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第13話 宿場:帳場のため息と“よくやった”

 峠を下りると、空気の匂いが変わった。


 山の湿りから、人の湿りへ。薪の煙、煮込み、濡れた外套。生活が集まる場所の匂いは、息をすると胸の奥まで入ってくる。入ってくると安心する――はずなのに、今日は違った。


 宿場の入口が、妙にざわついている。


 声が尖っていた。言い争いではない。でも余裕のない声。余裕がないと喉が乾く。乾くと、また尖る。尖りは連鎖する。


 私は荷を背負い直し、擦れた宿場の看板を見た。古い場所は手順がある。手順があれば、本来は落ち着く。


 落ち着いていない、ということは。


 ――手順が崩れている。


 レオンが先に歩き、宿の戸を押した。


 本来なら鈴が鳴るはずの場所で、鈴が鳴らない。音が死んでいる。忙しすぎて外したのかもしれない。音がないと、人は呼ばれている感覚を失う。失うと、勝手に入る。勝手に入れば、さらに混乱する。


 玄関の土間には、靴が雑に散っていた。


 整っていない景色は、それだけで心をざわつかせる。ざわつけば足がもつれ、物を落とし、また混乱が増える。


 私は無意識に、靴を整えたくなる衝動を飲み込んだ。


 今それを始めたら、終わらなくなる。終わらなくなったら、私はまた“断れない”に戻る。


 背中の包みが、ふっと温かくなる。


『持ち主よ。……今、止まれた。良い』


 短い。褒めというより確認に近い。助かる。


 帳場の奥から、切羽詰まった声が飛んだ。


「ちょっと待って! 今、帳簿が――!」


 帳場は宿の心臓だ。そこで悲鳴が上がれば、宿全体が息苦しくなる。


 レオンが声の方へ向かい、私は少し遅れて付いていった。


 帳場に入った瞬間、紙の匂いが鼻を満たした。紙束、墨、糊。普段なら落ち着く匂いなのに、今日は苦い。焦りが混ざっている苦さだ。


 主人がいた。


 四十代くらい。髪が乱れ、目の下が濃い。袖口に墨がつき、指が微かに震えている。寝ていない手だ。寝ていない手は、紙を扱うのがいちばん辛い。


「お客さん、すみません、今――」


 主人は言いかけて、言葉を止めた。


 机の上の帳簿が、勝手に開いたからだ。


 ぱら、ぱら、と紙がめくれる。風はない。窓は閉まっている。誰も触っていない。


 紙があるページで止まる。


 止まったページの文字が、すっと――動いた。


 行が入れ替わる。客の名が、順序を変える。金額がずれる。ずれたのに、ずれが“整っている”ように見える。


 整っているように見えるのが、怖い。


 整っていると、人は信じる。信じた瞬間、間違いに気づけなくなる。


 主人が叫んだ。


「ほら! これ! これなんだよ!」


 怒鳴りに近い声。怒りというより、怖さだ。怖さが溢れると、人は声を大きくする。


 レオンが冷静に言った。


「……触らないでください」


「触ってない! 勝手に――!」


「だから、触らないで。現状を保ちます」


 規定の声。硬いけれど、今は必要な硬さだ。崩れた手順に仮の柱を立てる硬さ。


 主人は拳を握り、歯を食いしばった。


「俺は、ただ……帳場を回したいだけなんだよ」


 その言葉が胸に刺さった。


 回したいだけ。生活を回したいだけ。そういう人ほど、止まれない。


 私は口を開きかけて、言葉を選ぶ。


 褒めはだめだ。主人はいま褒めを欲しがっていない。褒めは「もっとちゃんとしなきゃ」を増やす。増えたら、折れる。


 だから、事実。


「……寝てますか」


 私は訊いた。


 主人が目を見開いた。質問が予想外だったのだろう。怒りが一瞬、宙に浮いた。


「……寝てねぇよ。寝たら帳がズレる」


「寝ないと、余計にズレます」


 言い切ってから、自分の口の強さに少し驚いた。けれど今は必要な強さだ。


 主人は唇を噛んだ。


「寝たら……誰が……」


 誰が、の先が出てこない。頼れないからだ。責任者だからだ。


 レオンが帳場を一巡した。紙の位置、インク壺、印、札。視線が早い。


「状況を聞きます。いつから」


 主人は答えようとして口を開き、すぐ閉じた。言葉がまとまらない顔。まとまらないのは疲れだ。


 私は主人の背後の椅子を引き、座面に布を敷いた。濡れた袖で冷えないように。小さなことだけど、小さなことが人の呼吸を戻す。


「……座って。話は座ってできます」


 主人は抵抗しようとして、でも足がふらつき、椅子に落ちるように座った。


 座った瞬間、肩が少し落ちる。肩が落ちると、息が入る。


「……三日前だ」


 主人がぽつりと言う。


「最初は、ページが勝手に開くだけだった。……それが、少しずつ増えた。並びが変わって、数字がズレて、札が移って――直すたび、また変わる」


 直すたび、また変わる。


 それは疲れを増やすための動きだ。人を止めさせないための動き。


「……で、昨夜」


 主人は喉を鳴らした。


「『よくやった』って聞こえた」


 その言葉で、室内の空気が少し硬くなる。


 主人は続けた。


「最初は……嬉しかったんだよ。寝てないし、苛々してたし。誰かが認めてくれたみたいで」


 “みたいで”。


 現実じゃないのに、現実みたい。現実みたいだと、人は信じて動く。


「だから、頑張った」


 乾いた笑いが漏れる。


「頑張ったら、また『よくやった』って。……で、止まれなくなった」


 止まれなくなった。


 その言葉が、私の胸の弱いところに触れた。止まれないのは恐ろしい。恐ろしいのに、止まれない。


 背中の剣が息を吸う気配がした。


『おお……! 主人よ――』


(だめ)


 私は包みを軽く押さえる。短く、静かに。


『……承知』


 剣が止まる。止まれるだけで救いが増える。


 レオンが主人に言った。


「褒め声が聞こえると、作業が止まらない。……それは呪いの誘導です」


 誘導。誘導されると意思が薄くなる。薄くなると、やめどきを失う。


 主人が顔を覆った。


「俺は、弱いのか」


 弱い人は、弱いと言えない。言えるのは、まだ戻れるからだ。


 私は、事実を置いた。


「弱いんじゃないです。……疲れてるだけです」


 主人が顔を上げる。目が赤い。怒りの赤じゃない。睡眠不足の赤だ。


「疲れてると、褒めが刺さる。刺さると、動ける気がする。でも、それは借金みたいにあとで返ってきます」


 レオンが帳簿に手袋越しで触れ、簡易符を置いた。


 符が淡く光る。帳簿のページが、ぱたり、と閉じた。閉じた瞬間、空気が少しだけ緩む。緩むと、主人の肩がまた落ちた。


「……今は止めました。ただし根本ではない」


 レオンが淡々と続ける。


「帳場に染みた偏りが残っています。……原因は外部から持ち込まれた可能性が高い」


 持ち込み。宿場は人が出入りする。荷も噂も、そして呪いも運ぶ。


 私は帳場の棚を見回した。札、鍵、封筒。どこかに“印”があるはずだ。


 ――あった。


 棚の隅に、小さな金具が落ちている。指先ほどの輪。煤に染まったような暗い色。落ちているのに、妙に存在感がある。


 私はしゃがみ、拾った。


 拾った瞬間、背中の包みが熱を帯びる。


『……同じ工房』


 剣の声が小さい。けれど確信に近い音。


 掌で金具を転がす。表面に薄い刻印があった。


 小さな槌と火の印。


 鍛冶町の印だ。工房で出荷管理に使う印。間違いない。


 主人がそれを見て眉をひそめた。


「それ……なんだ」


「鍛冶町の金具です」


 私が答えると、主人の顔から色が抜けた。


「鍛冶町……。そういえば三日前、荷が来た。鍋の取っ手金具の補充。……その箱の中に、変な紙が混ざってた」


「紙?」


 レオンの声が鋭くなる。


 主人は頷き、帳場の引き出しを指した。


「捨てた。怖いから。……でも燃やしてねぇ。裏に放って……」


 レオンは迷わず言った。


「案内してください」


 主人が立ち上がろうとして、ふらつく。


 私は反射で支えそうになって――支え方を選ぶ。肩じゃない。肘だ。肘なら、相手の体勢を崩さない。


 私は主人の肘に手を添えた。


「ゆっくりでいいです。……足元だけ見て」


 主人は黙って頷き、ゆっくり歩き出す。


 裏の倉庫は湿った匂いがした。濡れた木箱、古い縄、乾ききらない藁。そこに、紙の匂いが混ざる。


 主人が木箱の陰を指した。


「あそこ」


 丸められた紙があった。雑に捨てられた紙。触りたくない気持ちが分かる。怖い紙は、触りたくない。


 レオンが手袋越しに紙を広げた。


 薄い紙に、細い線。古い型。褒めの型。


 紙を広げた瞬間、私は確かに聞いた。


「……よくやった」


 小さい声。けれど背中の剣とは違う方向から響く。倉庫の壁に反射して戻る残響。


 主人が震えた。


「ほら……これだ……!」


 レオンは紙の上に封符を置く。置いた瞬間、声が止む。止むと、倉庫の空気が少し軽くなる。


「回収します」


 淡々とした宣言。宣言は人の心を支える。誰かが責任を取ると言ってくれると、人は少し休める。


 主人が膝をついた。


「……助かった……」


 その声には、初めて息が混じっていた。息が混じると、言葉は柔らかくなる。柔らかい言葉は、ほどけた証拠だ。


 私はもう一度だけ、事実を置いた。


「今、休んでいい状況になりました。……だから、休んでください」


 主人は目を閉じて、ゆっくり頷いた。


 レオンが紙を封袋に入れ、金具も確認する。


 私は掌の中の刻印を見つめたまま、胸の奥が重くなるのを感じた。


 鍛冶町の印。

 宿場に混ざった褒めの紙。


 これは偶然じゃない。


 持ち込まれている。運ばれている。生活の流れに乗って、呪いが移動している。


 背中の剣が小さく言った。


『……褒めは、守りだったはずだ』


 “だったはず”。


 その言い方が少しだけ寂しい。


 私は包みの上から手を置いて、心の中で短く返した。


(戻そう)


 剣は返事をしなかった。返事をしないのは、今は言葉を探しているからかもしれない。


 帳場に戻ると、主人はようやく息を吐ける顔になっていた。完全に解決した顔ではない。けれど――今夜は眠れるかもしれない顔だ。


 レオンが言う。


「この紙は管理局で処理します。あなたは今夜、休んでください。帳簿は封で止めてあります」


 主人は何度も頷いた。


「……分かった……ありがとう……」


 私はその「ありがとう」を、受け取るだけにした。返さない。返すと、また言葉が増える。今は受け取るだけでいい。


 宿場の外へ出ると、空はまだ灰色だった。


 でも、さっきよりは明るい。明るいのは、空のせいだけじゃない。誰かが少しだけ休めるからだ。


 私は歩きながら、掌に残った金具の冷たさを思い出した。


 冷たい金具は、火の町の匂いを持っていた。


 ――近い。


 鍛冶町が、もうすぐそこまで来ている。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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