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第14話 到着:火の町は忙しすぎる

 火の町は、遠くからでも分かる。


 空の色が違う。雲が薄い日でも、町の上だけ少し濃く見える。煙が混ざるからだ。灰色が空の青を鈍らせ、鈍った空は光を柔らかくする。柔らかい光は煤の粒を浮かせる。


 その煤の匂いが、鼻の奥に懐かしい。


 懐かしいのに、今日は刺さった。


 匂いが強いからじゃない。匂いの中に、焦りが混ざっているからだ。鍛冶の火はいつも熱い。けれど焦りの火は、別の熱を持つ。熱が違えば、匂いも違う。


 街道の先に、町の門が見えた。


 門といっても立派なものじゃない。木の柱に、煤で黒ずんだ札がぶら下がっているだけ。けれど、そこを越えると世界が変わる。音が変わる。匂いが変わる。歩く人の姿勢が変わる。


 レオンが一歩前へ出て、私と並んだ。


「ここが……」


 言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。説明が要らない、と判断したのだろう。目の前が、もう説明そのものだから。


 町に足を踏み入れた瞬間、音が押し寄せた。


 槌が鉄を叩く音。ふいごが風を送る音。水桶に鉄を沈める音。蒸気が立つ音。怒鳴り声ではない、合図の声。運搬の掛け声。短い笑い声。


 全部が、前へ進む音だ。


 本来、働く音は安心になる。生活が回っている音だから。


 けれど今日は、音が尖っていた。


 叩く音が早い。掛け声が短い。笑い声が減っている。合図が多い。合図が多いのは、失敗が増えているからだ。失敗が増えると声で補う。補うと疲れる。疲れるとまた失敗が増える。


 私はその連鎖の気配を、肌で感じた。


 背中の包みが、ふっと温かくなる。


『……火の町』


 剣の声が小さい。褒めではない。名を呼ぶみたいな声。


(落ち着いて。短く)


 私は包みに手を当て、心の中で言った。


『承知』


 短い返事。素直すぎて、少し怖い。素直なものほど、扱いを誤ると大きく振れる。


 町の中心へ向かう道の脇に、道具屋が並んでいる。


 釘。鎚。鋸。革手袋。炉用の炭。どれも生活の道具だ。生活の道具は手に馴染む。馴染む道具は、放置すると危ない。危険に見えないからだ。


 道具屋の店先で、刷毛が勝手に動いていた。


 箒のように見えるが、先が金属の刷毛になっている。煤を掃くための刷毛だ。刷毛が店先の煤を、妙に几帳面に掃き集めている。


 店主が、疲れた顔でそれを見ていた。


「……勝手にやるんだよ」


 独り言。独り言は余裕がないと増える。


 刷毛は“整える”動きしかしない。整えるだけを繰り返す。繰り返すほど煤が山になる。山になれば風で舞う。舞えば余計に汚れる。


 整えるための動きが、逆に散らかしを生む。


 レオンが一瞬だけ足を止め、刷毛に視線を向けた。


「……軽度の偏り」


 声が小さい。町の空気を乱さないためだろう。


「封じますか」


 私が聞くと、レオンは首を振った。


「今は優先度が低い。中心へ」


 中心――工房。手紙の差出人の場所。


 私は頷き、歩を進めた。


 道の先で、金属が床に落ちる音がした。


 かん、と乾いた音。


 鍛冶町の乾いた音は、事故の音だ。


 若い職人が、落とした金具を拾おうとして手を伸ばし――止まった。


 止まったのは、誰かが止めたからじゃない。若い職人の目が宙を見たからだ。聞こえないものを聞いている顔。


「……よくやった」


 誰かが言った。


 私は反射で周囲を見る。言った人はいない。近くの職人たちも微妙に動きを止め、視線を逸らす。聞こえたのに、聞こえなかったふりをする顔。


 若い職人は金具を握りしめたまま立ち上がった。


「俺、まだ……」


 声がかすれる。嬉しさと怖さが混ざった声。


「まだ、やれる」


 その言葉が町の空気をさらに尖らせた。


 “まだやれる”は誇りにもなる。でも、今の“まだやれる”は刃に近い。止まる場所を削る刃。


 背中の剣が、息を吸う気配を見せた。


『おお――』


(だめ)


 私は包みを押さえる。合図。短く。


『……承知』


 止まった。止まれる。止まれるのに、熱が増える。剣もここで何かを感じている。


 レオンが若い職人へ近づき、淡々と言った。


「手を休めてください。今の発話は異常です」


 異常、と言うと冷たく聞こえる。でも、ここでは必要だ。異常だと認めないと、正常として受け入れてしまう。受け入れたら、止まれない。


 若い職人が眉を吊り上げる。


「異常って……俺、褒められただけだろ」


「褒められること自体が異常ではありません。発話元が不明であることが異常です」


 言い切ると、空気が止まる。止まった空気の中で、人は足元を見られる。


 若い職人は口を閉じた――が、すぐ言い返しそうになる。


 そのとき、低い声が割り込んだ。


「そこまでだ」


 声の主は工房の入口にいた。


 背が高い。肩が広い。煤が袖に染みている。髪は短く、頬に小さな傷。目は鋭いのに、眠そうでもある。寝ていない人の鋭さは危ない。刃みたいに、誤って誰かを切る。


 ――ジル。


 手紙の署名の名前。


 喉が鳴った。懐かしい名前は記憶を引きずり出す。


 ジルは私を見た。目が少し細くなる。驚いているのに驚きを隠す目。嬉しいのに嬉しさを隠す目。責任者の目だ。


「遅い」


 第一声がそれだった。


 私は反射で肩をすくめる。昔の癖。叱られる前に縮む癖。


 でもジルの声に怒鳴りはない。怒鳴りではなく、確認の音だ。ここまで来たか、という確認。


 ジルは少し間を置き、声を落とした。


「……無事か」


 その二語が胸の奥を温めた。


「……うん。無事」


 答えた瞬間、背中の剣がふっと温かくなる。


『……再会。尊――』


(短く)


 心の中で言う。


『……良い』


 剣が抑える。抑えたまま、熱だけが残る。町の火に似ている。けれど焦りの火じゃない。人を焼かない熱。


 ジルはレオンを見た。


 制服のコート。徽章。紙袋。


 ジルの目が一段硬くなる。町の人間は役所を好かない。規定は現場にとって邪魔に見える。邪魔に見えるのに、無ければ事故が増える。だから余計に嫌われる。


 レオンが先に名乗った。


「管理局のレオンです。調査のため同行しています」


 ジルは一拍、沈黙した。値踏みじゃない。飲み込む時間だ。火の前で生きる人は、飲み込むのが早い。


「……調査。責めに来たわけじゃないな」


「責める権限はありません。現象の確認と、拡大防止が目的です」


 硬い言葉。けれど硬いから信用できるときもある。余計な感情が入らないから。


 ジルは鼻で息を吐いた。


「なら、入れ」


 短い許可。今の町には短さが必要だ。長く話すと仕事が止まる。止まれば焦る。焦れば事故が増える。


 工房に入ると、熱がまとわりついた。


 火床が複数ある。赤い光が揺れる。ふいごの風が鳴る。鉄の匂いが濃い。濃い匂いは本来安心になる。でも今日は焦げた匂いが混ざっている。余裕がない匂いだ。


 職人たちの視線が集まった。


 視線が集まると胸が苦しくなる。期待が乗るからだ。期待は善意でも重い。


「……ユイだ」


 誰かが小さく言った。名前が空気に落ちる。


 落ちた瞬間、空気が揺れる。歓迎の揺れ。安心の揺れ。期待の揺れ。


 ジルが低く言った。


「期待すんな。今は状況確認だ」


 その言葉が揺れを抑えた。期待を抑えるのは冷たさじゃない。守りだ。期待は人を焼く。焼く前に火から離す。


 ジルが奥を指さす。


「見ろ。これが起きてる」


 奥では道具が動いていた。


 トングが勝手に並ぶ。槌が持ち手を揃える。釘の箱が角を合わせて棚に戻る。戻る動きが速い。速すぎる。人の手の速さじゃない。


 整った道具を見た若い職人が、嬉しそうに息を吸った。


「……よくやった」


 また声が聞こえた。


 今度は工房の天井から落ちるみたいに響く。


 誰も口を開いていないのに、褒めが落ちる。落ちる褒めは逃げ場がない。逃げ場がない褒めは心を押す。


 若い職人の手が止まらない。


 止まらない手が火の前へ伸びる。危ない距離へ。危ない角度へ。


「やめろ!」


 ジルが怒鳴った。


 叱責じゃない。事故防止の合図。火の前の怒鳴りは、命を守る音だ。


 若い職人がびくっとして、手を引っ込めた。


 引っ込めた瞬間、目に涙が滲んだ。悔しさの涙。止められない悔しさ。止められないのは弱さじゃない。誘導されているだけなのに、本人は自分を責める。


 苦しくて、私は視線を逸らした。


 逸らしたのに、背中の剣が小さく言う。


『……止まれない者は、苦しい』


 今日は妙に“人に寄った”声だ。褒める声じゃない。理解しようとする声。


 レオンが工房の床に簡易符を置く。淡く光が広がり、空気が少し締まった。


「……濃度が高い」


 レオンが呟く。


「声の型が、ここで強くなっています。……源が近い」


 源。核が町の中にある。


 ジルが拳を握りしめた。


「俺は……こいつらを、壊したくねぇ」


 言い方は乱暴なのに、内容は優しい。責任者の願いはそれだけだ。


 私は息を吸って、言葉を探す。


 褒めない。煽らない。希望を押し付けない。事実を置く。


「……今、みんな生きてます。怪我が増えてても、まだ戻れます」


 希望じゃなく、現実として置く。今はまだ戻れる。今なら止められる。


 ジルは私を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「……変わったな」


 変わった、と言われると胸がざわつく。そこに期待が乗りそうで怖い。


 私は返事をしない。言葉を増やさない。


 レオンがジルに向けて言った。


「まず、作業を一度止められますか」


 ジルの眉が跳ねる。


「止めたら納期が――」


「止めないと事故が増えます。事故が増えると、納期はもっと崩れます」


 容赦のない正しさ。現場には痛い。でも痛い正しさは命を守る。


 ジルは歯を食いしばり、工房中に声を張った。


「全員! 手を止めろ! 炉の口閉めろ! 水桶、位置確認!」


 合図が飛ぶ。職人たちが動きを止め、炉の口が閉じられ、水桶が整えられる。事故を防ぐための整え。これは良い整えだ。


 止まった瞬間、工房の空気が一段静かになる。


 静かになると、“よくやった”が逆に目立つ。


「……よくやった」


 また聞こえた。


 止まった空気の中で声が響く。響く声は、蛇みたいに首に絡む。


 私は背中の包みを押さえ、心の中で剣に頼む。


(止める言葉。短く)


 剣が息を吸う。


『……止まれ』


 一言が落ちた。


 その一言が空気に混ざり、褒め声の波を少しだけ沈めた。波に別の波を重ねて、減衰させるみたいに。


 ジルが包みを見る。


「……それか」


 警戒と、期待と、恐れが混ざった重い言葉。


 私は頷いた。


「拾った。……悪さはしてない、今のところは」


 自分でも変な言い方だと思う。でも剣に悪意はない。本当に厄介なのは、善意のほうだ。


 ジルは鼻で笑った。


「悪さしてねぇなら、余計に厄介だ」


 分かっている。分かっているから笑えない。


 レオンが一歩前へ出る。


「工房の中に、古い札や道具の保管場所はありますか」


 ジルの顔が少し硬くなる。


「……ある。奥だ」


 奥、と言ってから、ジルは一瞬だけ迷う目をした。奥は触れたくない場所なのかもしれない。過去が詰まっている場所。失敗が詰まっている場所。誇りが詰まっている場所。


 開けるのが怖い場所。


 でも、開けないと今が壊れる。


 ジルは短く言った。


「案内する」


 その言葉が出た瞬間、胸の奥の荷が少しだけ軽くなる。


 責任者が、避けないと決めた。


 なら、次の一歩は進める。


 工房の火はまだ赤い。


 赤い火の前で、私たちは“止まる”ことから始めようとしていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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