。十五分」
作業員の何人かが顔を上げる。顔が上がると視線が遠くなる。遠くなると足元が見える。足元が見えると滑りにくい。
監督は腕を組んだまま、渋い顔で見ていた。渋い顔は変わらない。でも、眉の動きが少しだけ柔らかくなった。
そのときだった。
入口側から、明るい声が飛んできた。
「おはようございます! 朝からすごいですね、みなさん!」
笑顔の声。
明るい声は元気をくれることもある。でも、疲れた現場では“押し”になることがある。
振り向くと、二人の男が入ってきた。羽組の販売人だ。
服は整っている。靴も乾いている。現場の湿り気を踏まない靴。踏まない靴は、現場の怖さを知らない。
販売人は札束を軽く振る。
「貼るだけで背中が軽くなる札、ありますよ。無料です。無料!」
無料。
無料は強い。責任がない顔をして、人の手を伸ばす。
販売人が作業台に寄る。
「ほらこれ。『まだいける』。いい言葉でしょ?」
差し出された札は短い。
まだいける
短い。軽い。気持ちいい。気持ちいいから刺さる。刺さると押される。押されると止まれない。
作業員の手が、自然に伸びた。
自然に伸びるのが怖い。身体が反射しているからだ。
もう一人の販売人が、さらに札を見せる。
「こっちは『今日だけ』。今日だけ頑張ろ、ってやつです」
今日だけ
区切りに見える。でも違う。これは終わらせない今日だけだ。押す今日だけだ。
監督が低い声で言う。
「おい、現場に入るな。邪魔だ」
販売人は笑顔を崩さない。
「邪魔しませんよ。みんな疲れてるでしょ? 軽くしてあげるだけです」
優しい顔の押しは、止めにくい。
私は販売人の前に出た。
でも攻めない。攻めれば刺さる。刺されば喧嘩になる。喧嘩になれば現場が荒れる。荒れれば事故が増える。
「湯の場所は、ここです」
答えになっていない答えを置く。相手の言葉を受けない。受けると引っ張られる。
販売人がきょとんとする。
「え?」
「湯を飲めます。今」
販売人は笑う。
「湯もいいですけど、札のほうが早いですよ」
早い。早いほど反射に刺さる。
レオンが淡々と割り込んだ。
「許可のない配布行為は作業導線の妨げになります。退いてください」
淡々としているのに刃がある。手順の刃だ。
販売人は肩をすくめる。
「こわいなあ、管理局さんって。まあいいや。受け取りたい人だけで」
受け取りたい人だけ。
そう言われると、受け取らない側が弱く見える。弱く見られたくない。だから手が伸びる。伸びると押される。
現場の空気が、少し硬くなる。
硬い空気は、濡れた床を滑りやすくする。滑るのは床だけのせいじゃない。心のせいでも滑る。
私は足元を見た。
水が薄く広がっている。板が濡れている。そこを若い作業員が枠を持って走ろうとしている。
走るのは危ない。止めたい。でも「走るな」は命令になる。命令は刺さる。刺されば反発する。
若い作業員の足が――滑った。
ほんの少し。少しでも荷の重さは人を倒す。倒れたら、後ろの人も巻き込む。巻き込めば連鎖になる。
私は息を吸って、短く言った。
「息をしろ!」
叫ばない。刺す声にしない。届く音量で、短く。
若い作業員の目が、こちらに向く。
その瞬間、彼は息を吸った。
吸うと身体が固まる。固まりすぎると転ぶ。でも、吸って吐く“間”ができれば、足が踏ん張れる。踏ん張れれば止まれる。
若い作業員は――踏みとどまった。
枠が傾く。傾くけれど倒れない。
倒れない。
その“止まれた瞬間”。
背中の包みが、わずかに震えた。
剣が、たった一回だけ鳴った。
ぱち。
拍手みたいな音。
でも、押す拍手じゃない。
区切る拍手。線になる音。
不思議なことに、その音が鳴った瞬間、周囲の空気が少しだけゆるんだ。
販売人の笑顔が一瞬止まる。
監督の視線が若い作業員の足元へ戻る。
作業員たちの肩が、ほんの少し下がる。
下がると息ができる。息ができると、手が勝手に伸びなくなる。
若い作業員は枠を床へ置き、湯桶のほうへふらりと歩いた。湯を飲む。飲んで、ぽつりと言う。
「……こわかった」
こわかった、と言えるのは強い。怖いと言える人は、もう押されていない。
隣の作業員が札置きへ手を伸ばした。販売人の札ではない。湯桶の横に置いた札だ。
今日は十分
その札を取り、柱に貼った。
見えるところへ貼ると、許可になる。
別の作業員も続く。
一度、湯を飲め
さらに、
ここで区切る
区切る言葉が増えると、現場が少しずつ戻る。
販売人が薄く笑って言った。
「へえ。面白い札ですね。でも、そんなの貼ってたら今日の分が終わりませんよ?」
優しい顔で“終わらない恐怖”を刺してくる。
監督が低い声で返した。
「終わらせるために、やってんだろ」
渋いままの声に、少しだけ温度があった。
販売人は肩をすくめる。
「まあ、好きにしてください。無料なんで。うちの札も置いときますね」
彼らは「まだいける」「今日だけ」の札束を作業台の端にそっと置いた。
置き方がうまい。押しつけないふりをして押してくる。
でも、現場の空気はさっきほど引っ張られなかった。
剣の“一回”が、線になったからだ。
レオンが鐘を一回鳴らす。
チン。
「交代。十五分」
十五分が回り始める。
交代した人は湯を飲み、呼吸を整え、札の裏の線印に指を触れる。触れると手に区切りが残る。手に残れば、身体が覚える。
声が短くならない。
短くならないと喧嘩が減る。喧嘩が減ると足元を見る余裕ができる。余裕があると事故が減る。
監督は腕を組んだまま、しばらく黙って見ていた。
それから渋い顔のまま言った。
「……効いた」
短い言葉。短い言葉は嘘が混じりにくい。
監督は続ける。
「だが、これが町に広がったら揉める。止まる札は嫌われる。金が絡むからな」
金。生活。責任。背負い。
私は頷いた。
「揉めない形にします。押し返さない。区切るだけ」
監督は鼻で笑った。
「難しいこと言うな」
「難しいことは言いません。短くします」
私はそう言って、湯桶の横の札を指で揃えた。
現場の手が自然に伸びる方向を変える。
押す札じゃなくて、止まれる札へ。
それが今日の検証だった。
レオンが作業記録を取りながら淡々と言う。
「効果確認。事故予兆の減少。口調の荒れが減少。継続可能」
継続可能。
監督は渋い顔のまま頷いた。
「……やるならちゃんとやれ。中途半端にすると余計危ねえ」
中途半端は危ない。線が消える。線が消えれば押しが戻る。
「ちゃんと区切る」
私は短く返した。
販売人たちは現場の空気が変わったのを感じたのか、軽く手を振って入口へ向かった。
「じゃ、失礼しまーす。また来ますねー」
また来る。そう言うと、未来に押しを置けるからだ。
去り際、片方の販売人が小さな声で呟いた。
「……“線”は邪魔だって、上が言ってる」
邪魔。
線が邪魔になるのは、押しが効かなくなるからだ。
私は背中の包みに手を当てた。
剣は静かだった。静かなまま、熱が落ち着いている。
『……一回で足りた』
自慢じゃない。確認の声。
「うん。一回で十分」
私は小さく返した。
湯気の中で、現場の手が少しずつ戻っていく。
止まれる言葉は、確かに機能した。
でも同時に分かった。
町全体に広げるなら、反発も広がる。
貼り手は早い。売り場も早い。優しい顔の押しはもっと早い。
だから次は、“町”が相手になる。




