第28話 倉庫:刷られる前の“空っぽ”
保管庫の扉が開いた瞬間、匂いが変わった。
紙の匂いはある。木の匂いもある。けれど、その上に――薄い冷たさが乗っている。冷たさは温度じゃない。空気の“重さ”だ。重いのに形がない。形がない重さは、胸を押す。
私は反射で息を吸い、すぐに吐いた。
吐くと、胸の圧が少し散る。散ると、足が出る。
保管庫は広かった。倉庫というより、整った部屋だ。
棚が並び、札の束が箱に入れられ、ラベルが貼られている。端正な字。揃った番号。揃いは安心を作る。けれど、ここで作られている安心は硬い。硬い安心は、呼吸を浅くする。
レオンが先に入った。手袋をした手で棚の間隔を確かめるように歩く。慎重な歩き方。慎重さがあると、私も真似できる。
「危険の兆しは、音と温度で判断します」
レオンが淡々と言った。
私は頷いた。音と温度。ここでは、それが正しい。
ミドリは入口で立ち尽くしていた。顔色が薄い。薄い顔は眠れていない顔だ。眠れていないのは、見ないふりを続けてきたからだろう。見ないふりは心を守る。でも長く続くと、心を削る。
「ミドリさん。ここで待ってもいい」
私は短く言った。待ってもいい、は許可の言葉だ。許可があると、人は息ができる。
ミドリは小さく首を振った。
「……見ます。見ないと、また……」
また、の後が出ない。出ない言葉は怖い言葉だ。怖い言葉は、短いままでいいときがある。
私は頷いた。
「じゃあ、息をしながら」
ミドリがぎこちなく息を吸って吐いた。肩が少し落ちる。落ちた分だけ、人に戻る。
棚の札箱は種類ごとに分けられていた。
「祝」
「弔」
「商」
「旅」
「終」
最後の「終」の棚が、他より箱が多い。終業の箱が多い。それだけで嫌な予感がする。終業の道具が多すぎるのは、境界が効いていない証拠になりやすい。
レオンが「終」の棚へ近づき、箱のラベルを読んだ。
「終業札/拍手付き/現行」
現行。いま流れている品。
箱の蓋は紐で縛られている。縛り方が丁寧だ。丁寧な縛りは、“大事なもの”を扱う縛りだ。大事なものほど、怖い。
レオンが封袋を取り出し、ミドリに視線を向けた。
「開封の立ち会い、可能ですか」
ミドリが頷く。頷いた指先が震えた。怖いのに頷いたのは、止めたいからだ。
レオンは紐をほどいた。ほどく音が、やけに大きく聞こえる。耳が敏感になっている。
蓋を持ち上げる。
中には札が詰まっていた。白い札。端正な文字。短い文言。
今日だけ。
まだいける。
立派だ。
もっと。
束になって並ぶと、言葉が“壁”になる。壁は人を押す。押されると、止まれない。
喉の奥が乾いた。
背中の包みが、じわりと熱を持った。
『……多い』
剣が低く言った。嫌悪じゃない。痛みだ。守るためのはずの道具が、刃として積まれている痛み。
レオンは札束の一部を封袋へ移した。手袋越しに紙を滑らせる。動きは速いのに乱暴じゃない。乱暴じゃないと、紙が“物”のままでいられる。
私は箱の奥に、違う紙が混じっているのを見つけた。
札ではない。原稿に近い束だ。端が少し毛羽立っている。筆跡が並び、ところどころなぞった跡がある。
「……これ」
私が指差すと、レオンが視線を移した。
「原稿束です」
レオンが原稿束を引き上げる。紙が擦れる音がする。普通の音のはずなのに、今日は拍手に似て聞こえてしまう。
原稿には文言がいくつも書かれていた。しかも筆癖が一定しない。字が揃っていない。複数人が関わっているのだろう。複数人が、同じ文言を“なぞって”いる。
なぞるのは、自分の言葉を持てないときだ。持てないと売れる型をなぞる。なぞると型が増える。増えるほど、中身が薄くなる。
ミドリが小さく呟いた。
「……私は、読んでませんでした」
読んでない。読めなかった。読むと責任が生まれるから。責任が生まれると、止めないといけなくなる。止めるのが怖かった。
私は責めない。代わりに区切る言葉を置く。
「読まなくても、気づいてた?」
ミドリは唇を噛み、頷いた。
「……鳴るから」
鳴る。
胸がきゅっと縮む。紙は鳴らない。鳴るのは空洞だ。
レオンが周囲を見回した。
「音源は……この箱ではありません」
淡々と断定する。断定は怖い。でも断定できるのは、確かに聞こえているからだ。
そのとき、保管庫の奥から――
ぱち。
乾いた音がした。
小さい。小さいのに耳に刺さる。刺さるのは、空っぽだからだ。中身がない音は、硬い。
ミドリが息を呑んだ。
「……そこ」
震える指が、奥の棚の影を指した。
棚と棚の間の暗い隙間に、木箱が一つ置かれていた。
木箱は普通の大きさだ。普通の板。普通の釘。普通のはずなのに、そこだけ空気が薄い。薄い空気は息を奪う。
レオンが一歩ずつ近づく。
「触れずに確認します」
私はすぐ後ろを歩く。歩幅を合わせる。合わせると落ち着く。落ち着くと衝動が減る。
木箱の前で、レオンが止まった。
箱にはラベルがない。番号もない。記録の外。記録の外にあるものは、危険だ。
レオンがしゃがみ、耳を澄ませた。
――ぱち、ぱち。
音が箱の中から鳴っている。誰も触っていない。鳴るのはおかしい。
私は背中の包みを押さえた。剣が反応し始める。終業の拍手が、空っぽになっている。剣にとっては、同じ形をした“壊れ方”だ。
『……これは、誉の死骸だ』
剣が低く言った。声が硬い。怒りじゃない。悲しみと嫌悪が混ざった硬さ。
誉の死骸。
喉が痛くなる。誉は本来、帰れの許可。終わりの線。その誉が死骸になって、拍手だけが残っている。
レオンが箱の蓋の隙間を見た。隙間は狭く、中は暗い。
「中に物は……見えません」
見えない。ない。ないのに鳴る。
ミドリが震える声で言った。
「……空なんです。空なのに鳴る」
空っぽの箱。
私は息を吸って吐いた。吐くと胸の圧が少し散る。散っても音は残る。
レオンが封印札を取り出した。
「保全します。封鎖し、移送」
封鎖。移送。手順。手順があると、心が暴れにくい。
けれど――箱はまだ鳴っている。
ぱち、ぱち。
まるで「もっと」と言っているみたいに。
背中の剣が、さらに熱を持った。熱は拍手の衝動につながる。衝動は危ない。爆発すればここが戦場になる。戦場になれば、ミドリは潰れる。
私は包みに手を当て、心の中で言う。
(抑えて。お願い)
『……承知……だが、近い』
返事が震えた。抑えているのに震える。傷に触れている震えだ。
レオンが封印札を貼ろうとした、その瞬間――
ぱち、ぱち、ぱち。
拍手が増えた。
増え方が不自然だ。誰も触っていない。なのに、音が“寄ってくる”みたいに鳴る。寄ってくる音は、呼ばれている音だ。
私は一歩下がり、足元を確かめた。滑らない。転ばない。転ぶと一気に押される。
レオンが即座に封印札を貼った。
貼った瞬間、音が一拍だけ止まった。
止まったのに、耳の奥に余韻が残る。余韻は怖い。言葉が残るときの残り方だ。
レオンが立ち上がり、淡々と言った。
「この箱は、流通の前段階です。刷られる前の“核”がここにある」
核。
つまり、版木や札束より前。言葉が形になる前。もっと根に近い。
ミドリが涙目で言った。
「私たちは、売ってただけで……」
売ってただけ。善意で支えたかった。疲れた人のために。笑ってほしかった。
でも結果は、帰れない仕組みだった。
私はミドリに短く言った。
「悪者にしない。区切って、止める」
ミドリの肩が震えながら、少し落ちた。落ちると息ができる。
そのとき私は、箱の底に目を凝らした。
封印札の下、木目の中に刻まれた小さな模様が見えた。
線。波みたいな線。羽みたいな線。
ただの木目じゃない。意図して刻んだ印。
「……刻印」
レオンが視線を向ける。
「何ですか」
私は背中の包みを、そっと抱え直した。抱えると、剣の存在がはっきりする。はっきりすると、目が冷静になる。
剣の刃文――刃の模様。あの模様に似ている。
箱の底の刻印は、剣の模様と同じ形だった。
背中の剣が、低く言った。
『……同じだ』
同じ。
繋がっている。偶然じゃない。
ミドリが震える声で言った。
「……それ、何の印なんですか」
私は答えようとして、言葉が詰まった。
分からない。でも言えることはある。根が同じだ、ということ。
レオンが代わりに淡々と言った。
「発話媒体が複数ある可能性があります。……そして、この箱は“源”に近い」
源。
背中の剣の熱が痛い。痛いのに逃げない熱だ。
剣が、絞るように言った。
『……持ち主よ。これは……俺の出自に触れている』
出自。
剣の過去が、ここにある。
保管庫の空気が、さらに薄くなった気がした。だから私は意識して息を吸って、吐いた。
「……ここからだね」
声が驚くほど静かだった。静かに言えたのは、境界を作ろうとしているからだ。
レオンが封印札を確認し、ミドリに向き直る。
「移送の手順を取ります。……協力者として記録します」
協力者。
その言葉に、ミドリの目が潤んだ。悪者にされない。止めたい側として扱われる。
ミドリは小さく頷いた。
「……はい。お願いします」
保管庫を出ると、紙の匂いが戻ってきた。戻ってきた匂いが、少し救いだった。紙は本来、ただの紙だ。紙に罪はない。
でも、空っぽの拍手が残る箱は、罪より厄介だ。
箱の底に刻まれた印。
剣の刃文と同じ模様。
刷られる前の空っぽが、ここにある。
私は背中の包みに手を当てた。
(話して。無理しない範囲で)
剣が短く返した。
『……夜に。……川辺で』
川辺で。
水音のそばで。言葉が少なくなる場所で。
私は小さく頷いた。
「うん。川辺で」
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