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第30話 線引き:終業札の“逆流”

 夜明け前の紙の町は、白が眠っている。


 干された紙も、吊られた札も、風に揺れる房も、まだ静かだ。静かな白は眩しくない。眩しくない白は、息が通る。言葉が少ない時間に動くのは正しい。余計な刺さりが減る。


 宿の廊下で、私は靴紐を結び直した。結び目を確かめる。確かめると落ち着く。落ち着けば、焦りに引っ張られない。


 戸口でレオンが待っている。いつも通りの姿勢。いつも通りの呼吸。いつも通りがあると、人は崩れにくい。


「羽組の札箱、移送手順を開始します」


 淡々とした声が、胸を支える。支える声は押さない。


 私は頷いた。


「ミドリさんは?」


「協力者として同行。……ただし現場には立たせません」


 立たせない。守るための区切り。区切れば、潰さないで済む。


 町の裏通りに出ると、荷車が一台止まっていた。布で覆われた荷。封印札。封印札の端が風で浮かないように、紐が追加で巻かれている。巻きが丁寧だ。丁寧さは緊張の裏返しでもある。


 荷車の周りに支部員が二人。表情が硬い。硬い表情は、音を聞いている表情だ。


 私は荷へ近づき、息を吸って吐いた。


 封印札の下から、乾いた気配が漏れている。


 ぱち、と鳴りそうで鳴らない。鳴らないのに、耳の奥が鳴る気がする。身体が覚えている。


 背中の包みが、ふっと熱を持つ。


『……ここは、境界を試す場所だ』


 剣の声は落ち着いている。昨夜の約束があるからだ。


(終わりを守る)


『……承知』


 短い返事。余計な矢印を出さない短さ。


 レオンが支部員へ指示を出す。


「移送は川沿い。市街地は避ける。……貼り紙は報告のみ」


 剥がさない。争わない。段取りで勝つ。


 荷車が動き出す。


 車輪が土を踏み、軋みが静かに響く。朝の静けさの中では音が通る。通る音は視線を集め、視線は噂を呼ぶ。噂が増えると、言葉が増える。


 だから、急ぐ。焦らず、急ぐ。


 川沿いの道は町の中心から少し外れていた。水の匂いが強い。水の匂いは息を通す。息が通ると、耳が敏感になる。


 ぱち。


 聞こえた気がした。


 私は歩幅を整えた。呼吸を深くする。深くすると、錯覚がほどける。ほどければ判断できる。


 レオンが淡々と言う。


「……音が増えています」


 増えている。錯覚じゃない。


 封印札の内側で、空っぽの拍手が揺れている。


 ぱち、ぱち。


 増えるたび、胸が少しだけ押される。押されると足が速くなる。速くなると転ぶ。転べば封印が剥がれる。剥がれたら、終わりが消える。


 私は足元を見る。砂利、石、濡れた土。滑るところを避ける。避けるのは逃げじゃない。継続の選択だ。


 曲がり角で人影が見えた。


 荷運びの男が二人。肩に荷。朝の早い仕事。顔が眠そうだ。眠い顔は、短い言葉に縋りやすい。


 男たちは荷車を見て足を止めた。


「なんだ、あれ」


「封印札? 管理局か?」


 声は大きくない。けれど、静かな朝では十分大きい。


 そのとき――


 ぱち。


 男の一人が、無意識に手を叩いた。


 一回。小さな拍手。本人は気づいていない。気づいていない拍手ほど怖い。癖になる前の一回は、入口だ。


 もう一人が笑う。


「なんだよ、急に」


 笑いに温度がある。温度があるなら、戻せる。


 私は一歩だけ前へ出て、刺さらない言葉を置いた。


「今の拍手、何の合図?」


 責めない。質問にする。質問は境界を作る。


 男がきょとんとする。


「え? 拍手……?」


 自覚がない。なら、気づかせればいい。


 私は続けた。


「終わりの拍手は一回だけ。……今のは、終わりのため?」


 男は首を傾げた。


「終わり? いや……なんとなく」


 なんとなく、が増えると空っぽが増える。


 レオンが淡々と補足する。


「疲労時に誘発される反射です。水を飲んで、呼吸を整えてください」


 反射、という言い方は責めない。現象として扱う。現象として扱えば、罪悪感が減る。罪悪感が減れば、守りの行動が取れる。


 男たちは顔を見合わせ、苦笑して頷いた。


「わかった。……なんか変だな、この町」


 変だと思えるなら、正常が残っている。


 荷車はそのまま進む。


 川の音が強くなる。強い音は拍手を紛らせる。紛れると増えているのに気づきにくい。


 レオンが進路を少し変えた。


「水音の弱い支流側へ。……音を聞くためです」


 支流側は草が多く、道が狭い。狭い道は速度が落ちる。速度が落ちると、押しが効きにくい。


 ぱち、ぱち。


 音はまだある。だが、さっきより薄い。


 私は息を吸って吐いた。吐くたび、胸の圧が散る。


 背中の剣が低く言う。


『……逆流させる』


「逆流?」


『……売れる札を流したなら、止まる札を逆に流す。……源に向けて』


 源に向けて。流れを逆にする。川の流れは逆にできない。でも、言葉の流れなら工夫で逆にできる。


 私は小さく頷いた。


「終業札を、守りの形に戻して広げる?」


『……そうだ。……褒めは矢印。矢印に線を付ける』


 線を付ける。境界を戻す。


 レオンが前を見ながら言った。


「逆流は供給側に届けば効きます。……ただし抵抗があります」


 抵抗。売れるものは止めたくない。生活がある。雇用がある。税がある。


 だから、止めるんじゃない。形を変える。


 荷車が支部の臨時集積所に到着した。小さな倉。入口に封印の縄。見張り。手順が見えると心が暴れにくい。


 レオンが支部員に指示する。


「封印札を二重化。……保管中の音量を記録。増えたら即時隔離」


 音を数字にする。数字にすると恐怖が形になる。形になれば抱えられる。


 ミドリが少し離れた場所から不安そうに見ていた。泣きそうな目。でも、ここにいる。逃げていないのは、止めたいからだ。


 私は近づき、短く言った。


「潰れないで」


 ミドリは息を呑んで、頷いた。


「……はい」


 それでいい。長い慰めは要らない。長い慰めは押す。


 倉の中へ封印された箱が運び込まれる。その瞬間、空っぽの拍手が一度だけ鳴った。


 ぱち。


 入れられたくない、と訴えるみたいに。


 私は包みに手を当て、息を吸って吐く。


 剣が低く言う。


『……終わりを作れ』


「うん」


 レオンがこちらを見る。


「文言調整室の押収品を精査します。……同時に、代替の終業札を作り、流通に乗せる準備が必要です」


 代替。流通。逆流の準備。


 私は頷いた。


「ナギに協力を頼む」


 レオンも頷く。


「要請します。……売り場に乗る言葉は短く、具体的に。現場が使える形で」


 短く、具体的に。


 私は頭の中で、線を引く言葉を探した。押さない。刺さらない。終わりを作る。帰る許可になる。


 そのとき、倉の外の掲示板に目が留まった。


 誰かが新しい札を貼っている。手が早い。言葉の町は貼るのも早い。


 貼られた札は短い。


 まだいける。


 喉がひゅっと鳴った。


 “まだいける”が貼られるということは、こちらの動きが知られている。知られているなら、相手も動く。


 レオンが淡々と言った。


「……逆流が始まっています。供給側が反応しています」


 反応があるなら効いている。効いているなら、こちらも打てる。


 私は息を吸って吐き、背筋を整えた。


「じゃあ、こっちは――『十分だ』を流す」


 十分だ。終わりの線。帰れの許可。


 背中の剣が、静かに熱を揺らした。


『……それだ。……終わりを褒める』


 終わりを褒める。


 私は小さく頷いた。


「終わりを褒める」


 白い町で、言葉の流れが逆向きに動き始めた。


 売れる褒めが押してくるなら、守る終業が逆から押し返す。


 押し返すのは、押し潰すためじゃない。


 止まるための線を、もう一度世界に引くためだ。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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