表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/35

第28話 倉庫:刷られる前の“空っぽ”

 保管庫の扉が開いた瞬間、匂いが変わった。


 紙の匂いはある。木の匂いもある。けれど、その上に――薄い冷たさが乗っている。冷たさは温度じゃない。空気の“重さ”だ。重いのに形がない。形がない重さは、胸を押す。


 私は反射で息を吸い、すぐに吐いた。


 吐くと、胸の圧が少し散る。散ると、足が出る。


 保管庫は広かった。倉庫というより、整った部屋だ。


 棚が並び、札の束が箱に入れられ、ラベルが貼られている。端正な字。揃った番号。揃いは安心を作る。けれど、ここで作られている安心は硬い。硬い安心は、呼吸を浅くする。


 レオンが先に入った。手袋をした手で棚の間隔を確かめるように歩く。慎重な歩き方。慎重さがあると、私も真似できる。


「危険の兆しは、音と温度で判断します」


 レオンが淡々と言った。


 私は頷いた。音と温度。ここでは、それが正しい。


 ミドリは入口で立ち尽くしていた。顔色が薄い。薄い顔は眠れていない顔だ。眠れていないのは、見ないふりを続けてきたからだろう。見ないふりは心を守る。でも長く続くと、心を削る。


「ミドリさん。ここで待ってもいい」


 私は短く言った。待ってもいい、は許可の言葉だ。許可があると、人は息ができる。


 ミドリは小さく首を振った。


「……見ます。見ないと、また……」


 また、の後が出ない。出ない言葉は怖い言葉だ。怖い言葉は、短いままでいいときがある。


 私は頷いた。


「じゃあ、息をしながら」


 ミドリがぎこちなく息を吸って吐いた。肩が少し落ちる。落ちた分だけ、人に戻る。


 棚の札箱は種類ごとに分けられていた。


「祝」

「弔」

「商」

「旅」

「終」


 最後の「終」の棚が、他より箱が多い。終業の箱が多い。それだけで嫌な予感がする。終業の道具が多すぎるのは、境界が効いていない証拠になりやすい。


 レオンが「終」の棚へ近づき、箱のラベルを読んだ。


「終業札/拍手付き/現行」


 現行。いま流れている品。


 箱の蓋は紐で縛られている。縛り方が丁寧だ。丁寧な縛りは、“大事なもの”を扱う縛りだ。大事なものほど、怖い。


 レオンが封袋を取り出し、ミドリに視線を向けた。


「開封の立ち会い、可能ですか」


 ミドリが頷く。頷いた指先が震えた。怖いのに頷いたのは、止めたいからだ。


 レオンは紐をほどいた。ほどく音が、やけに大きく聞こえる。耳が敏感になっている。


 蓋を持ち上げる。


 中には札が詰まっていた。白い札。端正な文字。短い文言。


 今日だけ。

 まだいける。

 立派だ。

 もっと。


 束になって並ぶと、言葉が“壁”になる。壁は人を押す。押されると、止まれない。


 喉の奥が乾いた。


 背中の包みが、じわりと熱を持った。


『……多い』


 剣が低く言った。嫌悪じゃない。痛みだ。守るためのはずの道具が、刃として積まれている痛み。


 レオンは札束の一部を封袋へ移した。手袋越しに紙を滑らせる。動きは速いのに乱暴じゃない。乱暴じゃないと、紙が“物”のままでいられる。


 私は箱の奥に、違う紙が混じっているのを見つけた。


 札ではない。原稿に近い束だ。端が少し毛羽立っている。筆跡が並び、ところどころなぞった跡がある。


「……これ」


 私が指差すと、レオンが視線を移した。


「原稿束です」


 レオンが原稿束を引き上げる。紙が擦れる音がする。普通の音のはずなのに、今日は拍手に似て聞こえてしまう。


 原稿には文言がいくつも書かれていた。しかも筆癖が一定しない。字が揃っていない。複数人が関わっているのだろう。複数人が、同じ文言を“なぞって”いる。


 なぞるのは、自分の言葉を持てないときだ。持てないと売れる型をなぞる。なぞると型が増える。増えるほど、中身が薄くなる。


 ミドリが小さく呟いた。


「……私は、読んでませんでした」


 読んでない。読めなかった。読むと責任が生まれるから。責任が生まれると、止めないといけなくなる。止めるのが怖かった。


 私は責めない。代わりに区切る言葉を置く。


「読まなくても、気づいてた?」


 ミドリは唇を噛み、頷いた。


「……鳴るから」


 鳴る。


 胸がきゅっと縮む。紙は鳴らない。鳴るのは空洞だ。


 レオンが周囲を見回した。


「音源は……この箱ではありません」


 淡々と断定する。断定は怖い。でも断定できるのは、確かに聞こえているからだ。


 そのとき、保管庫の奥から――


 ぱち。


 乾いた音がした。


 小さい。小さいのに耳に刺さる。刺さるのは、空っぽだからだ。中身がない音は、硬い。


 ミドリが息を呑んだ。


「……そこ」


 震える指が、奥の棚の影を指した。


 棚と棚の間の暗い隙間に、木箱が一つ置かれていた。


 木箱は普通の大きさだ。普通の板。普通の釘。普通のはずなのに、そこだけ空気が薄い。薄い空気は息を奪う。


 レオンが一歩ずつ近づく。


「触れずに確認します」


 私はすぐ後ろを歩く。歩幅を合わせる。合わせると落ち着く。落ち着くと衝動が減る。


 木箱の前で、レオンが止まった。


 箱にはラベルがない。番号もない。記録の外。記録の外にあるものは、危険だ。


 レオンがしゃがみ、耳を澄ませた。


 ――ぱち、ぱち。


 音が箱の中から鳴っている。誰も触っていない。鳴るのはおかしい。


 私は背中の包みを押さえた。剣が反応し始める。終業の拍手が、空っぽになっている。剣にとっては、同じ形をした“壊れ方”だ。


『……これは、誉の死骸だ』


 剣が低く言った。声が硬い。怒りじゃない。悲しみと嫌悪が混ざった硬さ。


 誉の死骸。


 喉が痛くなる。誉は本来、帰れの許可。終わりの線。その誉が死骸になって、拍手だけが残っている。


 レオンが箱の蓋の隙間を見た。隙間は狭く、中は暗い。


「中に物は……見えません」


 見えない。ない。ないのに鳴る。


 ミドリが震える声で言った。


「……空なんです。空なのに鳴る」


 空っぽの箱。


 私は息を吸って吐いた。吐くと胸の圧が少し散る。散っても音は残る。


 レオンが封印札を取り出した。


「保全します。封鎖し、移送」


 封鎖。移送。手順。手順があると、心が暴れにくい。


 けれど――箱はまだ鳴っている。


 ぱち、ぱち。


 まるで「もっと」と言っているみたいに。


 背中の剣が、さらに熱を持った。熱は拍手の衝動につながる。衝動は危ない。爆発すればここが戦場になる。戦場になれば、ミドリは潰れる。


 私は包みに手を当て、心の中で言う。


(抑えて。お願い)


『……承知……だが、近い』


 返事が震えた。抑えているのに震える。傷に触れている震えだ。


 レオンが封印札を貼ろうとした、その瞬間――


 ぱち、ぱち、ぱち。


 拍手が増えた。


 増え方が不自然だ。誰も触っていない。なのに、音が“寄ってくる”みたいに鳴る。寄ってくる音は、呼ばれている音だ。


 私は一歩下がり、足元を確かめた。滑らない。転ばない。転ぶと一気に押される。


 レオンが即座に封印札を貼った。


 貼った瞬間、音が一拍だけ止まった。


 止まったのに、耳の奥に余韻が残る。余韻は怖い。言葉が残るときの残り方だ。


 レオンが立ち上がり、淡々と言った。


「この箱は、流通の前段階です。刷られる前の“核”がここにある」


 核。


 つまり、版木や札束より前。言葉が形になる前。もっと根に近い。


 ミドリが涙目で言った。


「私たちは、売ってただけで……」


 売ってただけ。善意で支えたかった。疲れた人のために。笑ってほしかった。


 でも結果は、帰れない仕組みだった。


 私はミドリに短く言った。


「悪者にしない。区切って、止める」


 ミドリの肩が震えながら、少し落ちた。落ちると息ができる。


 そのとき私は、箱の底に目を凝らした。


 封印札の下、木目の中に刻まれた小さな模様が見えた。


 線。波みたいな線。羽みたいな線。


 ただの木目じゃない。意図して刻んだ印。


「……刻印」


 レオンが視線を向ける。


「何ですか」


 私は背中の包みを、そっと抱え直した。抱えると、剣の存在がはっきりする。はっきりすると、目が冷静になる。


 剣の刃文――刃の模様。あの模様に似ている。


 箱の底の刻印は、剣の模様と同じ形だった。


 背中の剣が、低く言った。


『……同じだ』


 同じ。


 繋がっている。偶然じゃない。


 ミドリが震える声で言った。


「……それ、何の印なんですか」


 私は答えようとして、言葉が詰まった。


 分からない。でも言えることはある。根が同じだ、ということ。


 レオンが代わりに淡々と言った。


「発話媒体が複数ある可能性があります。……そして、この箱は“源”に近い」


 源。


 背中の剣の熱が痛い。痛いのに逃げない熱だ。


 剣が、絞るように言った。


『……持ち主よ。これは……俺の出自に触れている』


 出自。


 剣の過去が、ここにある。


 保管庫の空気が、さらに薄くなった気がした。だから私は意識して息を吸って、吐いた。


「……ここからだね」


 声が驚くほど静かだった。静かに言えたのは、境界を作ろうとしているからだ。


 レオンが封印札を確認し、ミドリに向き直る。


「移送の手順を取ります。……協力者として記録します」


 協力者。


 その言葉に、ミドリの目が潤んだ。悪者にされない。止めたい側として扱われる。


 ミドリは小さく頷いた。


「……はい。お願いします」


 保管庫を出ると、紙の匂いが戻ってきた。戻ってきた匂いが、少し救いだった。紙は本来、ただの紙だ。紙に罪はない。


 でも、空っぽの拍手が残る箱は、罪より厄介だ。


 箱の底に刻まれた印。

 剣の刃文と同じ模様。

 刷られる前の空っぽが、ここにある。


 私は背中の包みに手を当てた。


(話して。無理しない範囲で)


 剣が短く返した。


『……夜に。……川辺で』


 川辺で。


 水音のそばで。言葉が少なくなる場所で。


 私は小さく頷いた。


「うん。川辺で」

ここまでお読みいただきありがとうございます。


もし続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ