第22話 川印:紙の町へ続く道
町の朝は、昨日より少しだけ静かだった。
静かだからといって、安心できるわけじゃない。静かになると、小さな音がよく聞こえる。遠くで誰かが咳をする音。桶の水がこぼれる音。扉が閉まる音。小さな音が刺さるのは、心が張っている証拠だ。
私は工房通りの角で立ち止まり、柱に貼られた札を見上げた。
――息をしろ。
紙は薄いのに、文字は重い。重いのは言葉のせいじゃない。読む人の胸の状態のせいだ。息が浅いときほど、「息をしろ」が刺さる。刺さるから、ようやく息ができる。
札の角が少しだけ浮いていた。雨の気配。指先で押さえようとして、やめる。押さえたら“私の札”になる気がした。支えは、誰かのものになりすぎると危ない。支えは、みんなのもののままがいい。
背中の包みが、ふっと温かくなる。
『……良い札だ。押さない』
剣の声は小さい。褒めに聞こえそうで、でも褒めじゃない。確認の声。
(うん)
心の中で返した。声には出さない。朝の通りは耳が敏感だ。敏感な耳に言葉を増やすと、別の形で刺さってしまう。
レオンが隣に立った。書類袋を抱えている。支部の匂い――紙とインクの匂いが、彼の服に移っている気がした。
「町の流れは、落ち着きつつあります」
淡々とした報告。淡々としているのに、視線はちゃんと町を見ている。見ている視線は信頼できる。
「ただし、運びは続きます」
後半が重い。落ち着いて見えるときほど、根が動く。
私は頷いた。
「印の話、聞きに行く?」
「はい。荷の茶屋へ」
荷が集まる場所。荷が集まるところに情報も集まる。情報が集まるところには噂も集まる。噂は、火より広がる。
茶屋は、工房通りから少し外れた荷の通りにあった。
荷車の跡が土に刻まれ、縄の擦れた匂いが空気に残っている。縄の匂いは働く匂いだ。働く匂いは、褒めと相性が悪い。相性が良いから、悪い。
戸を開けると、湯の匂いが鼻を撫でた。湯の匂いは優しい。優しい匂いがあると、人は話しやすくなる。
帳場の奥で、女が湯呑みを磨いていた。
中年。背筋が伸びている。髪をきっちりまとめ、指先が早い。早い指先は、この場を回してきた指先だ。回してきた指先は、余計な言葉を嫌う。
女は顔を上げ、私を見ると口元だけで笑った。
「朝から珍しい客ね」
声は低い。低いのに怖くない。低い声は、相手を焦らせない。
レオンが名乗ろうとする前に、女が先に言った。
「管理局の子でしょ。……そっちは、背中が変に重い子」
見抜く目。荷を扱う人の目だ。荷の重さは、背中で分かる。
私は息を吸って、短く言った。
「印のことで聞きたい」
女は湯呑みを棚に戻し、手を拭いた。
「印ね。……どの印?」
レオンが封袋から紙片を取り出し、机の上に置く。置き方が丁寧だ。丁寧に扱うと、紙がただの紙に戻ることがある。
女が顔を寄せ、目を細めた。
「川と羽……」
小さく息を吐く。ため息ではなく、確認の息。
「川印は“紙の町”の印。羽は“言葉屋”の組合の印」
言葉屋。
胸の奥がちくりと痛んだ。言葉を売る人。言葉を作って渡す人。悪い人とは限らない。むしろ、暮らしに必要な人だ。
必要な人が、危ない仕組みに関わっているなら――なおさら厄介だ。
私は湯呑みを借り、湯を一口飲んだ。喉の乾きが少し引く。引いた分だけ、言葉が落ち着く。
「言葉屋って、何をする人?」
女が肩をすくめる。
「祝い札、弔い札、店の看板の文句、旅人向けの張り紙……言葉が必要な場所なら、どこにでも」
どこにでも。言葉が必要な場所は、世界中だ。
「最近は、終業札もね」
女はさらりと言った。
さらりと言ったのに、空気が少し冷えた。終業札。終業という“区切り”が商品になると、その区切りは削られる。削られると、誰も止まれない。
レオンが淡々と訊く。
「終業札が売れている理由は」
女は湯を注ぎ足しながら答えた。
「疲れてるからよ。どこも。人も金も、余裕が薄い。薄いときほど、“効く言葉”にすがる」
効く言葉。
薬にも毒にもなる言葉だ。
「終業札は、効く」
女は一拍置き、目を細めた。
「……でも、効きすぎると怖い」
怖い、と言えるのが救いだった。怖いと言えるなら、止められる。止められるなら、まだ戻れる。
私は封袋の紙片を見つめた。
紙は軽い。軽いのに、町を押す重さがある。
「この印、どこから来るの?」
女が指を立てる。
「紙の町。川沿いの白い町。紙すきが盛んで、言葉屋が集まる。運びの中継も多い」
白い町。
煤で黒い町とは真逆の色。色が真逆でも、危険まで逆になるとは限らない。白い場所には白い危険がある。汚れが目立つから、隠したくなる。隠すと、腐る。
女が続けた。
「印が付いてるなら、正規の荷よ。こっそり運ぶ荷なら印は出さない。……つまり、堂々と流れてる」
堂々と流れる危険は、止めづらい。止めれば生活が止まる。止まれば誰かが困る。困れば、また誰かが“今日だけ”を言い出す。
私は背中の包みに手を当てた。
剣の熱が、少しだけ強くなる。
『……誉は、売り物ではない』
いつもよりはっきりした否定。怒りに近い温度。
私は小さく息を吐いた。怒りは私の中にもある。でも、向け先を間違えると人を傷つける。
「……その町に、言葉を“良い形にする”人がいるって聞いた」
女の目が少し柔らかくなる。
「いるわよ。いる。……ナギって子」
ナギ。風みたいに短い名だ。
「若いのに、言葉の区切り方が上手い。褒めるときも、終わらせるときも、ちゃんと境界を作る」
境界。区切り。
その言葉に、私は少し安心した。区切りがあるなら、止まれる。
レオンが確認する。
「会えるか」
女は首を傾げた。
「昼は難しいかも。昼は売り場で言葉に揉まれてる。夜のほうが、本来の仕事をする」
本来の仕事。
売ることじゃなく、言葉を“安全な形にする”仕事なのだろう。
女が机の下から、小さな荷札を取り出した。
「これ、持って行きな」
荷札には、川と羽の印が押されている。正規の印。これがあると、運びの者が警戒しない。
「紙の町までの便に乗れる。……ただし気をつけな。あそこは言葉が多い。言葉が多い場所は、嘘も増える」
嘘。嘘は言葉の影だ。言葉が増えるほど、影も増える。
私は荷札を受け取り、頭を下げた。
「ありがとう」
女は手をひらりと振った。
「礼はいらない。……帰ってこい」
火の町の「帰れ」と同じ温度だった。追い返す言葉じゃない。生きて戻れ、の言葉。
茶屋を出ると、荷の通りに風が吹いていた。
縄が揺れ、布がはためき、紙片が舞う。紙片が舞うと、言葉も舞う気がする。舞った言葉はどこにでも貼りつく。貼りついた言葉は、人を動かす。
レオンが歩きながら言った。
「決まりとしては、流れを止めるのが優先です」
「でも、止められない場所がある」
私が言うと、レオンは頷いた。
「管理局の手が届かない地域があります。……その場合、現場の協力が必要です」
現場は疲れている。疲れている現場に協力を頼むのは酷だ。酷なのに頼まないと、もっと酷になる。
背中の剣が、静かに言った。
『……持ち主よ。言葉は、運ばれる』
(うん)
『……運ばれるなら、止める言葉も運べ』
胸に落ちた。危ない言葉が流れるなら、守りの言葉も流すしかない。
私は荷札を握りしめた。紙は薄い。薄いのに、手の中で確かな重さがある。
そのとき、通りの壁に貼られた紙が目に入った。
新しい札。白い紙。軽い糊の匂い。
文言は短い。
――今日だけ。
今日だけ頑張れ。今日だけ伸ばせ。今日だけ無理しろ。
終業を否定しないふりをして、終業を奪う言葉。
喉がひゅっと鳴った。
敵は学んでいる。こちらが終業を取り戻したから、別の形で奪いに来る。
レオンが札を見て、淡々と言った。
「……手口が変わっています」
私は息を吸って、吐いた。
「だから、急ぐ。でも、焦らない」
焦らないと言えたのは、背中の熱が落ち着いているからだ。剣は、拍手を鳴らしたくなる気配を抑えている。
『……承知』
短い返事。
町の端へ向かう道に、荷車が停まっていた。
川印の荷札が縄に結ばれ、白い紙の束が積まれている。白い紙は汚れを運ぶ。汚れは煤じゃない。言葉の汚れだ。
私は荷車に乗り込む前に、もう一度だけ町を振り返った。
工房通りの柱に「息をしろ」が貼られている。
その札の前で、誰かが一度、胸を膨らませた。
それだけで、今日は少しだけ救われる。
でも、救いは広げないと薄れる。薄れる前に、運ぶ。
紙の町へ。
川の向こうの白い匂いの中へ。
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