第16話 古札:誉めの符は守りだった
奥の棚は、思ったよりも近かった。
狭い通路を抜けた先に、小さな区画がある。扉はなく、境目が変わるだけ。熱が少し引き、煤の匂いに紙の匂いが混ざった。
紙の匂いは、乾いている。
乾いた匂いは、触れたら崩れそうで――だから余計に怖い。
壁際に、背丈ほどの棚が並んでいた。
木は黒ずみ、角は丸い。何度も手が触れた角。何度も物が押し込まれた角。整っていない。整っていないのに、ここは“保管”の場所だ。
保管は整っているように見えて、実は整っていないことが多い。整えられないものが集まるから。
ジルが棚の前で立ち止まり、腕を組んだ。
「……ここ」
それだけ言う。声が低い。低い声は、触れたくない場所に触れるときの声だ。
レオンは淡々と鞄を置き、手袋をはめた。革が擦れる小さな音。準備の音。
「古い紙は崩れます。触れる順番を守ります」
順番。ここでも順番。順番は人を救う。焦りを止める。
私は棚から少し距離を取った。近づきすぎると、無意識に手が出る。出た手が紙を壊す。壊れたら、戻せない。
背中の包みが、ほんのり熱を持つ。
『……紙の匂い。誉ほまれの匂い』
剣の声が小さい。褒めではない。嗅ぎ分ける声。
(静かに。……短く)
私は包みに手を当て、心の中で言った。
『承知』
短い返事。最近、剣は短く返す。短く返すことを“選べる”ようになってきた。
レオンが棚の一段目へ手を伸ばした。
木箱、布包み、金具袋。生活の断片が詰まった箱。箱は人の都合で詰められる。都合で詰められたものは、時間が経つと誰も分からなくなる。
「……札があります」
レオンが低く言った。
薄い紙束が糸で括られている。糸は古い。けれど、括り方は丁寧だ。丁寧に括られたものは、捨てられないものだ。
ジルが一歩近づき、紙束を見て眉を寄せた。
「そんなの……もう使ってない」
使ってない、という言い方には、過去を切り離したい気配が混ざっていた。過去を切り離したいのは、過去が痛いからだ。
レオンが紙束の端を少しだけ持ち上げる。紙がふわりと鳴る。乾いた紙の鳴り方。
「文言が古い。……これは“誉めの符”ですね」
誉めの符。
その言葉を聞いた瞬間、背中の包みが熱を持った。拍手の熱ではない。火床の前の熱に近い広がり方。懐かしさなのか、反発なのか分からない熱。
ジルが口を開いた。
「昔、あったんだよ。……危ない作業が続くと、心が折れるだろ」
語り始める声が少し荒い。荒いのは怒りじゃない。言いたくないことを言うときの照れだ。
「だから……短い札を貼った。『よくやった』『落ち着け』『目を離すな』……そういうやつ」
レオンが頷く。
「士気の維持、集中の補助。……ただし、過剰は危険です」
過剰。今起きているのは、まさに過剰だった。褒めが止まらない。褒めが止まらないと、人も止まれない。
ジルが鼻で息を吐く。
「分かってる。だから使わなくなった。……褒めってのは、刃にもなる」
刃。鍛冶町の人間らしい比喩だ。刃は守る道具にもなるし、切る道具にもなる。使い方で変わる。
私は紙束を見つめながら、胸の奥がざわついた。
褒める剣。
褒めの符。
偶然じゃない。型が似ている。似ているものが集まると、意味が出る。
背中の剣が、小さく言った。
『……誉は、守りだった』
だった。過去形。
(守り、って)
私は包みに手を置いたまま、心の中で問いかけた。
『……折れないため。……止まるため』
止まるため。
その言葉が胸に落ちた。褒めの札が、止まるため。矛盾みたいで、でも分かる。危ない作業の前で「よくやった」は「今はここまででいい」の合図になり得る。終わりを示す褒め。止まる許可の褒め。
レオンが紙束をさらに丁寧にほどいた。
数枚の札が露わになる。札には線と文字。墨は薄いけれど、意思は残っている。
その一枚に、見覚えのある文言があった。
――落ち着け。
最近、剣が口にする言葉と似ている。
レオンが札を指で押さえ、淡々と言った。
「この束は、煽る文言が少ない。……褒めというより制動の設計です」
ジルが頷いた。
「そうだよ。褒めて走らせるためじゃねぇ。危ないとき、手が勝手に動くのを止めるためだ」
止めるため。
私は、その言葉に少しだけ救われた気がした。
今の空っぽの褒め声は、人の手を押す。押して止まれなくする。けれど本来は逆だった。止めるための肯定。止まっていいという許可。
――なら今起きているのは、何かが上書きされている。
レオンが視線を上げた。
「この札束、最近触られています」
「は?」
ジルが眉を跳ねる。
レオンは束の端を示した。糊の跡。紙端の新しい裂け。古い紙に不釣り合いな、新しい糊の匂い。
「糊が新しい。紙の合わせが新しい。……誰かが補修しています」
補修。補修は善意に見える。けれど、理由がないのに補修はしない。
ジルの目が鋭くなる。
「誰がそんなこと……」
問いの形をしているのに、怒りが混ざる。自分の工房の過去に、勝手に触れられる怒り。
私は息を吸った。乾いた紙の匂いが喉を少し痛くする。
そのとき――部屋の中で、ふっと声が鳴った。
「……よくやった」
誰も言っていないのに。
さっきの空っぽの声より薄い。けれど確かにある。札束が、声を持っている。
ジルが顔を歪めた。
「……ほら、これだ」
レオンは落ち着いて封符を取り出し、札束の周囲に置いた。置くたび空気が締まる。締まると、声が薄くなる。
「札自体が発話媒体になっています。ただし、意図が歪んでいる」
歪みは、どこから来たのか。
私は棚を見る。紙束の影、箱の影、布包みの影。黒い影は、何かを隠す。
その影の中で――小さく、布が擦れる音がした。
気配。
そして、姿。
若い職人が立っていた。
いつの間に入ってきたのか。煤のついた頬。手の甲の火傷の跡。目が落ち着いていない。落ち着いていないのに、ここにいる。
呼ばれたのだ。あの声に。
若い職人が、唇を震わせて言った。
「……俺、聞こえないと不安で……」
不安。
その言葉が胸を刺した。
聞こえないと不安。褒めがないと不安。褒めがないと、自分が何をしているか分からない。止まっていいのか分からない。
依存だ。
依存の形になっている。
ジルが声を荒げかけた。
「何してんだ! ここは入るなって――」
叱る声になりかけた。叱ると若い職人は縮む。縮むと、また褒めに縋る。縋ると、依存が増える。
私は一歩だけ前に出た。盾になるのではなく、空気の壁になる位置。
「……名前、教えて」
丸い声で言う。
若い職人の目が瞬く。叱られると思っていた目だ。叱られないと、目が戻る。
「……カイ」
「カイ。今、手を止められてる?」
カイは自分の手を見る。何も持っていない手。空っぽの手。空っぽの手は不安になる。でも、不安は悪じゃない。不安は止まる合図でもある。
「……止めてる」
小さく答えた。
「それで十分」
私は言った。褒めじゃない。許可だ。終わりを置く言葉。
背中の剣が、呼応するように短く言った。
『十分だ』
同じ言葉。重ならないように、短く。剣が合わせてきた。
カイの肩が、ふっと落ちた。息が深くなる。深くなると、人は戻る。
ジルが口を閉じた。叱る言葉を飲み込んだ。飲み込めたのは、責任者が守りを選べたからだ。
レオンが淡々とカイに言った。
「今は作業外です。工房の指示に従ってください」
言い方は硬い。でも硬さは境界になる。境界があると、人は安心する。
カイは頷く。
「……はい」
その返事ができたなら、大丈夫だ。
けれど札束から、まだ小さく声が漏れる。
「……もっと、やれる」
甘い毒みたいな声。押す声。
私は、その押し方に強い嫌悪を覚えた。嫌悪は正義じゃない。正義みたいに振りかざすと誰かを傷つける。だから、嫌悪を手順に変える。
私はジルを見る。
「これ、元の意図は違うよね」
ジルは歯を食いしばった。
「ああ。……こんなこと言わねぇ。言わせねぇ」
「誰かが上書きした」
レオンが淡々と結論を置く。
ジルの拳が震えた。
「……俺の工房で」
悔しさが声に滲む。悔しさは、守りたいものがある証拠だ。
レオンが札束を封袋に収める準備をしながら言った。
「この束は回収します。ただし……回収だけでは再発の可能性があります」
私は頷いた。回収しても、偏りは残る。偏りが残れば、別の媒体が生まれる。別の帳簿、別の刷毛、別の道標。
だから必要なのは、“止まる許可”を町に戻すことだ。
(褒める代わりに、止める言葉を覚えて)
私は背中の包みに手を当て、心の中で頼んだ。
剣は少し間を置いて答えた。
『……止まれ。息をしろ。十分だ』
三つ。短い。押さない言葉。
私はその言葉を胸にしまった。
ジルが棚の奥を指さした。
「……まだある。もっと古い箱だ。……鍵が要る」
鍵。鍵のある箱は、本当に触れたくないものだ。過去が、形のまま残っている。
レオンが頷く。
「見せてください。源に近い可能性が高い」
源。源に近づくほど、痛いものが出る。けれど痛いものを避けると、今が壊れる。
カイが小さく言った。
「……俺、怖い」
怖い、と言えるのは戻ってきている証拠だ。怖いと言えるなら止まれる。
私は事実を置いた。
「怖いって言えた。今はそれで十分」
カイは小さく頷き、部屋の外へ下がった。
ジルが鍵束を取り出す。鍵が鳴る。金属の音は乾いている。乾いた音は、これから開けるものの重さを告げる。
私は息を吸った。
紙と金属の匂いの中で、剣の熱が静かに背中に灯る。
誉めの符は、守りだった。
なら――守りを、もう一度“守り”として取り戻す。そうしないと、褒めは刃のまま暴れる。刃は、誰かの手を止められないまま、誰かを切ってしまう。




