第27話 羽組:善意で回る悪い仕組み
朝の紙の町は、昨日より眩しかった。
眩しいのは光が強いからじゃない。白いものが多いからだ。乾いた紙が並び、干された布が揺れ、壁の札が風に擦れる。白は光を拾う。拾いすぎると目が疲れる。目が疲れると、短い言葉が欲しくなる。
短い言葉は、考えなくていいから。
私は宿の前で革手袋を鞄に入れ直し、紐を締めた。手袋は火のためのものなのに、今は別の意味がある気がする。何かに触れるのが怖いとき、手袋は境界になる。境界があると、背負いにくい。
レオンが隣に立つ。手には書類袋。角が揃っている。揃った角は、彼の“手順”の形だ。
「羽組の事務所は、市の裏の通り。正門から入れます」
正門。正面。正しいルート。正しいルートは安心する。でも安心しすぎると油断する。油断すると刺さる。
私は頷いた。
「刺さらない言葉で行く」
「はい」
レオンの「はい」は短い。短いのに、受け止めがある。受け止めがある短さは頼れる。
背中の包みは静かだった。剣の熱が落ち着いている。落ち着きは良い。でも落ち着きすぎると怖い。怖いときは、確かめる。
(大丈夫?)
『……大丈夫だ。……押さない』
返事が返ってくる。返事があると、足が出る。
羽組の事務所は、町の白の中で、少しだけ違って見えた。
白い壁。白い扉。白い札。色は町と同じはずなのに、ここだけ“整い”が強い。整いすぎた白は、紙の白じゃない。磨いた骨みたいに硬い。
入口の前に案内板が立っていた。
羽組 文具・札 総合問屋
各種札のご相談承ります
働く現場を支える言葉もございます
支える言葉。
良すぎて怖い。良い言葉は、空気の中で勝手に広がる。広がると責任が薄くなる。責任が薄いまま広がる言葉は、刃になりやすい。
扉を開けると、紙の匂いが整って出迎えた。匂いまで整っている。整った匂いは、人の汗を隠す。
受付の机。帳簿。封筒。棚。全部が揃っている。揃っているものは美しい。美しいと人は安心する。安心は、ときに麻酔になる。
受付の奥から女性が出てきた。
二十代後半から三十前後。髪はきっちりまとめ、服は清潔。袖口が汚れていない。紙の町で袖口が汚れていない人は、紙を触らない人だ。触らない人は、現場の手の感触を知らないことがある。
女性はにこりと笑った。
「いらっしゃいませ。羽組へようこそ。ご用件をお伺いします」
笑顔は優しい。でも温度が薄い。薄い温度は“正しい言葉”でできた温度だ。
レオンが名乗る。
「管理局です。流通品の確認に来ました」
女性の笑顔が、一瞬だけ固まった。驚き。けれどすぐ整える。整えるのが上手い人だ。
「失礼しました。担当を呼びます」
言葉の切り替えが早い。隙がない。隙がない場所は怖い。
女性が奥へ下がろうとしたとき、私は一歩だけ前へ出た。
「少しだけ、聞きたい」
女性が振り返る。
「はい。何でしょう」
声は柔らかい。柔らかいのに、壁みたいに感じる。
私は言葉を選ぶ。刺さらないように。責めないように。
「終業札。……最近よく出てる。目的は?」
女性は即答した。
「働く方々を支えるためです」
支えるため。
善意の言葉。嘘じゃない。嘘じゃないから怖い。
私は続ける。
「支えた結果、事故が増えた場所は?」
女性のまつげが一瞬だけ揺れた。触れてはいけない場所を知っている揺れだ。
「……そのような報告は受けておりません」
受けていない、は、知らないじゃない。見ないに近い。
レオンが封袋を出し、紙片を机に置いた。置く動作が静かだ。静かに置くと、紙が“物”に戻る。
「文言が変化しています。『今日だけ』など」
女性の視線が紙片に落ちた。その瞬間、顔の温度が少し下がる。恐れではなく、計算に近い。計算が入ると、言葉が正しくなる。正しくなると、刺さる。
「流通は、需要に合わせて調整しております」
需要に合わせる。
需要は疲れだ。疲れに合わせると、刃が売れる。
私は息を吸って、吐いた。
「需要があるから、何でもいいわけじゃない」
刺さらないように言ったつもりだった。でも少し刺さったかもしれない。女性の口元がほんの僅かに硬くなった。
女性は丁寧に頭を下げる。
「ご懸念は理解します。ですが終業札は、多くの現場で喜ばれております」
喜ばれている。
喜ばれている事実がある。事実があるから止めづらい。止めづらいものほど危険は潜る。
女性は名札を指で整えた。
「ミドリと申します。担当部署へご案内します」
ミドリ。色の名前。白の中で、その名だけが柔らかく聞こえた。
ミドリの案内で奥の事務室へ通される。
廊下は長く、扉がいくつも並ぶ。扉の上に札が貼られている。
「受注」
「仕入」
「帳簿」
「文言調整」
最後の札を見た瞬間、背中の剣が少し熱を持った。
『……そこだ』
私は心の中で頷いた。文言調整。言葉を“売れる形”に整える机がある。
事務室の扉を開けると、空気がさらに整っていた。
机が並び、筆が揃い、紙束が揃い、印が揃い、帳簿が揃う。揃いは安心を作る。安心があると、人は疑わない。疑わないと仕組みが回る。
回る仕組みは止めづらい。
机の端に、見慣れた札束が置かれていた。薄い紙。端正な文字。短い文言。
今日だけ。
まだいける。
ミドリが穏やかに言う。
「こちらが現行品です。貼ることで気持ちを支える目的があります」
“気持ちを支える”。
正しい。正しいからこそ怖い。正しい言葉は、責任の場所を曖昧にすることがある。
レオンが淡々と確認する。
「事故増加の報告を見せてください」
ミドリは瞬きを一回した。判断の間。間があるのは救いだ。
「……データは、あります」
あります、と言ってしまった。
嘘がつけない人の言い方だった。嘘がつけないから、押されやすい。
ミドリは棚の奥から帳面を取り出した。手が少し震えている。恐怖じゃない。罪悪感に近い震えだ。見ていたのに、見ないふりをしていた震え。
帳面を開くと数字が並ぶ。
事故件数。休憩時間。作業時間。貼った札の種類。
私は数字を見て、胸が冷えた。
札が貼られた現場ほど休憩が短い。休憩が短いほど事故が増える。
数字は嘘をつきにくい。つきにくいから痛い。
ミドリが小さく言った。
「……最初は、良かったんです」
最初は良かった。
善意の始まりだ。
「現場の人が笑った。『貼っただけで、少し楽になる』って」
楽になるのは本当だ。本当だから売れる。本当だから止めづらい。
「でも……」
ミドリの目が宙を見た。宙を見る目。現実から逃げる目。
その瞬間――部屋の隅から、ぱち、ぱち、と乾いた音がした。
拍手。
小さいのに耳に刺さる。空洞を叩く音。
背中がぞわりとした。ここにもある。空っぽの拍手。
ミドリの肩がびくりと跳ねる。押されている肩だ。押されている人を責めると、余計に押される。
ミドリの口が勝手に動きそうになる。
「……立派です。もっと――」
声が出かけた。出かけた言葉は、彼女の言葉じゃない。借り物の言葉だ。
背中の剣が、低く息を吸う気配を見せた。
拍手を鳴らそうとする気配。
(だめ。一回だけでも、今は違う)
私は包みに手を当て、心の中で止めた。
剣が抑える。
『……承知』
抑えた代わりに、私は自分の声で境界を置いた。
「ミドリさん。息をして」
短い。具体的。押さない。
ミドリがはっとして息を吸った。吸って、吐く。吐くと目の焦点が戻る。
レオンが机を軽く叩いた。叩くのは一回。終業の形。
「発話媒体の影響が疑われます。……発生源を確認します」
ミドリが青ざめた。
「……そんな、ここは、ただの問屋です」
ただの問屋。言い切りたい。言い切りたいのに拍手が鳴っている。鳴っているなら、ただではない。
私はミドリを見る。責めない。区切る。
「ここで働いてる人たちは、止めたい?」
ミドリの唇が震えた。
「……止めたいです」
小さい声。でも本音。本音が出たなら、まだ戻れる。
そこへ隣の机の若い男が、顔色を変えて立ち上がった。
「ミドリさん、やめて。余計なこと言うと……」
若い男の目も怯えている。怯えは、仕組みに縛られている目だ。
「売上が落ちたら、町が困る。紙漉きも、運びも……全部」
全部。
全部を背負う言葉は危ない。全部を背負うと止まれなくなる。
私は言葉を選ぶ。刺さらないように。現実だけ置く。
「困る。だからこそ、事故が増える形は続けられない」
若い男が歯噛みする。
「でも、止めたら……」
「止めるんじゃない。形を変える」
私は言った。形を変える。終業の線を戻す。売れる言葉と同じくらい現場に効く“止まる言葉”を流す。
ミドリが目を見開いた。
「形を……変える」
言葉が彼女の中で繰り返される。繰り返されると、自分の言葉になる。
そのとき、部屋の隅の拍手が、もう一度鳴った。
ぱち、ぱち。
さっきより少し大きい。大きいと危ない。大きいと周りまで押される。
レオンが即座に言った。
「……ここに媒体がある。保全のため、封鎖します」
ミドリの顔が青くなる。
「待ってください! ここは、私たちの……」
“私たちの”。
泣きそうな声。自分の居場所が壊れる怖さ。怖さは善意を加速させる。加速すると拍手が増える。
私はミドリに短く言った。
「潰さない。守るために区切る」
ミドリの目が揺れる。揺れる目は、人の目だ。揺れるなら救える。
ミドリは小さく頷いた。
「……お願いします」
お願いが出た。お願いが出ると、責任を一緒に持てる。ひとりで背負わなくて済む。
レオンが手早く封袋を出し、机の札束を一部回収する。動きが速い。速いのに乱暴じゃない。乱暴じゃない速さは安心になる。
私は部屋の隅を見た。
拍手が鳴った方向。
そこに扉が一つある。小さな扉。札が掛かっている。
保管庫
保管庫。
そこに、空っぽの拍手が溜まっているかもしれない。
背中の剣が低く言った。
『……近い』
喉の奥が乾く。乾きは焦りの入口。入口に立ったら呼吸。
吸って、吐く。
「レオン」
「はい」
「保管庫、確認する?」
レオンは一瞬だけ目を細め、頷いた。
「手順の範囲で。……危険なら撤退します」
撤退します。
その言葉が胸を少し軽くした。撤退を言えるのは大事だ。撤退できるなら、生きて帰れる。
ミドリが震える声で言った。
「……中には、札箱があります。終業札用の……」
札箱。
言葉を溜める箱。拍手の空洞。
ミドリは唇を噛み、続けた。
「鳴るんです。誰も触ってないのに。……怖くて、見ないふりをしてました」
見ないふりは、自分を守るための手段だ。責められない。責めたら折れる。
私は短く言った。
「一緒に見よう」
ミドリが一瞬だけ泣きそうな顔になり、それから頷いた。
「……はい」
善意で回る悪い仕組み。
善意の人ほど押される。
だからこそ、境界が要る。
扉の前に立つと空気が少し冷えた。紙の冷えじゃない。空っぽの冷え。空洞の冷え。
レオンが封印札を用意しながら、淡々と言った。
「開けます」
扉が、ゆっくりと開いた。
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