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第21話 引き渡し:善意の罪は軽くない

 管理局の支部は、火の町の匂いを持たない。


 炭の粉も、鉄の匂いも、煤の膜もない。代わりにあるのは、紙とインクと、拭き取った床の匂い。整いすぎた匂いは息が楽なはずなのに、どこか落ち着かない。


 私は玄関の敷居をまたいだ瞬間、肩が少しだけ硬くなるのを感じた。


 ここは、火の前の場所じゃない。

 ここは、言葉が書類になる場所だ。


 廊下の床はよく磨かれている。靴音が響く。響く靴音は隠せない。隠せない音がある場所では、人は自然と背筋を伸ばす。背筋を伸ばすと、余計なことを言わなくなる。余計なことを言わないと、心の中がうるさくなる。


 私は心の中が騒がしくなりそうで、背中の包みにそっと手を当てた。


 布越しの熱が、わずかに揺れる。


『……ここは、整いすぎている』


 剣が小さく言った。褒めでも警告でもない。ただの違和感だ。


 私は頷いた。声には出さない。言葉を増やすと、この空気に飲まれる気がした。


 レオンが先を歩く。淡々とした足取り。速いのに焦っていない。焦っていない速さは、ここでは正しい。決まりの場所で焦りは、言葉を乱す。言葉が乱れると書類が乱れる。書類が乱れると、誰かが困る。


 レオンは扉の前で止まり、ノックを二回。


「入ります」


 短い宣言のあと、扉が開いた。


 部屋の中は、紙が積まれていた。


 机。棚。書架。封じ袋。帳面。角が揃っている。揃っている角は、人の手で作った角のはずなのに、ここでは温度が薄い。揃いすぎているからだろう。


 机の向こうに、支部の責任者がいた。白髪まじり、眼鏡、細い指。火より紙を握ってきた指だ。


「……レオン。報告は受けている」


 責任者の声は柔らかい。柔らかいのに、甘くない。甘くない柔らかさは、長く責任を背負った人の柔らかさだ。


 レオンが敬礼し、簡潔に報告する。


「押収物は三点。版木、札束、糊壺。作った者一名、身柄確保」


 短いのに重い。


 “作った者”という言葉が、刃みたいに響いた。誰かが作った。誰かの手で、言葉が増えた。それが町を押した。


 胸の奥がきゅっと縮む。


 怒りでも嫌悪でもない。怖さに近い。


 捕まえれば終わる――そんな空気が、ここにはある気がしたからだ。


 終わらせたい気持ちは分かる。終わらせないと、誰も休めない。休めなければ、また事故が増える。


 でも――終わったことにした瞬間、次が始まる。

 見えないところで。


 責任者は机に視線を落とし、封じ袋の端を指で整えた。整える動きが、この人の呼吸なのかもしれない。


「身柄は?」


「控室に」


「……同席は」


 責任者の視線が私に向いた。穏やかなのに鋭い目。逃げ道を作らない目だ。


 レオンが答えるより早く、私は一歩だけ前へ出た。


「私も、話を聞きたいです」


 言い切った瞬間、心臓が一回だけ強く鳴った。言い切ると背負う。背負うのは怖い。でも、背負うためじゃない。手順を整えるために聞きたい。


 責任者は小さく頷いた。


「……ただし、感情は置いてくれ」


 正しい。正しいのに痛い。感情は置けない。でも、感情のまま話すと誰かを傷つける。


 私は息を吸い、吐いた。


「置きます。……置く努力をします」


 控室へ向かう途中で、空気が変わった。


 廊下の紙の匂いに、汗の匂いが混ざる。汗は人の匂いだ。人の匂いがあるだけで、現実が少し戻る。


 扉の向こうから、椅子がきしむ音がした。


 レオンがノックする。


「入ります」


 控室は狭かった。机と椅子が二つ。壁は白い。白い壁は影を濃くする。濃い影は不安をはっきり見せる。


 椅子に座っていたのは、男だった。


 年は五十過ぎ。背は少し丸い。手が大きい。煤が爪の間に残っている。火の町の手が、ここで膝の上に置かれている。その組み合わせが、妙に痛々しい。


 男は私たちを見るなり、目を伏せた。


 罪悪感の目だ。


 罪悪感は、悪意より重いときがある。悪意は割り切れる。でも罪悪感は割り切れない。割り切れないまま、人を押し潰す。


 レオンが椅子に座り、淡々と言った。


「名前」


 男が喉を鳴らす。喉が渇いている音。


「……ガルド」


 短い答え。短いのに重い。


 レオンが続ける。


「目的は」


 ガルドの指が、膝の上で絡まる。言葉の出口が見つからないときの癖だ。


「……町を、助けたかった」


 助けたかった。


 言い訳の形をしているのに、嘘ではない気がした。嘘じゃない善意ほど、止めにくい。


 レオンは表情を変えない。


「作った札の言葉は、確認していましたか」


 ガルドは小さく頷いた。弱い頷き。見ていたのに、見ていなかった頷きだ。


「……最初は違った。『息をしろ』『落ち着け』……そういうのを刷りたかった」


「でも?」


 レオンが短く促す。


 ガルドの目が宙を見る。宙を見る目は危ない。町で見た、押されている目と同じだ。


 背中の剣が、小さく熱を持つ。


『……宙を見るな』


 私は心の中で頷いた。言葉は出さない。


 レオンが机に指を置き、ガルドの視線を戻す。


「途中で、何が起きた」


 ガルドの口が震えた。


「……褒め声が、勝手に入った」


 “勝手に”は逃げじゃない。彼の中では、本当に勝手にだったのだろう。


「褒め声が入ると、手が……止まらなくなった」


 止まらなくなった。


 町の人たちが言った言葉と同じだ。止まれないのはガルドだけじゃない。ガルドも押されていた。


 責任者が控室の壁にもたれ、静かに言った。


「……言葉が、上書きされたのか」


 レオンが頷く。


「可能性が高い。版木の周りに、外の紙が混じっていました」


 外の紙。


 背中が少し冷える。外から来た紙は、外から来た意図を運ぶ。意図は言葉に乗る。言葉は人を動かす。


 ガルドが小さく呟いた。


「俺は、悪いことをした」


 自分に判決を下す声。


 私は胸が痛くなった。悪いことで終わらせるのは簡単だ。簡単にすると、責任が一人に集まる。皆は息がつける。でも――息がつけた町は、また走り出す。走れば、同じことが繰り返される。


 私は一歩だけ前へ出た。声を低くする。


「ガルド」


 名を呼ぶ。名を呼ぶと、人は戻れることがある。


 ガルドが私を見る。揺れる目。まだ壊れていない目だ。


「……町を助けたい気持ちは、本物だった?」


 責任者の視線が鋭くなる。感情は置けと言われた。分かっている。だから、すぐ次に事実を置いた。


「本物なら、今、止まれる?」


 ガルドの喉が鳴る。しばらくして、小さく頷いた。


「……止まる。止まらないと……人が死ぬ」


 その言葉が出た瞬間、ガルドの肩が少し落ちた。力が抜けた証拠だ。力が抜けると、息ができる。


 背中の剣が、短く言った。


『……責めるな。区切れ』


 責めるのは簡単だ。区切るのは難しい。でも、区切らないと守れない。


 レオンが机上の書類に視線を落とし、淡々と続けた。


「ガルド。あなたの行為は違法です。ですが、札の影響を受けている可能性があります。記録を元に、対応を決めます」


 硬い言葉が、ガルドの顔を少し落ち着かせた。硬い言葉は冷たい。けれど冷たい言葉は境界になる。境界があると、恐怖に形ができる。形ができれば、抱えられる。


 責任者が頷いた。


「……身柄は預かる。外の紙の件は、こちらで追う」


 “追う”は頼もしい。けれど私は落ち着かなかった。


 追いつけないものもある。追いつけないものほど、町を壊す。


 控室を出て事務室に戻ると、封じ袋が机の上に並んでいた。


 版木、札束、糊壺、札片、刷毛。


 どれもただの物に見える。けれど、ただの物ではない。物に言葉が乗っている。言葉が人を押す。


 レオンが封じ袋を一つ開け、紙束を取り出した。手袋越しに端を揃える。揃えた端が、いつもより軽い。


「……これ」


 レオンが紙束の一部を示した。


 薄い。軽い。手触りが粗い。鍛冶町の紙とは違う。“よそ者”の質感だ。


 責任者が眉を寄せる。


「外の紙か」


「はい」


 レオンは紙束の端を慎重にめくった。紙の間に、細い札が混ざっている。短いのに、妙に目を引く。


 札の端に、小さな印があった。


 川の形。そこに羽のような線。


 小さな印なのに、痛いほどはっきりしている。目が勝手にそこへ行く。意味がある、と感じてしまう。


 責任者が顔を近づけた。


「……印?」


 レオンが頷き、紙を傷めないよう机に置いた。


「運びの印です。紙の出どころか、取り扱いの印。……この町のものではありません」


 町のものではない。


 つまり、町の外で作られたものが、町の中へ入ってきた。そして増えた。そして町を押した。


 私は思わず背中の包みに手を当てた。


 剣の熱が、少しだけ強くなる。


『……印がある。誉めが、売り物になっている』


 売り物。


 息が詰まる。売り物になった言葉は、人を助ける顔で人を押す。売れる言葉は甘い。甘い言葉は刺さる。刺さったら止まれない。


 責任者が机を指で軽く叩いた。叩き方が、一回だけ。終わりの合図みたいな叩き方。


「……レオン。流れを洗えるか」


「はい。運びの帳簿と、照らし合わせます」


 レオンは帳簿棚へ向かった。迷いがない。迷いがないのに速すぎない。慣れている速さだ。今は助けになる。


 棚から古い帳面が引き出される。紙の擦れる音。ページをめくる音。ペン先が走る音。


 私はその音を聞きながら、心の中で並べる。


 ガルドの善意。

 上書きされた言葉。

 外の紙。

 川と羽の印。


 繋がると、嫌な形が見えてくる。


 ――誰かが、売れる言葉を作っている。

 ――売れる言葉ほど、止まれない言葉だ。


 レオンが帳簿を机に置き、指で行をなぞった。


「……ここ」


 墨の項目に、同じ印がある。出荷先、経由地、取り扱い名。細い字の中で、印だけが目立つ。目に入るための印だ。


 責任者が息を吸った。


「運ばれ方が……」


 レオンが淡々と言い切る。


「あります」


 その二文字が、部屋の空気を少し冷やした。


 喉が乾く。乾いた喉で、言葉を選ぶ。


「……じゃあ、これは終わってない」


 責任者は否定しない目で頷いた。


「終わったことにするのは簡単だ。だが……次が来る」


 次が来る。


 現実の言い方だった。


 背中の剣が、小さく言った。


『……区切れ。だが、終わらせるな』


 矛盾みたいで、矛盾じゃない。区切らないと誰も息ができない。終わらせたら、また同じことが起きる。


 私は机の上の印を見つめた。


 川と羽。

 水と運び。

 白い紙と軽い言葉。


 火の町で、終業の拍手が一回だけ鳴った。あの温度は守りだった。守りの温度が、どこかで“売れる形”に削られている。


 削られた言葉は、誰かの胸に刺さる。

 刺さったら、止まれない。


 レオンが帳簿を閉じ、私を見た。


「調査は続きます。……同行できますか」


 同行、が重い。重いのに、逃げるともっと重くなる気がした。


 私は息を吸って、吐いた。


「できる範囲で」


 全部はできない。全部は背負わない。背負わないことが、町を守る。


 レオンが頷いた。


「十分です」


 その「十分」が、押さない温度で胸に落ちた。


 支部の窓の外で、火の町の煙が遠く揺れていた。


 煙はまだある。焦りもまだある。


 そして――川の向こうから、羽の付いた言葉が来る。


 終業を奪う言葉が、まだどこかで刷られている。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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