第1話 拾得:笑う刃
朝の空気は、まだ眠りの名残を抱えていた。
霧が道に薄く張りついて、草の先だけを白く濡らす。靴底が湿った土を踏むたび、音は小さく丸い。鳥の声も、まだ“準備運動”みたいだった。
私はその霧の中を、ひとりで歩いている。
背中の荷は軽い。布袋ふたつに革の小袋ひとつ。預かった金具の修理品、届けるはずだった手紙、途中で買った干し果実。
……全部「帰り道に寄るだけでいい」って言われたやつだ。
寄るだけ、のはずだった。
寄り道が増えて、道が伸びて、気づけば霧の朝。
私は自分の性格を知っている。
頼まれると断れない。
断れないから抱える。
抱えるから遅れる。
遅れると申し訳なくなる。
申し訳なくなると、次はちゃんとしようって思う。
思うだけで、また「はい」って言う。
……これ、人生のバグでは?
でも困ってる顔を見ると、見て見ぬふりのほうが胸が痛い。だから、まんまと引き受ける。自分で自分を面倒くさくしていく。
霧の向こうに、小さな石標が見えた。
次の宿場まで、あと少し。
「えっと……」
白い息がほどける。
その直後、足元で“形”が浮いた。
霧が一瞬だけ割れて、そこだけ輪郭が出る。石の陰。草の影。その間に、布の包みが落ちていた。
――落とし物?
私は反射で足を止めた。
旅人が荷を落とすのは珍しくない。紐は切れるし、手は滑る。拾って宿場に届ければ、探しに来る人だっている。
ただ。
この布、綺麗すぎる。
泥がついていない。端もほつれていない。結び目が、丁寧すぎるくらい整っている。
落ちたというより――置いた、だ。
私は周囲を見回した。
霧の向こうに人影はない。聞こえるのは呼吸と、草の擦れる音だけ。
嫌な予感が胸に刺さる。
怖いというより、「あとで面倒」な予感。
そして、こういう予感はだいたい当たる。
でも放っておけない。性格がバグってるので。
膝をついて、布包みにそっと触れた。
冷たい。
霧の冷たさじゃない。金属の冷たさが布越しに伝わる。細長くて、硬くて――
……剣?
私は息を止めかけて、ゆっくり吐いた。
剣を持つ旅人はいる。護身用。狩り用。飾り。
……でも、剣は剣だ。拾ったなら、筋を通さないといけない。
結び目をほどく。指先が震えるのを霧のせいにする。
布が開いた。
現れたのは、白銀の鞘。
霧の白でも、月の白でもない。澄んだ、冷たい光。触れたら指が切れそうなくらい綺麗なのに、凶悪さがない。上品で、静かだ。
柄は黒革。鍔は小さく、花の形。装飾は少ないのに、見た瞬間に「良いものだ」って分かってしまう。
――なんで、こんなものが。
喉が鳴る。唾を飲んで、私は柄に指をかけた。
その瞬間。
『素晴らしい!』
声がした。
耳じゃない。背中でもない。前でもない。
……頭の中。
『その慎重さ! 誠実さ! 指先の丁寧さ! 尊い!』
「……え?」
間の抜けた声が出る。
霧の街道で、ひとりで剣を握って、頭の中で誰かに褒められてる。
状況の説明を脳が拒否した。理解が一拍遅れる。
反射で手を離そうとした。驚くと物は落ちる。
――落ちなかった。
指が滑らない。むしろ、柄に吸いつくみたいに留まる。
『おおっ! 落とさない判断! 危険回避! 自己制御! 立派!』
「ち、ちが……」
違う。私がすごいんじゃない。たぶん、あなたが……。
私は周囲を見回す。霧の中に人影はない。鳥は遠く。草は揺れる。
ここにある“変”は、私の手の中だけ。
「まさか……あなた……」
『そう! その仮説構築能力! 鋭い!』
うるさい。
でも怖くない。悪意の温度じゃない。ねっとりした呪いの話に出てくる声じゃない。
ただ、褒めたい。全力で。
……それが一番厄介では?
私は剣を困った顔で見つめた。剣は見返さない。でも鞘口が、ほんのり温かい気がする。霧の冷たさの中で、そこだけ小さな火みたいだった。
『観察! 冷静! 偉い! 好き!』
「……えっと。あなた、誰?」
分からないものは分からないままにしない。最低限の礼儀だ。
『我は剣。誉れを知る刃。持ち主を導くための讃歌! ――名? 今は持ち主のものだ!』
「名前、ないの……?」
『名は意味! 意味は役目! 役目は――褒めること!』
「役目それだけなの?」
『それだけ! 潔いだろう!』
潔くてたまるか。
頭を抱えたくなる。でも抱えたら剣を落とす。落としたら褒められる。地獄の循環が見える。
「……悪さはしない?」
『しない! 断じてしない! その確認の丁寧さ、安心材料!』
うるさい。
でも、確かに怖くない。
私は現実に戻る。
この剣は拾得物。持ち主がいるかもしれない。危険物かもしれない。少なくとも普通じゃない。
鍛冶町で聞いた言葉が、頭の奥で鳴る。
――呪具を拾ったら触るな。触ったなら必ず登録しろ。
呪具。呪いの道具。
呪いっていうと大げさだけど、実際はもっと生活に近い。願いが偏って道具に染みて、変なクセがつく。
危険な呪具もある。けど、ただ面倒な呪具もある。
この剣は――面倒の匂いがする。
私は剣を布で包み直した。鞘口の温かさが布越しに伝わって、妙に生き物っぽい。
『包む! 配慮! 気遣い! 尊い!』
「静かにして」
初めて、少し強めの声が出た。自分でも意外で、胸が小さく跳ねる。
『……おお。境界線を引ける人! 健全!』
止まってない。止まってないけど、声が少し小さくなった……気がする。願望かもしれない。
私は立ち上がって、布包みを背負い紐にくくりつけた。背中に長い重みが増える。
霧の中で、その重みだけがやけに現実的だった。
「……とりあえず」
『とりあえず! 現実的!』
「管理局に届ける。拾ったものは拾ったものとして」
『善行! 持ち主よ、君は本当に――』
「静かにして」
二回目は、ちゃんと落ち着いて言えた。
剣は、ふっと間を置いた。間を置けるんだ、と私は思う。小さな希望が芽生えかける。
『……承知。短く褒める。――立派だ』
短い。
短いのに、なぜか刺さる。
私は首を振って、その刺さりを払い落とした。今は状況整理。
次の宿場には管理局の出張所がある。そこに届けて、拾得物として手続きをして、必要なら持ち主を探してもらう。
それが一番、安全で、一番、筋が通る。
私は歩き出した。
霧はまだ薄く、道は静か。
背中の剣は、時々温かくなったり冷たくなったりする。褒めるのを我慢しているのか、勝手に温度が変わっているだけか。
歩きながら、私は自分の心臓の音を聞いた。
いつもより少し速い。驚きと不安と、それから――ほんの少しの好奇心。
関わりたくない。
でも背中の重みは、もうここにある。
置いていくには整いすぎていて、綺麗すぎていて、ひとりで置いておけない感じがした。
霧の向こうに、結界柱が見えた。
検問所。旅人の列。柱だけが薄く青く光っている。未登録の呪具を拾うための光だと聞いたことがある。
背中の剣が、ふっと震えた。
『……おや?』
初めて、褒めじゃない声。
私は足を止めかけて、そのまま歩いた。止まったら目立つ。目立つと、面倒が増える。
「大丈夫だよね」
自分に言うみたいに呟く。
『大丈夫! 君は大丈夫だ! ――いや、違う。君が大丈夫というより……』
剣が言い淀んだ。
言い淀めるなら、最初から静かにしてほしい。
検問所が近づく。列の先で誰かが荷を開けて見せている。笑い声。軽い会話。日常の中にある制度の音。
私は列に並んだ。
背中の剣は、鞘口だけが少し温かい。拍手の熱が布越しに小さく伝わる。
――これが今日の寄り道になるんだろうな。
ため息を飲み込む。
霧の朝は優しい。優しいからこそ、油断すると余計なことが起きる。
そして今、背中から聞こえる声は、優しさの形をした厄介だった。
『持ち主よ』
剣が呼ぶ。
『君は――』
褒め言葉が来る前に。
結界柱が、ちり、と鳴った。
淡い青い光が、霧の中で“刺す”みたいに強くなる。
……え、さっきより明るくない?
視線が集まる。列が止まる。会話が切れる。空気が、ぴん、と張る。
私の息が白く止まった。
――あ。
やっぱり、こうなる。
そう思った瞬間、背中の剣が、嬉しそうに言った。
『見よ! 世界が君に気づいた! さあ! 主役の登場だ!』
違う。たぶん、そうじゃない。
でも私は逃げられない。
列の中で背中の重みを感じながら、次に来る“面倒”を受け止めるしかなかった。
霧の朝の音が、少しだけ尖って聞こえた。




