3.途中下車 笑いの酒に 名を変えて
下山は、登りよりもいくぶん楽だった。
とはいえ、足元の踏ん張りで膝が笑いはじめていたのは確かで、犬──いや、もはや“使い魔”とでも呼ぶべき存在が先導してくれるのを見ていなければ、俺の足は止まっていたかもしれない。
「……なあ、この犬、どうすんの?」
俺がそう尋ねると、カイトは肩をすくめた。
「どうもしねぇよ。たまに山に現れるんだ、この子。野犬だけど、害はないしな。ギルド的には、いずれ訪れる伝説のテイマーを待っているってことにしてる」
「……伝説、あるんだ」
「ある……らしい」
カイトは照れくさそうに視線を逸らす。精一杯ロールプレイしようと努力しているようだ。
ギルドへ戻ると、カウンターの受付嬢──間宮サヤカさんが、ぱっと笑顔で出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、ユウマさん!」
「ただいま、って感じでもないけど……はい、帰ってきました」
「本日のクエストはいかがでしたか? 山菜の回収量と、冒険者精神の発揮度によって、報酬が決定いたします♪」
「冒険者精神って、定量化できるんですか」
「できるんです♡」
根拠のない自信に満ちた笑顔だった。
提出したふきのとうとタラの芽の束は、意外と量があったらしく、審査は“満足いく成果”とのこと。
その場で俺の《冒険者手帳》にスタンプが押され、そして──
「報酬はギルドコイン3枚、となります!」
小さな金属のコインが手のひらに載せられる。
思っていたよりずっしりと重く、真鍮色の表面には、ドラゴンと剣が交差する意匠が刻まれていた。裏面には《霧坂ギルド》の文字と、“令和五年度 第参版”の打刻がある。
「……本格的だな、これ」
「ギルドの職人さんが作ってくださってますの。観光協会の予算、ほとんどそこに注ぎ込まれております♡」
「バランス、大丈夫?」
「ギリギリです♡」
報告が終わった頃には、すっかり日が暮れていた。
窓の外、山の端に朱がにじんでいる。街灯の灯りがともると、ギルドの中は圧倒的にファンタジーじみた色合いになった。
「そんじゃ……晩飯行こっか?」
カイトがそう言って、俺を酒場へ誘った。
冒険者ギルドも本日の営業は終了らしく、サヤカさんも一緒に移動する。
霧坂町にある酒場《炉火の庵》──“農家民宿と食堂を兼ねた居酒屋”──は、ギルドの“公認休憩所”となっているらしい。
場所は駅から歩いて十数分の細い路地裏、古民家を改装した建物だった。
のれんをくぐると、暖かい光と、にぎやかな笑い声、そして鉄鍋で煮込まれる香ばしい匂いが迎えてくれた。
「らっしゃーい! おっ、ギルドの嬢ちゃんとカイトと……んー、見ない顔だな?」
カウンターの向こうから現れたのは、いかにも“酒場のマスター”という風貌のおじさんだった。その首元にはマントのようなストールが巻かれており、手には木板のメニューが握られている。
「こっちは今日登録したばかりの新人冒険者。名は……」
「南條です。南條悠真。えーと……よろしくお願いします」
「ユウマか。ようこそ霧坂へ。旅人よ、我が酒場はおぬしを歓迎しよう! なーんてなっ! がーっはっはっ」
「……あ、ありがとうございます」
町全体がそういうノリなのか。でも、悪くない。
料理はどれも素朴で美味く、ギルドコインを使えば一部のメニューは“無料”になる。
『旅人定食』『森の恵みプレート』『猪王のグリル』など、名前のセンスはともかく、味は確かだった。地元の酒もまろやかで、飲み口が良すぎて危険だ。
店内には、地元の若者たちと老人たちが入り混じっていた。
その中で、サヤカさんが平然と“ギルドの受付嬢衣装”のまま麦焼酎を飲んでいるのが、いろいろとすごい。
「……なんか、地域の寄り合い所っぽいですね」
俺がぽつりと言うと、カイトがグラスを持ち上げたまま笑った。
「ぶっちゃけ、ほとんど顔見知りだしな」
そう呟いたところで、ほろ酔いのサヤカさんが割り込んでくる。
「ふふっ。ですが、勇者様。現実世界にも、こうして《集いの酒場》があるというのは素晴らしいことでしょう?」
「……現実世界って言っちゃってるんですね。あと俺、”勇者”じゃないですよ」
「大丈夫です。“どちらかが嘘”とは、誰も言っていませんから♡」
にっこりと笑うその顔は、なぜか反論の余地を与えてくれない。
そして、サヤカさんはおもむろに立ち上がり、ジョッキを高々と掲げた。
「村人だろうと、旅人だろうと──」
その声が、酒場のざわめきを押しのけて響く。
「挑戦する者は皆っ──!」
酒場にいた全員の視線がさやかに向かう。誰もが息を呑む中、
「“勇者”であるっ!!」
ジョッキが掲げられた瞬間、場が一気に弾けた。
「おおーっ!!」
「乾杯ーっ!!」
「ゆーしゃー! ゆーしゃー!!」
気づけば老人も、若者も、冒険者たちも、みんな笑っていた。
おのおのがグラスや茶碗を掲げ、響き渡る「乾杯!」の声とともに、酒場は熱気と笑い声に包まれた。
ファンタジーの”ごっこ遊び”と、現実の暮らしの境目が、音もなく溶けていく。
その光景を眺めながら、俺もそっとジョッキを持ち上げた。
「……乾杯」
誰にも聞かれなかったけど、それでも十分だった。
ここは、そういう場所なのだ。
宴もひと段落ついた頃、奥からマスターの声が聞こえた。
「おーい、カイト! 嬢ちゃん完全にダウンしてるぞ!」
「……うわ、やっぱりか」
カイトが眉をひそめて駆け寄ると、そこにはローテーブルにもたれかかるさやかさんの姿があった。
頬を赤く染め、「勇者ぁ……ふふふ……挑戦する者は……うぅ……」などと呟きながら夢の世界を旅している。
「トイレから戻ってこないと思ったら……久々の限界突破だな」
カイトは苦笑しながら、彼女の肩に手を回し、支えるようにしてゆっくり立たせた。
「タクシー呼んであるんで、送って帰ります」
「……慣れてる感じですね」
「まあ、よくあることなんで」
サヤカさんはうとうととしながら、カイトの肩に寄りかかり、満足げに笑っていた。
「カイトさん……今日は……勇者が……あれら……ろ……」
「はいはい、歩けますか? ここ段差ありますよ」
玄関までゆっくりと連れていくカイトの背中を、俺は思わず見送っていた。
タクシーのライトが遠ざかっていく。
さっきまで熱気に包まれていた酒場は、いつの間にか静寂を取り戻しつつあった。
夜も更け、マスターに案内されて二階の宿泊部屋に通されると、そこには木の香りが漂っていた。
布団もきちんと敷かれていて、旅館というより“祖父母の家”に泊まりに来たような安心感があった。
「……旅に出てよかったな」
最初は“旅人”だった。でも今日、ほんの少しだけ“冒険者”に名を変えた……そんな気がした。
都会の音はもう、頭の中から消えていた。