4.途中下車 捨てた荷物に 翼生え
翌朝、鳥のさえずりで目が覚めた。
遠くで小さなトラクターの音もする。
部屋の中はぬるま湯のようにあたたかく、布団の中から出る気がまるで起きない。
天井の木目をぼんやりと眺めながら、昨日の出来事が、まるで夢だったように思えた。
朝食は、マスターの奥さんが用意してくれていた。
ほかほかのごはんに、味噌汁、焼き鮭、ふきの煮物。素朴で優しい味だった。
昨日、自分の手で採った山菜が食卓に出ているかと思うと、なんだか妙に嬉しくなった。
「よかったら、また来てくださいね」
奥さんが柔らかく笑って言ったその一言が、やけに胸に染みた。
駅へ向かう途中、俺はもう一度、ギルドに立ち寄った。
朝の光が射し込むギルドのロビーは、昨日とはまた違った表情をしていた。
カウンターの中には、相変わらずのテンションで受付嬢・サヤカさんが立っていた。
「あ、ユウマさん。もうご出発ですか?」
「はい。短い旅でしたけど……楽しかったです」
「ふふっ。それは何より。では、これを」
差し出されたのは、ギルドの簡易パンフレットだった。手書きの地図、謎の依頼一覧、そして“勇者求む”という手書きPOP。
「またいつでも帰ってきてください。冒険者手帳は大事にしてくださいね」
横からカイトが顔を出す。
「今度は“初級鍛錬クエスト”もあるからな」
「それ、筋肉痛になるやつですか?」
「そう。きっついぞ?」
「……考えときます」
ギルドの扉を閉じて、坂道を下る。
ああ、ここに来てよかったな――と、心の底から思った。
駅へ続く道すがら、ひとりの中年男性とすれ違った。
くたびれたスーツ。緩んだネクタイ。
ぼんやりとして眠たげな表情。
彼もまた、”途中下車”してきたのかもしれない。
俺は思わず振り返り、無言で彼の背中を見送る。
そして心の中で、そっと言葉を投げかけていた。
(――よい旅を)
木造の駅舎にたどり着いた頃、ちょうど列車がホームに滑り込んできた。
車窓の外、霧坂町の景色が遠ざかっていく。
水の張られた田んぼ、木々の新芽、遠くに見える小さな屋根。
そこには確かに“異世界”があった。
現実に疲れて、ふらっと訪れた”旅人”を、やさしく受け止めてくれる場所だった
揺れる列車の中で、思い出したようにスマホを開く。
メールボックスには、あの上司からの未読メッセージが数件。
《至急対応》
《返事がないんだけど?》
《体調悪いのが本当なら診断書持ってこい》
《お前に足りないものは・・・
途中まで読んで画面を閉じた。
せっかくの余韻が台無しだ。
至福の夢から最悪な目覚ましで起こされた気分になった。
夜、神奈川のアパートに戻った。
荷物を下ろし、シャワーを浴び、冷蔵庫の水を飲みながら、リュックのポケットから冒険者ギルドのパンフレットを取り出す。
紙は少し折れ、端がくしゃっとしていたが、それすらも旅の記憶のようだった。
ページの片隅には、こう書かれていた。
『ここは、人生に迷った旅人のための、もうひとつの世界である』
『戦士、魔法使い、盗賊、村人──どんな者であろうと、挑戦する者は皆 ”勇者” である』
サヤカさんの笑顔と、レイジくんの軽いノリが浮かぶ。
あの、肩の力が抜けた空気。
ふざけているようだけど真剣で、誰も否定しない、あの場所。
気づけば、自然と笑みがこぼれていた。
声は出なかった。でも、胸の奥のもやがふっと晴れていく。
誰かの言葉じゃない、自分の中から答えが浮かんできたような、そんな感じだった。
翌日。
満員電車に揉まれながら会社に向かった。
オフィスに足を踏み入れた瞬間、空気が重くなる。
そんな中で、あの上司がいつものように嫌味な声を上げた。
「おいおい南條~。メール見てないのか? 三連休もとって良いご身分だな。お前なんか俺が居なけりゃ──」
俺はその言葉を遮るように、上司の机に封筒を叩きつけた。
「これ、退職届です。診断書は総務の方に提出してあります」
上司が口を開けたまま固まるのを気にもせず、俺はすうっと一礼して、その場を離れた。
足取りは不思議と軽く、このままどこへだって羽ばたいていける気がした。
ポケットの中で《ギルドコイン》を握りしめる。
新しい旅に出るのに必要なものは、
ほんの少しの勇気と、ほんの少しのバカさ加減。
俺の冒険は、まだ、始まったばかりだ。