第11話 雨宿り:ぬれた外套と小さな火
雨は、音から来た。
最初は葉の上を撫でるような軽い叩き。次に石を打つ硬い跳ね。最後に、空気そのものを湿らせる重い幕。匂いだけが先に変わって、土の甘さと冷たさが混ざり、鼻の奥に張りつく。
街道は白く霞んだ。
霧とは違う。霧は漂う膜で、雨は落ちる線だ。線が増えるほど視界が崩れ、崩れるほど足元が怖くなる。怖くなると呼吸が浅くなる。浅くなると、転びやすい。
だから――急いだらだめだ。
分かっているのに、身体が焦る。濡れると、早く屋根の下へ行きたくなる。行きたくなると歩幅が大きくなる。大きくなると滑る。滑ると転ぶ。転ぶと荷が打つ。荷が打つと――背中の包みが、嫌な形で跳ねる。
その「嫌な形」を想像した瞬間、私は無意識に肩をすくめた。
背中の包みが、ほんのり温かくなる。
『持ち主よ。……急ぐな。整えて進め』
短い声が、頭の内側に落ちた。褒めではなく、指示でもなく、忠告に近い。拍手の熱ではなく、火鉢のようなじんわりした温度。
私は息を吸った。吸った息は湿っていて、胸の中まで冷たい。けれどその冷たさが、「今ここ」を知らせてくれる。足元を見ろ、と言ってくれる。
前を歩くレオンが足を止めた。
濡れた外套の肩が少し重そうで、雨粒が縫い目をつたって落ちている。彼は空を一度見上げ、すぐ視線を戻した。判断が早い。
「……ここ」
短く言って、街道脇の小さな小屋を指さす。
番小屋。旅人の雨宿り用の簡素な木の小屋だ。屋根は低く、壁は半分だけ。風は入るが、雨は避けられる。
屋根があるだけで、世界は別物になる。
私は頷き、小屋へ向かった。
床板は湿っている。踏むときしむ。中にはすでに旅人が数人いた。外套を絞る人、荷を抱きしめる人、火の近くで手をかざす人。咳がひとつ響き、雨音に混ざって丸くなる。
中央の小さな火床で、細い枝が燃えていた。
火は弱い。けれど弱い火は優しい。優しい火は人を急かさない。強い火は乾かすけれど焦がす。弱い火は遅いけれど、焦げない。
私は火の前に立って、外套の裾から落ちる雫を見た。水は落ちるだけで、今はどうにもならない。絞れば寒くなる。絞らなければ冷え続ける。
――順番だ。
まず、荷を濡らさない。
次に、身体を冷やさない。
最後に、乾かす。
手順が頭の中で並ぶと、胸の散らかりも少しだけ整う。
レオンが壁際に場所を確保し、鞄を置いた。濡れた床でも荷を汚さない置き方だ。
「座って」
言い方は命令みたいなのに、声色は命令じゃない。体力を温存させるための言葉。
私は素直に頷き、壁に背を預けて座った。背中の包みを膝の横に置くと、包みの熱が少し落ち着いた。狭い場所は、剣の声を刺激することがある。人が多いと、褒める対象が増えるから。
私は包みの上に手を置いて、心の中で小さく言った。
(今は静かに。……短く)
『承知。……静かにするのも、えらい』
短い。……最後に褒めるのはやっぱりやめられないらしい。私は口元だけで、ほんの少し笑いそうになった。
火の近くで外套を乾かしていた旅人が、こちらをちらりと見た。視線が包みに向かう。仮登録札が括られている。目立つ。
旅人は何も言わなかった。ただ視線を戻した。言わない優しさもある。言わない怖さもある。どちらにしても、今はそれでいい。
雨音が強くなる。
屋根を叩く音が連打になり、板が震える。震えると火が少し揺れる。火が揺れると、人の心も揺れる。
「……ちょっと、詰めすぎだろ」
低い声がした。火床のそばに立つ男が、隣の旅人に向けて言った。苛立ちが混じっている。濡れた不機嫌。寒い不機嫌。
「こっちは濡れてんだ。乾かさねぇと凍える」
「お前だけじゃない」
返す声は硬い。硬い声は硬い心から出る。硬い心は、割れやすい。
男が一歩、火に近づいた。
近すぎると危ない。火は小さくても外套の端は燃える。燃えたら煙が出る。煙が出たら咳が増える。咳が増えたら、苛立ちが増える。苛立ちは連鎖する。
『おお……! 揉め事! 仲裁の――』
(だめ)
私は心の中で言って、包みを軽く押さえた。合図。剣が吐き出す前に止まってほしい。
『……承知』
止まった。短い。……えらい。
レオンが立ち上がった。
火床と男たちの間に、静かに入る。肩を張らない。威圧ではなく、線引きとして立つ。
「火に近づきすぎないでください。危険です」
淡々とした声。規定の声。規定の声は感情を巻き取ってくれる。針を丸めてくれる。
男が舌打ちしそうな顔をする。
「なんだよ、お前」
「危険だから言っています」
レオンはそれ以上言わない。言い返さない。言い返すと苛立ちの燃料になる。燃料を与えないのは上手い。
でも燃料がなくても火は燃える。苛立ちはまだ残る。
私は立ち上がるか迷った。
立ち上がったら注目が集まる。注目が集まると話がこじれる。こじれると剣が騒ぐ。騒ぐと私が焦る。
だから、立ち上がらない。
立ち上がらない代わりに、言葉と動作で“道”を作る。
私は火床の近くの床を指で示して、柔らかく言った。
「……乾かす順番、決めませんか」
男たちがこちらを見る。視線が刺さる。刺さるのに、逃げない。今は逃げないと決める。
「外套の裾から順番に。火に近い人は裾だけ、少しずつ。……手袋みたいな小さいものは、火から離れてても乾きます」
私は言いながら、自分の手袋を外し、壁の釘にかけた。火から少し離れた場所。風が当たる場所。火で乾かさなくても乾く場所。
「……こういうところでも、乾くので」
説明より実演が早いときがある。生活の工夫は、言葉より動作が伝わる。
男が眉をひそめる。
「順番?」
不満そうに言いながら、言葉が続かない。順番は誰かを責める言葉じゃない。みんなを守る言葉だ。守る言葉には、反論しにくい。
隣の旅人が、少しだけ頷いた。
「……まぁ、順番なら」
その一言で空気が動いた。硬い空気に小さな割れ目ができる。割れ目ができると、人は息ができる。
レオンがそこに乗せるように言う。
「場所も交代してください。火の前は一定時間で交代。……それが一番安全です」
規定の声が順番を“ルール”にする。ルールになると、個人のプライドが絡みにくい。絡みにくいと揉めは収束する。
男は不満そうに鼻を鳴らしたが、引いた。引くときに「ちっ」と小さく音を出す。負けたふりをして自分の顔を守る音。
私は息を吐いた。
吐いた息が火の前で白くほどける。雨の日の息は薄い雲みたいだ。
小屋の中に、少しだけ静けさが戻った。
『持ち主よ。……今のは、良い』
剣が小さく言う。褒めは褒めでも、刺さり方が柔らかい。
私は返事をしない代わりに、包みの上を一度だけ撫でた。
それが「聞いた」の合図。
火床のそばで誰かが湯を温めていた。小さな鍋。鍋の中で水が鳴る。鳴る音は丸い。丸い音は心をほどく。
湯気の匂いが流れてきた。草の匂い。野の茶。雨の匂いに混ざると、少しだけ甘い。
私は外套の紐をほどき、肩のあたりだけを軽く絞った。絞りすぎると寒い。だから、ほんの少し。滴が落ちない程度。
レオンも同じように外套を扱っていた。必要なだけをする。必要以上にしない。
その“必要以上にしない”が、私はまだ苦手だ。
頑張りたくなる。動きたくなる。褒められたいわけじゃないのに、頑張ると自分が安心する。安心のための頑張りは、癖になる。癖は、偏りになる。
私は火を見つめながら、手紙のことを思った。
鍛冶町の煤の匂い。叩く音。火の熱。懐かしいはずのもの。
でも手紙には「事故が増えている」と書かれていた。
事故は、音を変える。火の音も、叩く音も、いつもより尖る。尖った音の中にいると、人も尖る。尖ると、誰かを刺す。刺したら戻れない。
だから帰るのが怖い。
私は膝の上で指を絡め、ほどけないように握った。
そのとき、火床の近くの旅人が話し始めた。声は小さいのに、内容はよく通る。噂話の声。
「……なあ、聞いたか。褒め声」
褒め声。
その言葉に、背筋が反射で固くなる。
レオンも視線だけをそちらへ向けた。顔は動かさない。耳だけを向ける。
「は? 褒め声?」
「夜、街道の石の上でさ。誰もいねえのに『よくやった』って聞こえるって」
別の旅人が鼻で笑う。
「酔ってんだろ」
「酔ってねえよ。……それに俺だけじゃねえ。宿場でも聞いたって奴がいた」
火のぱちぱちという音の中で、噂が湿って広がる。湿った噂はよく伸びる。雨の日の匂いみたいに、どこにでも入り込む。
「褒められると気が楽になるって言う奴もいるらしい」
「でも、逆に怖いって奴もいる」
怖い、と言った旅人の声は笑っていなかった。
私は胸の奥がちくりと痛む。怖いと言えるのは、まだ余裕がある証拠でもある。余裕がなくなると、人は怖いと言えなくなる。言えないまま動き続ける。
背中の包みが、ふっと熱を持った。
『……近い』
小さな声。褒めではない。匂いを嗅ぐような声。
(近いって、何が)
私は包みに手を当てて、心の中で問う。
『……同じ型。……誉の音』
誉。その言葉が骨に触れるみたいに残った。鍛冶町で聞く言葉だ。仕事の言葉。誇りの言葉。――そして誇りは時々、刃になる。
雨音が少し弱まった。屋根を叩く音が線から点へ戻る。点が少なくなると、外の景色が少しだけ見える。
見えると、次の一歩が現実になる。
レオンが立ち上がり、外を見た。
「……小降りになった」
彼は私を見る。
「行けますか」
確認の言葉。命令じゃない。確認は私に選ばせる。選べると、私は少しだけ意思を持てる。
私は頷いた。
「……行けます」
『持ち主よ。……良い返事』
短い。抑えている。剣は努力している。
小屋の中の旅人たちも荷をまとめ始めた。火が小さくなり、湯気が薄くなる。雨宿りは終わる。終わると、それぞれの道へ戻る。
私は外套を羽織り直し、紐を結んだ。結び目を確かめる。指先で触れて、ほどけないと確認する。
レオンが私の荷の紐も一度だけ見た。触らない。見るだけ。監督者の視線。視線だけでも、支えになる。
私たちは小屋を出た。
外の空気は冷たい。冷たいけれど、雨は少し弱い。弱い雨は怖さを少しだけ薄くする。
街道に足を乗せると、泥が靴底に吸いつく。吸いつく感覚が現実に戻す。現実は怖いけれど、幻想よりは扱える。
歩き出した、そのとき。
小屋の中から、また噂話が聞こえた。今度は別の言い方。
「……拍手みたいな音、混じってたって」
拍手。
その言葉に、背中の包みがほんの少しだけ熱を増した。
剣が息を吸う気配がする。褒めを吐きたい息じゃない。何かを思い出しそうな息。
『……拍手は、合図だ』
小さな声。
私はその一言を胸の奥にしまった。
雨の外へ出るのは、ただ濡れるだけじゃない。
何かの匂いに近づくことだ。
そして、その匂いは――帰る場所の匂いと、同じだった。
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