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第25話 紙の町:白い匂いは手に残る

 川の匂いは、火の匂いと違って、胸の奥まで入り、そこでふわりとほどける。


 水が石を撫でる音。葉が擦れる音。荷車の車輪が土を踏む音。どれも軽い。軽い音の中にいると、自分の呼吸が深くなるのが分かる。呼吸が深くなると、身体が少しだけ「戻れる形」になる。


 私は荷車の縁に手を置き、指先で木のささくれをなぞった。ささくれがあると安心する。完璧に整ったものは、どこか嘘みたいだから。


 やがて、川沿いの景色が変わった。


 白いものが増える。


 最初は布だった。川岸の杭に結ばれた布。次に、板に張られた紙。さらに、家の軒先から垂れた紙の房。風に揺れて、白が揺れる。白は光をよく拾うから、町全体が少し明るく見える。


 御者が顎で前方を示した。


「着いたぞ。紙の町だ」


 紙の町。


 その名前だけで、指先が少し冷える。煤で黒い町しか知らない人間にとって、白は眩しい。眩しいものは、汚れが目立つ。汚れが目立つ場所は、隠したくなる。隠したくなると、言葉が回り出す。


 荷車が橋を渡ると、白い匂いが鼻をくすぐった。


 木の皮を煮た匂い。湿った繊維の匂い。乾きかけの紙の匂い。どれも新しい匂いで、少しだけ甘い。甘さは優しさに似ている。優しさに似ているから、油断する。


 私は荷車から降り、足元の土を踏んだ。


 土が柔らかい。柔らかい土は音を吸う。音が吸われると、声が通る。声が通る町は、噂も通りやすい。


 通りは忙しかった。


 紙を干す竿が並び、白い紙が風で揺れている。紙が揺れるたび光が揺れる。光が揺れると目が疲れる。目が疲れると、短い言葉が欲しくなる。短い言葉は考える余地を減らしてくれるからだ。


 レオンが隣に立ち、周囲を淡々と見回していた。視線が速い。速いのに落ち着いている。落ち着いた速さは、規定の人の速さだ。


「紙漉き場が多い。……運びの拠点として理にかなっています」


 私は頷いた。


「白いね」


 言ってから、自分の言い方が子どもみたいで少し恥ずかしくなる。でも、白いものは白い。無理に言い換える必要はない。


 背中の包みに手を当てると、剣の熱は静かだった。


 いつもなら何か言ってくる。短くても、押さない形で存在を示してくる。けれど今は――沈黙。


 沈黙は怖い。怒っているのか、怯えているのか分からないからだ。分からないと、人は勝手に想像してしまう。想像が膨らむと、また背負う。


(大丈夫?)


 心の中で問いかける。返事はない。熱も揺れない。剣が息を潜めているみたいだった。


 レオンが一枚の札を指差した。


 道の脇の掲示板。宿の案内。荷の注意。乾燥場への立ち入り禁止。そして――看板のような札がいくつも並んでいる。


 言葉が多い。


 言葉が多いと目が滑る。目が滑ると、人は一番目立つ短い札だけを拾う。


 その短い札が並んでいた。


 「祝・安全祈願」

 「合格祈願」

 「恋文代筆」

 「商売繁盛」

 「終業の札(拍手付き)」


 最後の一行で、胸がきゅっと縮んだ。


 終業の札。拍手付き。


 それがここでは、堂々とした売り文句になっている。


 通りを進むと、言葉屋の市が見えた。


 露店の布が張られ、机の上に札がずらりと並ぶ。白い紙に黒い文字。赤い印。金の箔。飾り紐。紙なのに布みたいに揺れる。


 言葉が飾られると、言葉は「物」になる。物になると、売り買いできる。


 売り買いできる言葉は便利だ。


 便利なものは、人を甘やかす。甘やかされると、人は自分の呼吸を忘れる。


 露店の店主が朗らかに叫んだ。


「終業札! 今日も大人気! 貼るだけで気持ちが整う! 仕事がはかどる! 一枚いかがですか!」


 はかどる。


 その言葉が、耳の奥で嫌な形に残った。はかどること自体は悪くない。でも「止まれない町」では刃になる。その刃が、ここでは笑顔で売られている。


 笑顔に悪意はない。悪意がないから、止めづらい。


 私は露店の札を見た。


 「よくやった」

 「立派だ」

 「まだいける」

 「今日だけ」

 「終業の拍手(特別版)」


 文字は端正だ。端正な文字は信用される。信用されると刺さる。刺さったら、止まれない。


 背中の剣が、ほんの僅かに温度を下げた。


 下げた、というより、冷えた。


 私は反射で包みを抱えた。抱えると、剣がただの物じゃないと分かる。分かると少し安心する。でも、安心しすぎると背負う。抱えるのは一瞬でいい。


 レオンが店主に近づこうとしたとき、私は袖を引いた。


「……ここは、まず見るだけ」


 レオンは一拍置いて頷いた。


「了解。刺激は避けます」


 刺激は拍手を呼ぶ。拍手は空洞を増やす。


 私たちは市の端をゆっくり歩いた。歩きながら、匂いと音と人の顔を拾う。顔が分かると、世界がただの敵味方じゃなくなる。敵味方じゃないなら、乱暴な手は使えない。乱暴な手を使わないほうが、長く守れる。


 市の奥では、紙漉き職人が紙の束を運び、言葉屋が筆を走らせていた。


 筆の音は、火床の槌と違って静かだ。静かな音は刺さりやすい。刺さると心の奥へ入ってくる。入ってくると、言葉が増える。言葉が増えると、人は買いたくなる。


 私は胸が少しざわついているのを感じた。


 恐怖ではない。情報が多すぎるざわつきだ。情報が多いと判断が鈍る。判断が鈍ると、短い札に頼りたくなる。頼ると、刺さる。


 この町は、そういう流れを自然に作っている。


 露店の間を抜けたところに、小さな茶屋があった。外の騒ぎが一段落ちる位置。紙の町なのに、木の匂いが強い。木の匂いは落ち着く。落ち着く匂いは、話を引き出す。


 中に入ると、湯気がふわりと広がった。湯気は目の前を少し曇らせる。曇ると、白さの眩しさが和らぐ。


 私たちは隅の席に座った。背中が壁につく席。後ろを気にしなくていいだけで、呼吸が少し楽になる。


 湯呑みが運ばれてきて、私は両手で包んだ。


 温かい。温かいと、胸の緊張が少しほどける。


 そのとき、背中の剣が、やっと小さく息をするように熱を揺らした。


『……』


 声にならない揺れ。言葉が出ないときの揺れだった。


 私は囁くように、心の中で言った。


(苦手?)


『……多い』


 剣が、二文字だけ返した。


 多い。


 言葉が多い。札が多い。褒めが多い。拍手が多い。


 多いものは境界を溶かす。境界が溶けると、終業が消える。


 私は湯を一口飲んで、喉を潤した。


「うん、ここ……多いね」


『……誉が、軽い』


 剣の声が低い。怒りではない。悲しみに近い温度。


 誉が軽い。


 誉が軽いと、褒めは空っぽになる。空っぽの褒めは、押す。押されると、人は止まれない。


 レオンが湯を置き、淡々と言った。


「接触先を確保します。噂の言葉屋――ナギ」


 ナギ。名前を聞くと、風の匂いがする気がした。風は境界を作る。煙を散らす。息を通す。


 私は頷いた。


「昼は会えないって聞いた」


「はい。昼は売り場対応が多く、言葉が過剰。夜のほうが本来の仕事をする、と」


 本来の仕事。


 言葉を売るのではなく、言葉の形を整える仕事。


 私は湯呑みの縁を指でなぞった。丸い縁は落ち着く。角がないものは刺さらない。刺さらないものは、人を守る。


 向こうの席で、旅人が話していた。


「終業札、買ったよ。貼るだけで気がしゃんとする」

「いいな。うちは人が足りなくてさ」


 普通の会話だ。普通だから怖い。普通の会話で流通が回る。流通が回ると止めづらい。


 私は湯呑みを置き、レオンに小声で訊いた。


「ナギに会えたら、何を聞く?」


 レオンは迷いなく答えた。


「印のこと。流通の中心。文言の変化。……そして『終業を削る意図』」


 意図があるなら責任がある。責任があるなら、止められる可能性がある。


 私は自分の手のひらを見た。触っていないのに、紙の繊維が残っている気がする。匂いが移る。白い匂いは手に残る。


 この町の白は、綺麗な白だけじゃない。言葉の白は、汚れを隠す白にもなる。


 茶屋を出ると、風が紙を揺らした。紙がぱらぱらと鳴る。ぱらぱら、は拍手に似ている。似ているから、胸がひゅっとなる。


 私は包みを抱え直した。


(拍手は一回だけ)


 剣が小さく返す。


『……承知』


 その返事だけで、少し救われた。剣がここにいる。剣が、押す側へ行かないように自分で抑えている。


 案内所へ向かう。案内所は紙の束でできているみたいだった。掲示板。地図。規約。案内札。町全体が「読め」と言ってくる。


 受付の若い男が、にこにこしながら言った。


「宿をお探しですか? それとも言葉屋のご用件?」


 言葉屋の用件、と言われただけで、ここでは珍しくないのだと分かる。珍しくないからこそ、危険も混ざる。


 レオンが淡々と告げた。


「ナギに取り次ぎを」


 受付の男の笑顔が、ほんの少しだけ慎重になる。ナギが「ただの店員」ではないのだろう。


「ナギさんは……昼は動けません。夜になります」


 受付の男は声を少し落とした。


「日が落ちて、市が静まってから。言葉が少なくなる時間にだけ、会います」


 言葉が少なくなる時間。


 私はその条件に、ほっとした。言葉が少ないなら境界が作れる。境界が作れるなら終業が戻る。


 受付の男が付け足す。


「ただし、夜は“売り物の言葉”を持ち込まないでください。ナギさん、嫌がります」


 売り物の言葉。


 私は頷いた。持ち込まない。持ち込めば、また押す。


 宿へ向かう途中、露店の店主がまた声を張り上げた。


「終業札! 一枚で、明日が変わる!」


 明日が変わる。


 甘い言葉だ。疲れた胸に刺さる。刺さると、買いたくなる。買うと、任せたくなる。任せると、呼吸を忘れる。


 私は反射で目を逸らし、足元を見る。土の上に紙の切れ端が落ちている。踏まないように避ける。拾わない。拾うと背負う。


 宿に着くと、部屋の中は少し暗かった。白い町なのに、宿の部屋は木の色だ。木の色があるだけで落ち着く。


 私は荷を下ろし、壁にもたれた。背中が壁につくと身体が緩む。緩むと眠気がくる。眠気は正しい。眠れるなら、生きている。


 背中の剣が、やっと小さく言った。


『……夜になれば、話せる』


「うん。夜になったら、会いに行こう」


 そう答えて、私は目を閉じた。白い匂いがまだ指先に残っている。でも、湯の匂いと木の匂いが、それを少しずつ薄めていく。


 窓の外で、市の声が遠くなっていく。


 言葉が減る時間が近づいている。


 ナギに会えるのは、夜。


 昼の「売れる言葉」が眠る時間に。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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