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第24話 宿場:今日だけの罠

 宿場町の昼は、足音でできている。


 板の床を叩く靴。土の道を蹴る草履。荷を引く車輪。桶を運ぶ水の音。声はその上に薄く乗るだけで、主役はいつも「動き」だ。


 動きが多い場所は、止まるのが難しい。


 止まれない場所では、短い言葉がよく売れる。短い言葉は、考える余地を減らしてくれるからだ。余地が減ると楽になる。楽になると、人はそれを欲しがる。


 私は宿の入口で足を止め、壁の貼り紙を見上げた。


 白い紙が何枚も重なっている。湯の値段、馬の預かり、荷の注意、夕方の便。どれも必要な情報だ。必要な情報の中に、必要そうに見えるものが混ざると、逆に目立つ。


 目立っているのは一枚。


 薄くて、白くて、糊が新しい。


 ――今日だけ。


 たった四文字が、妙にやさしい顔をしていた。


 今日だけなら。

 今日だけなら、頑張れる。

 今日だけなら、延ばしてもいい。


 そのやさしさが、怖い。


 レオンが隣で淡々と言った。


「この言葉は、終業を否定しません」


 否定しない。そこが罠だ。


 終業を否定する言葉は、反発を呼ぶ。反発が出れば剥がされる。剥がされれば、流れが止まることもある。止まらないとしても、目立つ。


 でも「今日だけ」は違う。


 終業があるふりをして、終業を先延ばしにする。先延ばしは優しさに見える。優しさに見えるから、誰も責めづらい。責めづらいから、止めづらい。


 喉の奥が少し乾いた。


 乾きは焦りの入口だ。入口に立ったら、足元を見る。


 足元は板の床。隙間に砂。宿場の砂は細かい。細かい砂は滑りやすい。滑りやすい場所で走れば転ぶ。転べば――全部が崩れる。


 私は息を吸って、吐いた。


「剥がしたくなるね」


「剥がすだけでは、また貼られます」


 規定の返答。冷たいけれど、今は助かる。冷たいからこそ、私の衝動を冷やしてくれる。


 宿の中から忙しい声が飛んできた。


「次の部屋、布団足りない!」

「湯、まだか!」

「荷の受け取り、誰がやるんだ!」


 声が短い。余裕がない声だ。余裕がない声は、「今日だけ」と相性がいい。刺さりやすい。


 入口の脇で、主人らしい男が帳場と往来を行き来していた。目の下に影。寝不足の影は判断を削る。


 私は主人に声をかけた。


 責めない。

 事実。

 手順。


「忙しそうですね」


 主人がこちらを見た。視線が一瞬ぼやける。疲れている目だ。


「忙しいよ! 見りゃ分かるだろ!」


 強い声。強い声は、守ろうとする声でもある。


 私は頷いた。頷くと、相手の強さを受け止められる。


「壁の貼り紙、これ……見覚えあります?」


 私は「今日だけ」を指差した。指差すだけ。剥がさない。剥がせば面子が潰れる。面子が潰れると会話が止まる。


 主人は貼り紙を見て、顔をしかめた。


「ああ……誰かが貼ってった。悪いことは書いてないだろ? むしろ助かる」


 助かる。


 その言葉が胸に刺さった。


 助かる感覚は本物だ。だからこそ危ない。本物の助かりは、人を止めにくくする。


 私は短く言った。


「助かる、の後に困る人が出ます」


 主人の眉が動いた。


「困る?」


「『今日だけ』が積み上がって、今日が終わらなくなる」


 主人が言い返そうとした瞬間、背中の包みがわずかに熱を持った。


『……言葉は刺さる。刺さる前に、段取り』


 剣の声は小さい。落ち着いている。押さない。良い。


 私は頷き、言葉を増やさずに続けた。


「提案があります」


 主人が鼻で息を吐く。


「提案?」


「剥がすより先に、休む仕組みを置きませんか」


 主人の目が少しだけ戻る。「仕組み」は現場の言葉だ。現場は仕組みで回る。


 レオンが一歩前に出て、淡々と名乗った。


「管理局です。事故予防の指針に基づき、簡易対応を提案します」


 肩書きは反発を呼ぶこともある。でも宿場は限界に近い。限界のとき、責任の形がある言葉は効く。


 主人は舌打ちしそうになり、途中でやめた。


「……で、何すりゃいい」


 私はすぐ答えた。間を空けると、主人の決意が萎む。


「四つです。短いです」


 短い、と言い切る。忙しい人の耳に入る形にする。


「一つ目。貼り紙は剥がさない。代わりに、休憩の合図を作る」


「合図?」


「鐘、鳴らせますか」


 主人は入口の梁を見上げた。小さな鐘が吊られている。客の呼び鈴みたいなものだ。


「あれか……鳴らせる」


「二つ目。役割を分けます。帳場、配膳、荷受けを三つに」


 主人が眉を寄せる。


「人が足りない」


「足りないなら短時間交代。十五分だけ入れ替える」


 十五分。具体的だ。具体的な数字は現場の不安を減らす。


「三つ目。湯を回す。無料でいい。小椀でいい」


 主人の口が開きかけた。


「無料――」


「無料の湯は、喧嘩を減らします。声が短くなるのを止められます」


 短い声は喧嘩の種だ。喧嘩が増えると宿が壊れる。宿が壊れれば今夜が壊れる。


「四つ目。『今日だけ』の隣に、これを貼る」


 私は鞄から札を一枚出した。白い紙に短い文字。


 ――明日に渡せ。


 主人が目を瞬かせた。


「明日に……渡せ?」


「今日を伸ばすんじゃなく、明日に回していいって意味です。終わりを、明日に繋ぐ」


 主人は黙った。


 黙りは拒否じゃない。考えている黙りだ。考える余地が残っているなら、まだ戻せる。


 そこへ宿の奥から若い女の声が飛んだ。


「親方! 湯が足りません!」


 主人の肩が跳ねる。焦りの肩。焦りは「今日だけ」に引っ張られる。


 私は焦りの外側に立つ。


「鐘、鳴らしましょう」


 主人が私を見る。


「鳴らして、どうすんだ」


「休憩の合図にする。今、誰かが止まると、全員が止まれます」


 全員止まれと言うと反発が出る。誰かが止まる、なら現実的だ。


 主人は歯を食いしばり、梁の鐘を掴んだ。


 ――ちりん。


 小さな音。小さいのに、空気が一瞬だけ変わる。


 声が止まる。足が止まる。視線が集まる。


 宿の中の人たちが一瞬だけ「何?」という顔をした。その一瞬が境界だ。


 主人が怒鳴った。


「休憩! 水と湯を回せ! 荷受けは一旦止める! 帳場は俺が見る!」


 怒鳴り声なのに、不思議と刺さらない。刺さらないのは、指示が具体的だからだ。具体的な指示は安心を作る。


 若い女が驚いた顔で頷き、走り出した。


「分かりました!」


 主人が振り返り、私に言う。


「交代はどう回す」


 私はすぐ答える。


「帳場はあなた。配膳は二人で交代。荷受けは一人ずつ十五分。交代の札を紙に書いて壁へ」


 レオンがさっと紙を出し、文字を書いた。読みやすい字。読みやすい字は、現場を助ける。


 私は「明日に渡せ」を貼る場所を示した。


「ここ。『今日だけ』の隣」


 主人が頷く。


「貼れ」


 許可が出た。許可が出たら迷わない。迷うと空気が元に戻る。


 私は札を貼った。糊が乾くまで指で押さえる。押さえる時間が、私の呼吸にもなる。


 貼り終えた瞬間、背中の剣が息を吸いかけた。


 褒めが来る気配。


(だめ。押さない)


 私は包みに手を当てた。


『……承知』


 剣は飲み込んだ。飲み込めた。飲み込めたことが嬉しい。でも嬉しいも出しすぎない。出しすぎると、また背負う。


 宿の中では湯が回り始めた。小さな椀が配られる。椀が手に渡るたび、声が少し柔らかくなる。柔らかくなると喧嘩が減る。喧嘩が減ると空気が戻る。


 私は遠目に見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 止める言葉は、言葉だけじゃ足りない。


 鐘。交代。湯。掲示。


 段取りが、言葉の刺さり方を変える。


 レオンが小声で言った。


「言葉が変わるのは、作り手が現場を見ているからです」


 私は頷いた。


「机の上じゃない。近い」


「近い。……だから慎重に」


 慎重に。私の胸が少し落ち着く。焦ると相手の土俵に乗る。土俵に乗ったら負ける。


 宿場を出る前に、私はもう一度壁を見た。


 今日だけ。

 明日に渡せ。


 二つの短い札が並ぶだけで、空気に「選べる余地」が生まれる。余地があれば、人は自分に戻れる。


 帳場の奥から主人が顔を出し、ぶっきらぼうに言った。


「……助かった」


 助かった、と言われると胸がふわっとする。ふわっとしたまま受けると背負う。


 私は一拍置いて、短く返す。


「よかった」


 押さない言葉。事実への安堵。


 主人は鼻で笑って、すぐ奥へ引っ込んだ。照れの逃げ方。照れがあるなら、この宿はまだ温かい。


 荷車に戻る道で、レオンが荷札の束を確認していた。


 その手が、ふと止まる。


「……これ」


 レオンが一枚の荷札を掲げた。川と羽の印がある。けれど印の周りの紙が少し削れている。薄い剥がし跡。上から貼り替えた跡。


 新しい糊の匂いが、わずかに鼻を刺す。


「貼り替えられています」


 レオンが淡々と言う。


「最近」


 背中が冷えた。最近、は今だ。今ここを通ったということだ。言葉屋の流れが、この宿場を通っている。しかも痕を残すほど頻繁に。


 背中の剣が低く言った。


『……羽は、近い』


 近い。


 私は荷車の木の床に触れ、硬さを確かめた。硬さは現実だ。現実に触れると、恐怖が少し形になる。形になれば抱えられる。


 レオンが荷札を封袋に入れた。


「証拠になります。……紙の町へ向かう便に、確実につながります」


 私は頷いた。


「行こう。焦らず、急ぐ」


 止まらず、走らず。足元を見て進む。


 荷車が動き出す。車輪が砂を踏む音。川風が髪を揺らす音。遠くで鐘がもう一度、小さく鳴った。


 宿場に、休憩の境界が残っている証拠だ。


 私はそれを背に、白い匂いの方角へ視線を向けた。


 言葉が多い町へ。

 言葉を「良い形」にする人がいる町へ。


 そして――「今日だけ」を作る誰かの息づかいが、もっとはっきり聞こえる場所へ。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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