第26話 言葉屋:褒めは矢印、終業は境界
夜の紙の町は、昼より白い。
昼は白が多すぎて、目が慣れてしまう。慣れると、白は背景になる。背景になると、何が白くて、何が汚れているのか分からなくなる。
でも夜は違う。
月明かりは白を選ぶ。選ばれた白だけが浮く。浮いた白は、隠したい汚れまで浮かせる。浮いた汚れは、見ないふりができない。
宿を出ると、風が紙を揺らした。
軒先に吊られた紙の房が、さらさら、と鳴る。さらさらは拍手に似ている。似ているから、胸が少しひゅっとなる。
私は足を止め、背中の包みに手を当てた。
(拍手は一回だけ)
剣が短く返す。
『……承知』
その返事があるだけで、足が前へ出る。
案内所で聞いた場所は、市の裏手だった。昼は露店が並ぶ通りを抜け、細い路地へ入る。路地は暗い。暗い路地は怖いはずなのに、今日は逆だ。暗いほうが言葉が少ない。言葉が少ないほうが息ができる。
灯りの下に、小さな木札が掛かっていた。
言葉屋 ナギ
飾りはない。金も箔もない。文字は端正。端正なのに、押さない。押さない字は、人の胸を急かさない。
レオンが一歩前へ出て、控えめに戸を叩いた。
トン、トン。
小さい音。小さい音は、相手の心を驚かせない。
しばらくして、内側から足音が近づく。足音が軽い。紙を扱う人の足音だ。火の町の足音とは違う。
戸が開いた。
立っていたのは若い人だった。
二十代半ばくらい。背は高くない。細身。黒い短髪。前髪が目にかかりそうで、たまに指で払う癖がある。淡い灰色の目は、灯りを受けると銀に見えた。銀は冷たい色なのに、この人の目は冷たくない。静かだ。静かさは、余計な熱がない。
「……ナギです」
声は低めで、ゆっくり。ゆっくりの声は、相手に呼吸の余地を渡す。
私はその声を聞いただけで、少し肩が下がった。下がる肩は、息が戻る肩だ。
レオンが淡々と名乗る。
「管理局、レオン。こちらはユイ」
ナギの視線が私に移り――そこで止まった。
止まった場所は、私の背中だ。
包み。
ナギは一瞬だけ目を細め、それから、驚くほど丁寧に頭を下げた。
「……失礼。お連れの方ではなく、そちらに」
そちら。
剣に向けた礼。
背中の熱が、ほんの少し揺れた。
『……』
剣が言葉を探している揺れ。
ナギが続ける。
「道具に礼をするのは変に見えるかもしれません。でも、終業を鳴らすものには礼が必要です」
終業を鳴らすもの。
言い切った。その言い切りに、知っている温度がある。知らない人の言い方じゃない。
剣が短く返した。
『……知っているのか』
包みの中からではなく、背中の内側に響く声。押さない低さ。
ナギは小さく頷いた。
「昔、見ました。……終業の拍手を“区切り”として使う現場を」
区切り。
胸の奥が少し温かくなった。区切りと言える人がいる。区切りを守る人がいる。それだけで救われる。
ナギは戸を大きく開けた。
「どうぞ。夜のほうが話せます。昼は言葉が多すぎて、形が崩れる」
形が崩れる。昼は崩れる。夜は整う。
その感覚は、私にも分かる。昼は人が多い。声が多い。言葉が多い。夜は減る。減ると、息が見える。
室内は、意外と質素だった。
机が一つ。棚が一つ。筆が数本。紙の束がいくつか。壁には札が貼られているが、どれも短い。短いのに派手さがない。派手さがないから、刺さらない。
湯の匂いがした。木の匂いもする。紙の匂いはあるけれど、昼の市みたいに鼻を刺さない。ここは“売り場”ではない。本来の仕事場だ。
ナギは私たちを座布団へ案内し、自分は机の向こうに座った。姿勢がまっすぐ。まっすぐなのに硬くない。硬さがないまっすぐは、丁寧さだ。
「用件は、川印と羽の印ですね」
先に言い当てる。話が早いと余計な言葉が減る。減ると助かる。
レオンが封袋を机に置いた。封袋は膨らんでいる。印のついた紙片が入っている。
ナギは手袋をして、封袋から紙片を取り出した。触り方が優しい。優しい触り方は、紙を“ただの紙”に戻しやすい。
印を見た瞬間、ナギの眉がほんの少し動いた。
「……流れてますね」
静かな言葉ほど、重い。
「川印は紙の町。羽は組合。表の組合です。……でも今の羽は、“売れる言葉”の羽になってる」
売れる言葉。
昼に見た露店の笑顔が、頭に浮かぶ。笑顔に悪意はない。悪意がないまま、売れる言葉は増える。
「売れる言葉って、何」
私が訊くと、ナギは迷わず答えた。
「効く言葉です。貼った瞬間に胸が軽くなる。背中が押される。手が動く。……それが売れる」
売れる理由が、怖いほど分かりやすかった。
ナギは紙を一枚置き、筆を取った。墨を少しだけ含ませる。墨の匂いがふわりと広がる。墨の匂いは、考える匂いだ。
「言葉は矢印です」
ナギは紙の上に一本の矢印を描いた。右向き。
「褒めは、前へ向かう矢印」
矢印の先に「褒」と書く。墨が乾く前に、線が少し滲む。その滲みが、人の息みたいに見えた。
「終業は、境界線」
ナギは矢印の途中に、縦の線を一本引いた。
――|
たった一本で、矢印が“止まれる矢印”になる。
「境界線があると、人は止まっていいと思える。止まっていいと思えると、呼吸が戻る」
呼吸が戻る。戻ると判断が戻る。判断が戻ると怪我が減る。
ナギは縦線を指で軽く叩いた。
「でも、売れる褒めは――この線を嫌う」
嫌うのは、線があると“効き”が落ちるからだ。効きが落ちると売れない。売れないと流通しない。
「線がない褒めは、加速だけが残る。加速は気持ちいい。気持ちいいから、手が止まらない」
ナギは縦線を、指でさっと消す仕草をした。実際には消えない。でも、仕草だけで分かる。線がない世界が見える。
喉の奥が少し苦くなった。
「……誰が消したの?」
ナギは筆を置いた。
「意図は一つじゃないです。組合の中には、純粋に“支えたい”人もいる。支えたい人ほど、効く言葉を求める」
支えたい人ほど、危ない。
善意は、加速装置になる。
レオンが淡々と訊く。
「文言が変化しています。『今日だけ』など」
「現場を見ています」
即答だった。
「机の上で作った言葉じゃない。現場の痛みを知ってる人が調整してる。だから刺さる。刺さるから売れる」
刺さるから売れる。
連鎖の形が、胃のあたりを冷やした。
ナギは棚から古い紙束を取り出した。少し黄ばんだ紙。古い紙は時間の匂いがする。時間の匂いは嘘をつきにくい。
「昔の誉め札は、止めるための言葉が中心でした」
広げられた紙には、薄い文字が残っている。
息をしろ。
手を洗え。
火を閉じろ。
今日は十分だ。
短い。具体的。終わりへ向かう言葉。
ナギは最後の行を指でなぞった。
「ここが要です。“十分だ”。これが境界線」
私は背中の包みに手を当てた。剣の熱が少し揺れる。嬉しさではない。傷が撫でられた揺れ。
ナギが続ける。
「今の流通品は、ここを削ってます」
ナギは新しい札の束を取り出した。白い紙。端正な文字。短い文言。
今日だけ。
まだいける。
もっと。
「終わりがない。終わりがないと、人は帰れない」
帰れない。
それは命が削れることだ。命が削れれば町が壊れる。町が壊れれば言葉がもっと欲しくなる。欲しくなれば売れる。売れれば終わりが消える。
輪になってしまう。
レオンが問いを置く。
「羽組の中に、止めたい人がいるという話を聞きました」
ナギは少しだけ目を伏せた。
「います」
短く言ってから、慎重な沈黙が落ちた。沈黙の重さは、守りたい誰かがいる重さだ。
「止めたいのに止められない。売上が町の税と雇用を支えてる。止めたら困る人が出る。……困る人が出ると、また“今日だけ”が増える」
言葉が輪になっている。輪はほどきにくい。
私は息を吸って、吐いた。
「……ほどける?」
ナギが私を見る。まっすぐ。まっすぐなのに刺さらない。境界を持った目だ。
「ほどけます。線を引けば」
線。境界線。
「終業を戻す言葉を、流通させる。売れる言葉に負けないくらい、現場に効く形で」
効く形で。
胸が少し熱くなる。熱くなると危ない。でもこれは焦りじゃない。向きがある熱だ。
背中の剣が低く言った。
『……誉は、帰れの許可だった』
少し震えている。震えは弱さじゃない。傷の形だ。
ナギが静かに頷いた。
「そう。褒めは“もっとやれ”だけじゃなくて、“ここまででいい”でもある」
ここまででいい。
その言葉で、部屋の空気が少し柔らかくなった。柔らかい空気は息を通す。
レオンが淡々と言う。
「流通の中心を知りたい」
ナギは机の引き出しから小さな帳面を出した。端が擦れている。擦れは使われた証拠だ。
「中心は問屋です。名前は……羽組。その中でも札をまとめる部署。裏で“売れる文言”を作る机がある」
ナギは続けた。
「表の顔は、文具と札の組合。裏で、言葉を商品にしてる」
商品にする。
昼の露店の声がよみがえる。貼るだけで整う。仕事がはかどる。優しい売り文句。優しいから刺さる。
ナギが少し声を落とす。
「でも、羽組の中にも止めたい人がいる。……その人を潰さないでください」
その頼みは重い。でも重いから、信じたい。
私は頷いた。
「責めない。区切る」
口に出してしまった。
言った瞬間、自分の中に線が引かれる感じがした。線が引かれると、背負うものが少し整う。
ナギが微かに口元を緩めた。
「……それなら話せます」
ナギは紙に印を描いた。川と羽。小さな印。そこに、もう一つだけ点を加える。
「この点が、問屋の“札箱”の印です。空っぽの拍手を溜める箱がある」
空っぽの拍手。
胸が冷えた。拍手は本来、終わりを作る音だ。その拍手が空っぽになると、人を押す音になる。
剣の熱が一瞬だけ強くなる。
『……箱は、危険だ』
低い警告。押さない怒り。
ナギは頷いた。
「危険です。だから、終業の線を戻す必要がある。線が戻れば、箱はただの箱になります」
ただの箱。
ただの箱に戻す。戻せるなら、希望だ。
部屋の外で、風が紙を鳴らした。さらさら。さらさら。拍手に似ている。でも拍手ではない。紙の音だ。
ただの音に戻せば、世界は少しだけ静かになる。
ナギが立ち上がり、戸口まで私たちを送った。
「明日の昼は、羽組の事務所が開きます。正面から行ってもいい。でも……」
ナギは言葉を切り、目を細めた。
「“正しい言葉”ほど刺さります。刺さらない言葉を選んでください」
刺さらない言葉。
私は頷いた。
「押さない。終わりを作る」
ナギが頷く。
「それで十分です」
十分。
その言葉が、ここでも守りの形で使われた。胸が少し温かくなる。
路地へ出ると、夜風が頬を撫でた。紙の匂いが薄くなり、木と水の匂いが残る。水の匂いは息を通す匂いだ。
背中の剣が小さく言った。
『……持ち主よ』
「なに」
『……線を、守ろう』
線を守ろう。
私は小さく頷いた。
「うん。線を守る」
夜の紙の町は白い。でも、その白はただの白じゃない。売れる白と、守る白がある。
守る白を選ぶために、私たちは歩く。言葉が多すぎる場所で、終業の境界を引くために。
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