第23話 出立:褒めない旅支度
荷車の木の床は、思ったより硬かった。
硬い床に座ると、背筋が勝手に伸びる。背筋が伸びると、呼吸が浅くなる。浅い呼吸は、火の前で踏ん張るときの呼吸に似ている。頑張るための呼吸。頑張りすぎる呼吸は、危ない。
私は膝の上で手を組み直し、ゆっくり息を吸って、吐いた。
吐くと、身体の中の「押されている感じ」が少し薄くなる。
荷車の前方で、御者が縄を締め直していた。縄がきしむ音がする。きしむ音は、出発の音だ。出発の音は胸をきゅっとさせる。寂しいからじゃない。背負うものが増える気がするからだ。
レオンが向かい側に腰を下ろし、鞄を膝に置いた。鞄の角がきちんと揃っている。揃った角は、彼の「手順」の形だ。
「旅の予定を確認します」
淡々とした声。熱を入れない声は、今は助かる。熱が入ると、焦りやすい。
私は頷いた。
レオンは紙を一枚取り出した。厚めで丈夫な紙――管理局の紙だ。破れにくい紙は、責任を運ぶ紙でもある。
「川沿いの便に乗り、宿場を二つ経由。紙の町に入るのは三日後。途中、荷の集まる場所で貼り紙が増える可能性があります」
貼り紙。新しい札。言葉の流れ。頭の中で線がつながり、胸の奥が少しざわつく。
私は息を吸って、吐いた。
「途中で、変な札があったら?」
「回収は最小限に。封袋を使います。……現場では、段取りを優先します」
段取り優先。ありがたい言葉だ。言葉に言葉でぶつかると、どちらも刺さる。刺さらないためには、手順がいる。
背中の包みが、ふっと温かくなる。
『……持ち主よ。準備は整っている』
剣の声はいつもより静かだ。褒めの形でも、押してこない温度。
(押しすぎないでね)
『……承知』
短い返事。最近、短く返せるようになってきた。短いほうが、心が乱れない。
荷車がぎしりと鳴って、動き出した。
町の石畳が遠ざかる。槌の音が薄くなる。火の匂いが少しずつ減り、土と草の匂いが増える。草の匂いは、胸の奥を軽くする。軽い匂いがあると、人は「帰れる」気がする。
そのとき、荷車の後ろから声がした。
「おい」
低く短い呼びかけ。振り返ると、ジルが立っていた。腕を組み、眉間に皺。口はへの字。怒っている顔に見える。でも、目が冷たくない。守りたいものがある目だ。
ジルは荷車に近づき、何も言わずに私の手に小さな包みを押しつけた。
革手袋。厚い革。指先が丈夫で、手の甲が二重になっている。火の前で使うための形。
それと、もう一つ。
小さな壺。蓋に布が巻かれている。匂いを確かめる前に分かる。火傷止めの軟膏だ。薬草と油の匂い。痛みを抑える匂い。
「……これ」
ジルはそれだけ言った。
私は受け取り、言葉を探した。「ありがとう」でもいい。でも、盛ると背負いそうになる。背負うと、長く動けない。
盛らない。短く。
「助かる」
それだけ言った。
ジルは鼻で息を吐いた。笑っていない。でも、その息が少しだけ柔らかい。
「お返しは要らねぇ」
借りを作らない言葉。借りが増えないなら、私は背負わずに済む。背負わなければ、長く動ける。
ジルは視線を私の背中の包みに一瞬だけ向けた。怖がってはいない。警戒はある。でも、拒んでいない。
「……帰ってこい」
その言葉は命令じゃない。祈りに近い。生きて戻れ、が混ざっている。
私は頷いた。
「帰る」
言い切ると重い。でも、言い切らないと帰り道が曖昧になる。曖昧だと迷う。
荷車の周りに、数人の職人が集まっていた。若い人もいれば年配もいる。煤で汚れた顔。汚れは働いている証拠だ。その証拠を、私は守りたい。
若い職人が、ぽりぽりと頬を掻いた。
「……あのさ」
言いにくそうな声。照れが混ざっている。
「札……効いた。昨日、俺……息できた」
胸がじわっと温かくなる。温かくなると、言葉を増やしたくなる。増やすと危ない。
私は短く返した。
「よかった」
これは褒めじゃない。事実への安堵だ。
若い職人は頷き、視線を逸らした。照れた視線。照れは、温度が残っている証拠だ。
別の職人が小さく言った。
「無理すんなよ」
無理すんなよ、は良い言葉だ。止まっていい、が混ざっている。火の町に必要な言葉だ。
私は頷いた。
「うん。無理しない」
口に出すと少し楽になる。言葉が、自分のブレーキにもなる。
荷車が揺れて、町が遠ざかっていく。
ジルが背中を向ける。職人たちが散る。散ると日常が戻る。日常が戻ると、私は少しだけ寂しくなる。寂しいのは、守りたいものがあるからだ。
レオンが私の手元を見て、淡々と言った。
「持ち物を確認します」
彼は何でも確認する。確認は面倒だ。でも確認があるから事故が減る。事故が減れば、人が帰れる。
私は革手袋を鞄に入れ、軟膏の布を巻き直した。巻き直すと落ち着く。落ち着きは、動作でも作れる。
背中の剣が、また熱を持つ。
『……持ち主よ。今のは良かった』
褒めの形だ。私はすぐ包みに手を当てた。
(褒めは短く)
『……承知。……良かった』
短くなった。押してこない。私はその短さに、少し笑ってしまった。喉から漏れるくらいの小さな笑い。小さな笑いは、焦りを溶かす。
レオンが眉をわずかに動かす。
「……何か」
「剣が、我慢してる」
言ってから少し恥ずかしくなる。でも、この旅で隠すほうが危ない。隠すと、あとで破裂する。
レオンは表情を変えずに頷いた。
「ブレーキは重要です」
ブレーキ。終業のための仕組み。
荷車は町を離れ、川沿いの道へ入った。川の匂いが濃くなる。水の匂いは、煤を洗う匂いだ。洗われる感じがして、胸が少し軽くなる。
軽くなると油断する。油断すると刺さる。刺さると走る。走ると折れる。
私は軽くなりすぎないように、荷車の揺れを感じ続けた。揺れは現実だ。現実に触れていると、言葉の幻に飲まれにくい。
昼前、最初の宿場に着いた。
宿場は忙しそうだった。荷が積まれ、人が走り、声が交差する。交差する声は、焦りの匂いを持つ。焦りの匂いがある場所では、言葉が刺さりやすい。
御者が言った。
「ここで休む。飯と水。日が傾く前に出る」
私は荷車から降り、足を伸ばした。地面が少し柔らかい。柔らかい地面は疲れを吸う。疲れが引くと、息が少し深くなる。
宿の前には、貼り紙がいくつもあった。
湯の値段。馬の預かり。荷の注意。どれも普通の貼り紙。そこに一枚だけ、紙の白さが違うものが混ざっている。
白い。薄い。糊が新しい。文字が短い。
――今日だけ。
喉がひゅっと鳴った。
「今日だけ」は、優しい顔をしている。優しい顔をしているから刺さる。刺さったら、止まれない。
レオンが隣で淡々と言った。
「……この形は、対処が難しい」
「終業を否定してないふり、だよね」
「はい。『終わりはある』と信じさせて、延長を正当化する」
正当化されると罪悪感が減る。罪悪感が減ると、止まる理由が消える。理由が消えると、誰も止まれない。
私は剥がしたくなった。剥がせば、一瞬は目に入らなくなる。でも剥がせば、また貼られる。対抗の熱が生まれ、熱は燃えやすい。燃えやすい熱は、あの空っぽの仕組みの餌になる。
私は息を吸って、吐いた。
「剥がさない」
言葉にして、自分を止める。
代わりに、鞄から小さな札を取り出した。管理局の簡易札。短い言葉。
――明日に渡せ。
これは「今日だけ」と喧嘩しない形だ。今日だけを否定しない。ただ、今日を明日に渡す。終業は放棄じゃない。引き継ぎだ。
私は宿の主人に声をかけた。押しつけない。許可を取る。
「この貼り紙、気になって。……代わりに、これ貼っていい?」
主人は汗を拭きながら貼り紙を見た。疲れた目。疲れていると短い言葉にすがりやすい。
「……明日に渡せ?」
読み上げた。読み上げると、言葉が自分の中に入る。
「渡せ、って何だ?」
私は短く答えた。
「仕事を明日に回していいってこと。……『今日だけ』が増えると、事故が増える」
主人の顔が少し硬くなる。事故、という言葉は刺さる。でも刺さる必要がある場面もある。
「……事故は困る」
主人は頷き、壁を指した。
「貼れ。そこ。よく見えるとこ」
よく見えるところに、止まる言葉を置く。置けば迷いが生まれる。迷いは悪じゃない。迷いは境界の入口だ。
私は「明日に渡せ」を貼った。貼る動作そのものが、私の呼吸を整える。
背中の剣が小さく言った。
『……見事』
褒めだ。私はすぐ包みに手を当てる。
(短く)
『……良い』
短くなった褒めは、押してこない。押してこない褒めは、温かい。
宿の中へ入ると、湯の匂いが広がった。湯の匂いは町と違う温度を持っている。家に近い匂い。帰れる匂いだ。
私は湯を受け取り、両手で包んだ。
温かい。温かいと胸が緩む。緩むと油断も来る。油断しないと折れる。油断しすぎると刺さる。
その間を探す。
湯を飲みながら、私は心の中で自分に言った。
(私は、背負うのが怖い)
怖いのに、背負いそうになる。癖みたいに。癖は簡単には直らない。
レオンが湯を一口飲み、淡々と言った。
「あなたは、背負いすぎる傾向があります」
あまりにも正確で、私は苦笑した。
「……うん」
「しかし、今日は境界を作れました」
境界。作れた。
私は湯気の向こうで、少しだけ笑った。上手く笑えなくてもいい。笑えたことが大事だ。笑えれば、呼吸が戻る。
背中の剣が、静かに言った。
『……持ち主よ。今の、良かった』
また「良かった」。
私は小さく頷いた。
「ありがとう」
『……当然だ』
その「当然」が、少し照れた音に聞こえた。
宿場を出るとき、私はもう一度、壁の貼り紙を見た。
「今日だけ」の横に、「明日に渡せ」が並んでいる。
二つの短い言葉が、空気に小さな境界を作っていた。
たったそれだけで、全部は変わらない。けれど、誰かが一度、手を止めることはできる。
そして、その一度が、帰るための一度になる。
荷車が再び動き出す。
川沿いの道。白い町へ向かう道。
私は背中の包みを、少しだけ抱え直した。
褒めない旅支度。
褒めを増やさないための旅。
でも――褒めを捨てる旅じゃない。
終業の境界を取り戻す旅だ。
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