62.師匠の兄貴
夏休み初日からの二泊三日に亘る熱海温泉旅行は、色々なアクシデントや思わぬ展開があったものの、特に大きな事故に見舞われることも無く、全員が無事に帰り着くことが出来た。
帰路の新幹線内では雪奈と裕太の間に流れる空気は相変わらず微妙ではあったものの、二日目の夜程のぎこちなさは消えており、或る程度のコミュニケーションは復活している様にも伺えた。
(まぁ後は本人らの問題やしな……しばらくは放置や)
その後、皆と別れて自宅マンションに到着した徹郎は、荷解きと溜まっていた洗濯物の始末などに手を付けながら、今夜の夕食メニューを考えている。
ホテルの晩餐が余りに豪勢だった為、ついそちらに思考が引っ張られてしまうが、流石にひとり暮らしの自宅メシで同じことは出来ない。
そんなことを思いながら時計を見ると、丁度午後の二時を少し過ぎたところだった。
(まだ早いな……いつもんとこで何か買うか)
徹郎は旅行帰りのスウェットジャージ姿のままで自宅を飛び出し、行きつけのスーパーへと足を運んだ。
いつもの見慣れた店内、見慣れた品揃えに、何故か安心感を覚えてしまう。
ところがその中にひとつだけ、異質な光景が紛れ込んでいた。
どうやら牛乳の新商品の試飲をやっているらしいのだが、その試飲販売店スタッフが、どう見てもニーナ・ニーナのリーア改め沙璃耶だったのである。
「あれ……結城先輩、バイト増やしたんですか?」
「あ、鬼堂君! 奇遇ね……もしかして、ここの常連さんだったりする?」
聞き返しながら、沙璃耶は徹郎が提げている買い物かごに視線を落とした。
中に放り込まれているのはいずれも本日のお買い得品や、店長オススメとチラシに書かれていた広告の品ばかりであった。
「まぁ、家近いんで、大体ここで済ませてますけど」
「へぇ~そうなんだぁ……ってお喋りしてる場合じゃないや。はい、良かったらこれ、ひと口飲んでみて」
沙璃耶が差し出したトレイから、真っ白な液体が入った小カップをひとつ受け取る。その味は、決して悪くなかった。自宅で飲むココアに合うかも知れない。
(けど、なえちーんとこから送って貰ってるサブスク牛乳もあるしなぁ)
そんなことを考えながら、すぐ横のごみ袋に空いた小カップを放り込んだ。するといつの間にか、近くに居たマダムが数名寄ってきて、是非試飲させてくれと手を伸ばしている。
「こんなイケメンが美味しそうに飲んでるんだもの、放ってはおけないわねぇ」
「あら、結構濃厚でイケるじゃない。お姉さん、一本頂戴よ」
などと、あっという間に大盛況になってしまった。
沙璃耶は嬉しい悲鳴を上げながら、件の新商品牛乳をどんどん売り捌いてゆく。
徹郎は別段売り上げに貢献したつもりは無かったのだが、沙璃耶が小声で礼をいいながら、笑顔で頭を下げていた。
(まぁ、頑張って下さい)
徹郎も無言で会釈を返しながら、買い物を続けた。
後で聞いた話だが、徹郎の様な長身且つ頑健な体躯の青年が美味そうに試飲していたのが常連客のマダム達の心をがっちり掴んだということらしい。
そんなことを、バイト終わりの沙璃耶が態々SNSで寄越してくれた。
(へぇ……そんなことって、あるんや)
沙璃耶曰く、物凄い売り上げだったということから、店長が臨時でボーナスを弾んでくれたらしい。そこで彼女は、御礼がてら食事はどうかと誘って来た。
といっても、精々ファミレスで奢ってくれる程度なのだろうが。
で、ついでに少し相談したいことがあるのだという。
(……何やろ? 困りごとでもあんのやろか)
そんなことを思いながら、徹郎はOKの返事をDM上にしたためた。
◆ ◇ ◆
その日の夜は結局、沙璃耶の奢りでファミリーレストラン『キャスト』での夕食ということになった。スーパーで買い込んだ食材は明日以降のおかずにでも廻せば良い。
待ち合わせ場所となった駐輪場で合流を果たしたふたりは、そのまま店内へと吸い込まれていった。
「んで、相談て何です? 何か困りごとでも?」
ウェイトレスが運んできた生姜焼き定食に手を付け始めながら徹郎が水を向けると、パスタセットにフォークを差し込んでいた沙璃耶は、何ともいえぬ表情で小さく肩を竦めた。
「最近ね、出禁になったお客が居るんだけど……そのひとがちょっと、困ったお兄さんでさぁ」
曰く、店の女性スタッフ数名に対してストーカー紛いの行為を続けているらしく、被害に遭った娘は怖くなって出勤拒否に至っているのだという。
流石にこれは捨て置けないということでニーナ・ニーナのオーナーは被害届を提出したらしいのだが、その出禁客は今度は女性スタッフの自宅周辺をうろつく様になっており、店としても対応に苦慮しているとの由。
店舗への通勤時であれば守ってやることも出来るのだが、流石にプライベートの時間までは手が廻らないというのがニーナ・ニーナのオーナーの弁だった。
(まぁ、そらそうやろな)
徹郎もその辺の理屈は理解出来る。女性スタッフといえども、ひとたび店を離れればそこから先は彼女達自身の時間だ。そこにまでオーナーが手を出すのは不可能だろう。
しかもこの出禁客は遠くから彼女達を尾行して眺めているだけだから、実害が出ている訳ではない。これでは迷惑防止条例違反に問うことも出来ないのだという。
しかし当人達は怖がっているから、何とか対処したいというのが沙璃耶の願いだった。
「何か良い方法、無いかしら?」
「まあ一番確実なとこやと、その出禁客に別の趣味なり何なりを見つけさせるってことなんでしょうけど」
厄介なのは、直接の被害が出ていないという点だ。これでは警察も動けない。精々注意喚起までだろう。
(あかりんの時みたいに、反社でビビらすか?)
とも考えた徹郎だが、ここは熱海ではない。地元で変なところを目撃されれば、今度は徹郎自身が困ることになる。それはちょっと頂けない。
「何か出来ることもあるかも知れんので、人相だけでも教えといて貰えます?」
「えっとね、チェキならあるんだよ」
いいながら沙璃耶は一枚の写真を取り出し、テーブル上にそっと差し出してきた。
受け取った徹郎は、危うくお茶を噴き出しそうになった。
(うわ……マジかこれ)
それは、徹郎の同級生でラノベ師匠の飯村守――の兄で、確か浪人生の飯村孝という人物だった。過去に徹郎が守の家までライトノベルを借りに行った際、何度か顔を合わせたことがあった。
中々特徴的な顔立ちだったから、忘れる筈も無い。
(何やってんのよ、あのひとは……)
徹郎は内心で、盛大な溜息を漏らした。
新たな火種の誕生なのかも知れない。




