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第12話 峠越え:霧の尾と褒め声の残響

 雨が止むと、世界は静かになる――はずだった。


 けれど峠道は、雨が消えたぶん別の音を前に出す。葉から落ちる滴、濡れた石を擦る靴底、外套が水を抱えたまま揺れる音。雨が去って、生活の音だけが残る。


 そして――霧が、出た。


 霧は尾を引く。


 斜面から這い上がり、道の縁を舐め、足首にまとわりつく。雨は落ちる線で、霧は漂う布だ。布は引っかかる。引っかかると、心も引っかかる。


 私は足元を見て歩いた。


 滑るから慎重に。慎重だから遅い。遅いと焦る。焦ると滑る。


 この輪を回したくなくて、呼吸だけを数えた。


 一、二。吸って、吐く。吸って、吐く。


 背中の包みは静かだった。静かと言っても無音ではない。ただ、余計な拍手がない。小さな火が背中にあるみたいな温度。


『持ち主よ。……足元、良い』


 短い。私は返事をしない。代わりに包みの上から指で一度だけ押す。“聞いた”の合図。


 前を歩くレオンは、足の置き方が一定だった。


 彼は「滑らないように」ではなく、「滑る前提で」歩いている。滑るなら転び方を想定し、転び方を想定するなら荷の位置を整える。整えている人の歩き方は、速さより安定が先にある。


 道の脇に旅人が二人いた。行商か職人か、荷が似ている。布で包んだ小箱、縄で括った木枠。


 そのうちの一人が、ふっと足を止めた。


「……今、聞こえた?」


 霧の中の声は、少し大きくなる。霧が吸うからだ。吸われると、人は無意識に押し出す。


 もう一人が首を傾げる。


「何が」


「……誰かが褒めた」


 背筋が固くなる。


 レオンは足を止めず、視線だけをそちらへ向ける。顔は動かさない。耳だけが動く。


 男が周囲を見回した。霧の中に誰もいない。木の影も石の影も白くぼやける。


「ほら、今……『よくやった』って」


 その言葉が落ちた瞬間、私の耳の奥がきん、と鳴った。


 ――聞こえた。


 確かに。


 でも背中の剣の声じゃない。剣の声は頭の内側から来る。今のは外側だ。霧の向こうから、どこかで反射して戻ってきたような声。


 薄いのに、刺さる。


 レオンが立ち止まった。


「……聞こえました」


 淡々と言う。


 男が驚いた顔をした。


「え、あんたも?」


「はい。……この道のどこかに、同系統の残響があります」


 残響。


 その言葉が、怖さを少しだけ説明に変える。説明になると、怖さは小さくなる。正体不明が怖い。輪郭が見えると、人は息ができる。


 レオンは鞄から細い紙札を取り出した。薄い札に細い線。角が揃っている。


「簡易測定をします」


 札を指の間に挟み、霧へ向けて軽く振る。札がふわりと揺れ、縁がほんの少し青く光った。


「……反応あり」


 声が低くなる。危険が近いときの声。


 私の口の中が乾く。雨が止んでいるのに、緊張は水分を奪う。


 霧の奥から、また声がした。


「……立派だ」


 今度は、さっきよりはっきり。


 型が同じだ。褒めの型。けれど温度がない。拍手の温度も、灯りの温度もない。


 声は人の形をしているのに、人がいない。


 男が肩をすくめた。


「……やめてくれよ、こういうの」


 冗談で済ませたい声。でも、冗談にするには怖すぎる。


 もう一人が笑おうとして笑えない顔をする。


「霧の精霊とかじゃないのか」


「精霊なら、もう少し優しく言う」


 私の口から言葉が漏れた。言ってから、しまったと思う。余計なことを言えば注目が集まる。注目が集まれば、話は盛られる。


 けれど男は私の顔を見て、なぜか少しだけ安心したように息を吐いた。


「……そうか?」


「うん。精霊は、急かす褒め方をしない」


 自分でも、なぜ分かるのか分からない。でも言葉は確かだった。“もっと”で押す褒めは、人の心を止まれなくする。


 背中の包みがふっと温かくなる。


『……拍手は合図。褒めは守り。だが、これは……空っぽだ』


 剣の声は小さいのに鋭い。空っぽ。空っぽの褒め。剣がそれを嫌がっているのが分かる。


 レオンが一歩、霧の奥へ踏み出した。


「距離を取ってください」


 行商の二人に規定の声で言う。


「え?」


「ここで立ち止まると、巻き込まれます」


 二人は慌てて道の端へ寄った。寄ったとき、片方が足を滑らせた。濡れた石、苔、霧。滑る。


 身体が傾く。


 私は反射で手を伸ばしそうになって――止めた。


 止めたのは冷たい理性じゃない。順番だ。まず自分が転ばない。次に相手の体勢を崩さない。最後に引く。引くなら支点を作る。


 レオンがすっと足を出し、男の肘を掴んだ。掴む位置が正確だ。肘なら、引いても肩が抜けない。


 男は転ばずに済んだ。


「……すまん!」


「謝る必要はありません。足元に気をつけて」


 淡々とした声。淡々としているから責められている感じがしない。責められないと、人は落ち着く。


 私は掌をぎゅっと握った。出したい手を、手の中にしまう。


『持ち主よ。……止まれた。良い』


 短い評価が、私には救いだった。助けたい気持ちを否定せず、手順に乗せる勇気。


 霧の中の声が、ふっと近くなる。


「……もっと、やれる」


 その“もっと”が怖かった。


 もっと。頑張れる。できる。止まらなくていい。止まれない人は、いつか折れる。


 レオンが札をもう一枚取り出し、地面に置いた。置いた瞬間、札が淡く光り、声が一拍だけ揺れた。


「……ここに残響点があります」


 私は周囲を見回した。


 霧の向こう、道の脇に倒れかけた石標がある。古い道標。文字は摩耗して読めない。苔がつき、雨を吸って黒い。


 石標の根元に、紙の端が見えた。何枚も重なって湿り、剥がれかけている。白い紙の端が霧の白に紛れているのに、そこだけ不自然に目立つ。空気が硬い。


 レオンが石標へ近づく。手袋をはめ、紙の端を確かめた。


 触れた瞬間、霧の声がはっきりする。


「……立派だ」


 そして拍手みたいな音が混ざった。ぱち、ぱち、と乾いた音。雨の日の音じゃない。乾いた音。工房の音。火の前で鳴る音。


 背中の包みが熱を持つ。剣が反応する。


『……合図だ。合図が、歪んでいる』


 嫌がるのに、止めようとしている声。


 レオンが紙の残骸を慎重に剥がした。湿った紙が裂ける。裂ける音がやけに大きい。


 剥がれた下に、さらに薄い札があった。古い札。線が細い。文字の型が古い。今の口語じゃない。


 レオンが眉を寄せる。


「……古い」


 剣が小さく息を吸った。


『……ほまれの型』


 誉。確かにそう言った。


 レオンが札を封具の袋へ入れようとした、その瞬間――霧の声が急に強くなる。


「……よくやった!」


 同時に、行商の男がびくっと震えた。背中を叩かれたみたいに。


「……っ!」


 男の目が変わった。焦点は合っているのに合っていない。霧の向こうを見ているのに、目の中は別の場所を見ている。


 押される目。


「俺、まだ行ける……」


 男が呟いて荷を持ち直す。視界が白いのに。足元が滑るのに。霧の中へ進もうとする。


 止めなきゃ。


 でも止め方が大事だ。押さえつけたら反発する。反発は“もっと”に繋がる。繋がったら、余計に止まれない。


 私は一歩出て、男の前に手を出した。掴まない。触れない。境界線として。


「……一回、置こう」


 声を丸くする。丸くするのは、相手の心を尖らせないため。


「ここ滑る。荷、落としたら壊れる。壊れたら、もっと大変」


 褒めない。否定もしない。事実だけを並べる。事実は、地面みたいに人を立たせる。


 男は私の手を見た。


「……でも、褒められた」


 子どもみたいな言い方だった。褒められると嬉しい。嬉しいと頑張れる。頑張れると信じたい。


 私は頷く。


「うん。褒められた。……でも、褒めた人は、あなたの足元を見てない」


 必要な強さで言った。空っぽの褒めは相手を見ない。見ない褒めは危ない。


 男の目が揺れた。


 その揺れに合わせて、背中の剣が短く言った。


『止まれ』


 一言だけ。褒めなし。拍手なし。


 不思議とその「止まれ」は、霧の中にも響いた気がした。霧の褒め声が、一拍だけ途切れる。


 男の肩がふっと落ちた。


「……止まれ、って……」


 呟いて、荷を地面に置く。置いた瞬間、男の息が深くなる。深くなると、人は戻ってくる。


 レオンが素早く札を封袋に収め、石標の周囲に封の符を置いた。置くたび空気が締まる。締まるほど、霧の声は遠のく。


 遠のく――というより、反射が弱くなる。


 もう一人の行商がへたりと座り込んだ。


「……なんなんだよ、これ」


 震える声。怖さが戻ってきた声。怖いと言えるなら、まだ大丈夫だ。止まれる。


 レオンが淡々と言う。


「残響です。呪具の痕跡がこの道標に貼られていた。……回収しました」


 男が首を振る。


「褒め声が……残るのかよ」


「残ります。……褒めは人を動かします。動く人が増えると、言葉が染みる」


 染みる。生活に。道に。工房に。


 霧はまだ濃い。けれど“空っぽの声”は薄くなった。薄くなっただけで消えてはいない。消えていないから、怖さも残る。


 行商の二人は顔色を戻しながら、ゆっくり歩き始めた。今度は急がない歩き方。さっきより足元を見る歩き方。


 私は少し遅れて歩き出し、レオンの横に並んだ。


「……これ、鍛冶町だけじゃない」


 私が言うと、レオンは頷いた。


「そうです。……型が同じなら、源は一つか、同じ手が複数」


 複数――という言葉が怖い。問題が増える。面倒が増える。増えると、自分が潰れる未来が近づく。


 背中の剣が小さく言った。


『……空っぽの褒めは、嫌いだ』


 妙に人間らしくて、私は少しだけ苦笑した。


「……私も、嫌い」


 言ってしまってから、あ、と気づく。剣に共感した。共感すると距離が縮まる。距離が縮まると、扱いは難しくなるかもしれない。


 でも距離が縮まらないと、変われない。


 霧の中を歩きながら、私は足元を見た。


 滑る石。濡れた苔。折れた枝。ひとつずつ避ける。


 避けながら、心の中でもひとつずつ避ける。


 “もっと”を避ける。

 “止まれない”を避ける。


 峠の頂が近づくと、風が冷たくなる。冷たさは判断を鈍らせる。だから息を整える。歩幅を整える。荷の揺れを整える。


 霧の向こうで、また小さく声がした気がした。


「……立派だ」


 でも今度は遠い。薄い。耳に刺さらない。


 私たちは峠の頂を越えた。


 越えた瞬間、霧が少しだけ薄くなる。薄くなると景色が見える。見えると、次の場所が現実になる。


 次の場所へ。


 霧の尾を引きながら、私たちは下り坂へ足を向けた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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