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第29話 告白:褒めたかった理由

 川辺の夜は、紙の町の中でいちばん息がしやすい。


 白い札も売り声も、端正な文字も、ここまでは届きにくい。届くのは水の音だけだ。水は何も押さない。押さない音は、胸の奥の固いところをほどく。


 私は石段に腰を下ろし、膝を抱えるようにして背中の包みを前へ回した。包みを前に置くと、剣が胸の近くに来る。近いと、言葉が届きやすい気がする。


 月は薄い雲の向こうにあった。雲がかかると光が柔らかくなる。柔らかい光は、言いづらいことを言える光だ。


 レオンは少し離れた場所で、見張りのように立っていた。川の流れと周囲の影を、同じ速さで見ている。話すための距離を作ってくれている。ありがたい。けれど、礼を言うと余計に背負いそうで、私は言わない。


 代わりに、呼吸を整える。


 吸って、吐く。


 吐いた息は白くならない。夜は冷たいのに、吐く息はただの息だ。息がただの息でいられるなら、私はまだ壊れていない。


 包みの中で、剣が小さく熱を揺らした。


『……持ち主よ』


 いつもより声が低い。低いのに硬い。硬いのは怒りじゃない。痛みだ。


「うん」


 私は短く返した。今日は、聞く側でいたい。


 しばらく、川の音だけが流れた。


 水は石を避けて進む。ぶつからないように形を変える。境界を知っているみたいだ。境界を知っているから、止まらずに流れられる。


 私は包みの結び目に指をかけ、ほどしかけて、やめた。ほどかない。剣を見せる必要はない。今日は“声”のままがいい。


「……苦しかった?」


 剣はすぐには答えなかった。


 沈黙は、言葉を探している沈黙だった。探しているなら、待てる。


 やがて、剣が言った。


『……苦しいのではない。……悔しい』


 悔しい。


 その単語が胸の奥に落ちた。怒りは外へ向くけれど、悔しさは自分へ戻ってくる。


「何が」


『……誉が、壊された』


 誉。褒め。終業の拍手。


 壊された、という言い方が重い。剣の中に、役目としての誇りがあるのが分かる。


『……俺は、褒めるために作られた』


 言い切ったあと、熱がわずかに揺れた。恥ずかしさみたいな揺れ。変な話なのに、今は変じゃない。


『……だが、褒めは矢印だ。矢印は押す。押すなら、終わりが要る』


 終わり。


『……終わりを作るために、拍手は一回だけ鳴る』


 一回だけ。終業の拍手は、一回。


 その言い方に、剣の誇りが滲んでいる。終わらせるための拍手。帰るための拍手。


 私は息を吸って、吐いた。


「でも、箱は……空っぽで鳴ってた」


 剣の熱が少し強くなる。強くなると刃の気配が滲む。私は包みに手を置いて、落ち着かせる。


『……あれは拍手の形だけだ。終わりがない。終わりがない拍手は、ただの押しだ』


 押し。


 押しは気持ちいい。気持ちいいから止めづらい。止めづらいものは生活に入り込む。入り込むと、誰も気づかなくなる。


 剣が、少し言いづらそうに続けた。


『……昔の俺は、現場に置かれていた』


 現場。


『……火の前、刃の前、粉の前。危ないところに。危ないほど、人は終わりを忘れる。忘れると死ぬ』


 忘れると死ぬ。


 淡々としているのに、当たり前の重さがある。当たり前に言えるのは、たくさん見てきたからだ。


『……だから、俺は褒めた。褒めて、終わらせた。褒めは許可だ。“帰れ”の許可だ』


 帰れの許可。


 その言葉が、胸を温めた。褒めは押すためだけじゃない。帰るための言葉でもある。私が欲しかったのも、それだ。


 剣が続ける。


『……だが、誰かが線を削った』


 線。終業の境界。


『……褒めだけを残した。褒めは軽くなった。軽い褒めは、空っぽになる。空っぽは、増える』


 増える。


 増えるほど箱が増える。箱が増えるほど拍手が増える。拍手が増えるほど終わりが消える。


 背中が少し寒くなった。夜風じゃない。仕組みが見えた寒さだ。


 剣は声を落とした。


『……俺は、褒めれば守れると信じた』


 信じた。


『……褒めるほど現場が回る。回っているなら皆が生きている……そう思った』


 回っていると、生きているように見える。止まったら死ぬように見える。だから回す。回すと、死ぬ。


 その矛盾に、人も道具も飲まれる。剣も飲まれた。


『……褒めた。褒め続けた。……褒めれば褒めるほど、誰も帰らなくなった』


 帰らなくなった。


 その言葉で、熱が少し下がる。諦めじゃない。吐き出したからだ。


 私は膝の上で手を握り直した。指が少し震えている。怖さじゃない。分かってしまった震えだ。


「……それで、褒めるのが癖になった?」


『……癖ではない。……罪だ』


 罪。


 剣は自分を責めている。責める声は、呪いの餌になる。餌を与えたくない。


 私は息を吸って、吐いた。


 吐いてから、短く言った。


「罪じゃない。責任は区切ろう」


 剣の熱が、かすかに揺れた。揺れは驚きだ。


『……区切る?』


「うん。褒めが悪いんじゃない。終わりが消えたのが悪い」


 責任の置き方を変える。そうすれば、人も道具も少し救われる。


 川面を見ると、月が揺れていた。揺れる月は完璧じゃない。完璧じゃないものは、息ができる。


「褒めが“帰れの許可”なら、使っていい」


 剣は沈黙した。長い沈黙。言葉が足りない沈黙だ。だから、待つ。


 やがて、剣が言った。


『……褒める代わりに、終わりを守る』


 取引みたいな言い方。でも今は、条件がいる。条件があると暴走しない。


 私は頷いた。


「終わりを守るなら……褒めてもいい時がある」


『……いつだ』


 声が少しだけ幼く聞こえた。許可が欲しいのだろう。許可があれば守れる。


「相手が帰ろうとした時」


 私は言う。


「終わりを選んだ時に褒める。終わりを延ばした時には褒めない」


 剣の熱が、ふっと柔らかくなる。押さない熱だ。


『……承知』


 短い返事。短いのに、心が入っている。


 私は小さく笑ってしまった。笑いは小さい。小さい笑いは、水音に溶ける。


「ねえ。怖い?」


 剣は一瞬黙ってから言った。


『……怖い。だが、持ち主が息をするなら、怖さは減る』


 私が息をするなら。


 剣は私の呼吸に合わせている。合わせているなら、私は剣を背負うんじゃなく、隣に置ける。


 川の向こうで、紙の房がさらさらと鳴った。拍手に似ている。でも、ただの紙の音。


 そのとき、町の方から乾いた音が聞こえた気がした。


 ぱち。


 錯覚かもしれない。でも胸がひゅっとなる。似た音を知っているからだ。


 レオンが遠くから小さく言った。


「……動きがあります」


 私は立ち上がり、包みを背負い直した。


 剣が低く言う。


『……箱は、増やされる』


 増やされる。


 私は息を吸って、吐いた。


「だから、終わりを運ぶ」


 熱が一瞬だけ強くなる。拍手じゃない。決意の熱。


『……線を守ろう』


「うん。線を守る」


 夜の川辺で交わした約束は短い。


 短い約束は、長く続く。言葉が少ないほど、嘘が混ざりにくいから。


 私たちは水音を背に、町へ戻る。空っぽの拍手が増える前に、終業の境界を取り戻すために。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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