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第15話 工房:叩く音と止まらない手

 工房の奥へ入ると、音が低くなる。


 槌の音が遠くなるからじゃない。音が重なるからだ。火床の熱、鉄の匂い、炭の匂い、油の匂い。熱と匂いが厚くなると、耳に入る音も厚くなる。厚い音は、身体の芯にまで響く。


 私はその厚い音の中で、妙な違和感を覚えていた。


 ――音が、揃っていない。


 本来、工房の音は揃う。叩く音が一定のリズムを刻み、ふいごの風がそれを支え、水桶の蒸気がそこに呼吸をつける。揃った音は、働く人の心を揃える。


 けれど今日は、音が早い。音が焦っている。


 焦る音は、人の手を急かす。急かされると、手は止まれない。


 ジルが先に歩きながら短く言った。


「ここだ」


 奥の作業台が並ぶ区画。若い職人が数人、工具を手に立っている。立っているのに目が落ち着いていない。目が落ち着いていないとき、人は「次」を見ている。次の仕事、次の段取り、次の穴埋め。


 穴埋めが続くと、心が削れる。


 削れた心が何に縋るか。


 ――褒めだ。


 私はそれを、空気の温度で感じた。褒め声が鳴る直前の、あの微妙な締まり。胸の内側が勝手に小さくなる感覚。


 レオンが符を取り出し、床に置いた。符が淡く光り、空気が少し硬くなる。硬さは悪いものじゃない。硬さは線引きになる。


「まず、現場の流れを確認します」


 レオンの声は淡々としている。淡々としているから、工房の人間は聞ける。ここで余計な感情を載せると現場は反発する。反発は事故を増やす。


 ジルが顎で示した。


「これが今の流れだ」


 若い職人が釘を箱から取り、木板に打ち込む作業をしている。簡単な作業に見える。簡単だから危ない。簡単な作業は気が緩む。緩んだところに、呪いは入り込む。


 職人の手が速い。


 釘を取る。打つ。取る。打つ。取る。打つ。


 速いのに、正確だ。正確だから、誰も止めない。止める理由がないまま速いのが、一番危ない。


 釘の頭が、ひとつだけ傾いた。


 傾いた瞬間、職人の顔が強張る。


「……っ」


 職人は無理に釘を打ち直そうとした。斜めの釘を力でねじ伏せる。ねじ伏せると折れる。折れた釘は飛ぶ。飛ぶ釘は目に刺さる。


 危ない。


 ジルが声を張った。


「抜け! 抜いて打ち直せ!」


 叱責ではない。事故防止の合図だ。火の前の声は、人を守る。


 若い職人は一瞬迷った。迷うのは、抜くのが手間だからだ。手間がかかると遅れる。遅れると焦る。焦ると――褒めが欲しくなる。


 その瞬間だった。


「……よくやった」


 どこからともなく声が落ちた。


 落ちた声は、若い職人の背中を押した。押されると迷いが消える。迷いが消えると、危ない選択肢が“正解”になる。


 若い職人が、斜めの釘をそのまま打ち込もうとした。


 私は反射で足を踏み出しそうになって――止まった。


 止まる。


 止まることが、今の私の仕事だ。勝手に飛び込むと現場が乱れる。乱れると事故が増える。事故が増えると褒め声が増える。褒め声が増えると、止まれない人が増える。


 レオンが静かに手を上げた。


「止めてください」


 けれど、若い職人の手は止まらない。声が届かない。目が宙を見ている。“もっと”の先を見ている。


 ジルが一歩で距離を詰め、若い職人の手首を掴んだ。掴み方が正確だ。関節を抑え、力を抜かせる。抜けた瞬間、槌が床に落ちる。


 かん、と乾いた音。


 乾いた音は、危険の合図だ。


 若い職人が我に返ったように息を吸う。


「……あ、俺……」


 声が震える。震えるのは、怖さが戻ったからだ。怖さが戻るのはいい。怖いと言えるなら止まれる。


 ――だが、そこで終わらない。


「……立派だ」


 次の声が、別の作業台の方へ落ちた。


 火床の前。鉄を扱う職人。


 火の前で“立派だ”は危険だ。火は褒められて燃え上がるものじゃない。火は整えて使うものだ。


 職人が、ふいごを強く踏んだ。


 風が入る。火が強くなる。赤が白へ寄る。白へ寄れば鉄は柔らかくなるが、事故も増える。火花が増える。火花が飛ぶ。


 火花が袖に当たった。


 小さな焦げの匂い。


「っ!」


 職人が反射で腕を引いた。引いた腕が熱い鉄に触れた。


 じゅっ、と湿った音。


 火傷。


 致命的ではない。けれど、こういう“小さな事故”が増えると現場は削れる。削れると、また褒めが必要になる。必要になると依存が増える。依存が増えると、止まれない。


 ジルが叫ぶ。


「水! 布! 手当て!」


 職人たちが一斉に動く。動きは速い。だが、その速さは“余裕”ではない。穴埋めの速さだ。穴埋めは続くと、いつか穴になる。


 私は手当ての邪魔にならない位置に立った。


 立って、見る。


 見て、覚える。


 ここで必要なのは英雄じゃない。手順を戻す人だ。


 レオンが符をもう一枚置いた。空気がまた少し硬くなる。褒め声が薄くなる。


「……現象は道具単体ではなく、工程に結びついています」


 レオンの分析は、現場に向けた説明だった。


「褒め声が特定の“頑張り”に反応している。……それが人を押し、無理な選択を正当化している」


 ジルが歯を食いしばる。


「だから止めたくても止まらねぇ。止めたら、俺が……」


 言葉が途切れた。責任者の本音は、途切れた先にある。


 ――止めたら、俺が壊れる。


 私はジルの横顔を見て、胸の奥が痛んだ。その痛みは、私の痛みに似ていた。


 誰かのために止まれない痛み。


 背中の剣が熱を持つ。熱は増える。でも、拍手はしない。剣が我慢しているのが分かる。


『……止まれないのは、苦しい』


 小さな声。


 私は返事の代わりに頷いた。言葉より軽い合図。軽いほうが今はいい。重い言葉は、また誰かを押す。


 工房の端で手当てが終わった。


 火傷した職人は布で手を包まれ、椅子に座らされた。座らされたのに、立ち上がろうとする。立ち上がろうとするのは罪悪感だ。休むと誰かに迷惑がかかる。迷惑がかかると、自分の価値が減る気がする。


 そこへ、また声が落ちる。


「……よくやった」


 火傷した職人の肩がびくっと震えた。


「俺、まだ……」


 立ち上がりかける。


 私はそこで、言葉を選ばずに声を出した。


「座って」


 短い。強い。丸くない。でも今は丸くすると届かない。


 職人が私を見る。目が揺れる。


「……でも」


「でも、じゃない」


 私は深呼吸して、事実を置く。


「今、立ったら血が回る。血が回ると痛みが増える。痛みが増えたら判断が鈍る。判断が鈍ったら事故が増える」


 事実は冷たい。でも、冷たい事実は人を止める。止めないと守れない。


 職人の肩が落ちた。


 落ちた肩の向こうで、剣が短く言った。


『十分だ』


 三文字。褒めではない。許可だ。終わっていい、という許可。


 火傷した職人の目に涙が浮かぶ。悔しさだけじゃない。許された涙だ。


 ジルがその様子を見て、拳をぎゅっと握った。


「……くそ」


 小さな悪態。無力感の煙。


 レオンがジルに向けて言った。


「このままでは事故が増えます。作業の流れそのものに封をかける必要がある」


「封って……工房全体を止めろってのか」


「一度止めないと、戻せません」


 戻せません、という言葉が重い。現場では死刑宣告に近い。納期、信用、生活。


 ジルは歯を食いしばって視線を床に落とした。煤がある。煤は働いた証だ。証があるほど止めるのが怖い。止めたら証が無駄になる気がする。無駄になるのが怖い。


 だから、人は止まれない。


 私はジルの横で、ほんの少しだけ声を落とした。


「止めるのは、負けじゃない」


 言った自分に驚いた。綺麗事みたいだ。でも言わないと、ここは止まれない。


「今止めないと、もっと止まる。怪我で止まる」


 怪我で止まるのは、意思で止めたんじゃない。意思で止められない止まり方は、心を折る。


 ジルが私を見た。鋭い目。けれど鋭さの奥に疲れがある。疲れの奥に、優しさがある。


「……お前、いつからそんな言い方するようになった」


 私は笑えなかった。けれど視線を逸らさなかった。


「言い方、じゃない。……見えてきただけ」


 人が止まれない理由が、少しずつ見えてきた。見えてきたから、止め方も少しずつ分かってきた。


 レオンは淡々と手を動かしていた。


 符を並べ、線を引き、工房の端に札を置く。現場を止めるためではない。現場を守るための止め方。止め方にも技術がいる。


「封をかけます。……最小範囲で」


 レオンが宣言する。


 最小範囲――その言葉に、ジルの肩が少しだけ落ちる。全部止めるわけじゃない。最低限止める。最低限止めるなら、明日が動く。


 ジルが工房へ声を張った。


「全員! 今から区画分けだ! 指示が出るまで勝手に動くな!」


 勝手に動くな、は工房では珍しい。工房は本来、自主で回る場所だから。けれど今は、その自主が呪いに利用されている。自主を一度止めないと、自主が戻らない。


 職人たちが戸惑いながらも手を止める。


 止めた瞬間、工房の音が減る。減ると、空っぽの褒め声がまた目立つ。


「……立派だ」


 空っぽの声。


 鳴った瞬間、剣が熱を持ち、短く言った。


『違う』


 二文字。拒否。


 空っぽの褒め声が、一瞬だけ揺れた。揺れたのは、空気が揺れたからだ。揺れたのは、剣の言葉が“型”を壊したからだ。


 レオンが視線を上げ、包みを見る。観察する目。


「……反応しますね」


「反応します」


 私は短く答えた。長く説明すると現場が崩れる。


 ジルが低く言った。


「その剣、何者だ」


 私は包みを見た。布の下の重み。言葉を持つ重み。善意を持つ重み。


「……褒める剣」


 誰かが小さく笑った。嘲笑じゃない。怖くて笑うやつだ。


 ジルは笑わない。


「褒めが今、一番危ないってのにな」


 正しいから痛い皮肉。


 私は頷く。


「だから、変えたい」


 変えたい、と言うのは怖い。変えるには責任が要る。責任があると、また背負ってしまう。


 でも、言わないと始まらない。


 レオンが最後の符を置いた。床に薄い線が浮かぶ。見えない境界が、見えるような感覚。


 空気が少し締まった。


 締まった空気の中で、褒め声が弱まる。完全には消えないが、押しつける強さが減る。


 ジルが息を吐いた。


「……少し、静かになった」


「はい。……ただし根本ではありません」


 レオンは淡々と言う。根本はどこかにある。


 ジルが、工房のさらに奥――暗い通路の方を見る。


「奥に、古い棚がある。……昔の札とか、道具とか、全部突っ込んである」


 “突っ込んである”は、整理できないものの言い方だ。触れたくないものの言い方だ。


「案内する」


 ジルが歩き出した。私とレオンも後ろに続く。


 通路は狭く、壁が煤で黒い。黒い壁は光を吸う。光を吸うと影が濃くなる。影が濃いと心も濃くなる。


 背中の剣が、小さく言った。


『……拍手は、合図。誉は、守り。だが……』


 言葉が途切れる。


 途切れるのは、核心に近いからかもしれない。核心は痛い。


(大丈夫。……短く)


 私は包みを押さえて、心の中で言った。


『……承知』


 短い返事が、暗い通路の中で小さな灯りみたいに感じた。


 工房の音が遠ざかる。


 代わりに、自分の心臓の音が聞こえる。


 止まらない手を止めるために、私たちは“止められない理由”の場所へ向かっていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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