第10話 出発:霧の外へ
旅支度は、心の支度でもある。
紐が絡まると、胸の中も絡まる。
布がずれると、考えもずれる。
だから私は、手を動かす。結び直し、畳み直し、並べ直す。問題が消えるわけじゃない。問題を「手の届く形」にするために。
管理局の裏手の小部屋で、私は荷を組み直していた。
仮登録札のついた包みを背負いやすい位置に固定し、封布がずれないように紐を通す。革袋は腰。水筒と干し果実。縫い針と糸――町へ戻るなら、針と糸は要る。小さなほつれを放っておくと、いつか大きく破れるから。
机の向こうでは、レオンが書類を整えていた。
押印、署名、通行許可、携行物申請、宿の紹介状。全部同じ紙に見えるのに、彼の指は迷わず必要な紙だけを抜き出していく。紙の山は彼の戦場だ。
扉のところでミレイが腕を組んでいる。窓口の顔じゃない。少しだけ姉の顔。視線が厳しくて、でも温かい。
「ユイ、確認」
ミレイが言った。
「無理しない。勝手に飛び込まない。困ったらすぐ言う」
言い方は軽いのに、内容は重い。軽く言うのは、私が重く受け止めすぎないようにだと分かる。分かるから、胸が少し痛い。
「……はい」
『持ち主よ。……頷けるのは、良い』
剣の声が小さい。短い。
最近の剣は、短くする努力を続けている。努力は、続くと形になる。
レオンが紙束を鞄に入れ、留め具を閉めた。
かちり、という音が、出発の合図みたいだった。
「準備完了」
それだけ言って、彼は私を見た。目が真面目で、少しだけ疲れている。疲れているのに同行を選ぶ目。
「移動は街道。昼前に出る。……天候は下り坂です」
下り坂。雨が来る匂いが朝からしていた。霧の湿りとは違う、空の重い湿り。
「雨が強くなる前に、峠手前の宿場まで」
計画が細かく刻まれていると、安心する。迷っても戻れる印があるからだ。
ミレイが私に小さな袋を渡した。
「これ、簡易封札。使い方はレオンが知ってる。あと――飴」
飴。紙に包まれた小さな塊が、袋の中でかさりと鳴る。
甘いものは、心を一瞬だけ“戻す”。戻る一瞬があると、人は踏ん張れる。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。返すなら、帰ってきてから」
“帰ってくる前提”で言ってくれるのが、嬉しい。私はその前提に縋りたくなる。
外へ出ると、空は薄い灰色だった。
光がまっすぐ落ちない空。影が薄い空。曇り空は世界の輪郭を柔らかくする。柔らかいと、少しだけ安心する。――その代わり、近づいてくるものに気づきにくい。
管理局の門前で、私は立ち止まった。
町の音が背中に残る。人の声、荷車の軋み、屋台の呼び声。生活が回る音。回っている音を置いていくのは、少し寂しい。
私は胸の内側の袋から、鍛冶町の手紙を取り出した。
封はない。折り目はしっかり。そこに書かれた短い呼び声が、指先に重い。
――帰ってこい。
帰るのは、怖い。
怖いのは、何が起きているか分からないからじゃない。
分からないことに、自分が関わっているかもしれないからだ。関わっていたら責任が生まれる。責任が生まれたら背負う。背負ったら、また断れなくなる。
私はその未来を、もう知っている。
『……火の町』
背中の剣が、ぽつりと呟いた。褒めではない。匂いの記憶みたいな言葉。
「……行ったこと、ある?」
『……ある。……あった。……思い出せない』
言葉が途切れる。途切れるということは、そこに何かが引っかかっている。
レオンが私の横に並んだ。手紙を見て、淡々と言う。
「今は、向かうだけです。現地で判断する」
「……はい」
判断。判断するのは怖い。でも判断しないと流される。
流されると、また誰かの物語の中で“英雄”にされる。英雄にされると、断れなくなる。
私は足元を見た。
靴紐は結んだ。荷の紐も結んだ。結び目は今はほどけない。
――なら、行ける。
門を出たところで、ミレイが手を振った。
「レオン! ユイ! 無事に戻ってこいよ!」
レオンは軽く手を上げるだけだった。照れたみたいに視線を逸らす。
私は少し遅れて、手を振り返した。手を振ると、今いる場所が“戻る場所”になる気がする。戻る場所があると、道は少し怖くなくなる。
街道に出ると、霧は薄くなっていた。町の外は空気が広い。広い空気は、胸の詰まりを少しだけ外へ逃がしてくれる。
歩き始めてしばらく、二人の足音が並んだ。
石を踏む音。草を踏む音。荷が揺れる音。風が布を撫でる音。
音が揃うと、心も少し揃う。
『持ち主よ。……歩くのが上手い』
変な褒め方だ。でも短いし、悪くない。私は笑いそうになって、口元だけを引き結んだ。
レオンが前方を見ながら言う。
「峠を越えると気温が下がります。……寒さは判断を鈍らせる」
「はい」
私は返事をしながら、飴の袋を指で確かめた。甘いものと温かい飲み物と、ちゃんとした休憩。そういう小さなことが判断を守る。
道の脇に、小さな白い花が咲いていた。曇り空の下でも白い。踏まれそうな場所なのに、踏まれずに咲いている。
私は一瞬だけ足を緩めて、その花を見た。
『……咲く場所を選んだ花は、強い』
花の話。珍しい。剣が学んだ言葉が、少しずつ別の形になって出てくる。
私は小さく頷いた。
花は強い。だけど、強いからこそ折れる。折れないように咲く場所を選ぶ。
人も同じだ。
しばらく歩くと、空がさらに暗くなった。風が冷たくなる。雨の匂いが濃くなる。
――遠くで、一度だけ、雷みたいな音が鳴った。
空が鳴いたのか、山が鳴いたのか分からない音。
ただ、胸の奥の“嫌な予感”だけが、はっきり形を持つ。
レオンが足を止め、空を見上げた。
「……早い」
「雨、来ますか」
「来ます。急ぎましょう」
急ぐ、という言葉が胸に刺さる。急ぐと失敗が増える。急ぐと癖が出る。急ぐと判断が鈍る。
でも、雨は待ってくれない。
私は歩幅を少しだけ広げた。
『……焦るな。整えて進め』
剣の言葉が、意外だった。
“進め”はいつものこと。でも、“整えて”は、少し前なら出なかった。
私は息を吐く。短く、深く。
霧の外へ。町の外へ。自分の始まりの町へ。
背中の重みは消えない。
けれど、その重みを“ただの重み”に近づけるために、私は今、歩いている。
そして――雨の匂いの奥に、もうひとつ、焦げた鉄の匂いが混じった気がした。
気のせいだと思いたいのに、背中の剣が、低く小さく息を吸う。
『……来る』
短い一言が、風より先に胸に届いた。
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