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60.同じスタートラインに立った女

 熱海温泉旅行、二日目の夜。

 皆で揃って大宴会場へと足を向け、夕食のテーブルに就いた。

 ところがこの席で、徹郎は雪奈と裕太が妙によそよそしく、互いに視線も言葉も交わさない様子にふと疑問を覚えた。

 まさか――何となく直感した。が、この場では何もいわない。恐らくこのふたりのいずれかから、或いは双方から話を持ってくるかも知れない。

 それまでは、こちらから下手に踏み込まない方が良い。

 徹郎は何も気づかなかった体を装って、灯香梨と奏恵、礼司の三人と談笑しながら豪勢な食事を平らげていった。

 そしてホテルの大浴場でこの日最後の入浴を済ませたところで、事態が動いた。

 大浴場前の休憩エリアで自販機からコーヒー牛乳を取り出していた徹郎の背後に、ホテル備え付けの浴衣を纏った雪奈がそっと歩を寄せてきたのである。


「……徹っちゃん、ちょっと良い?」


 呼びかけてきた雪奈の顔は、少しむくれている。余り機嫌が良くなさそうだ。

 徹郎は遂に来たかと内心で身構えつつ、素知らぬ風を装って振り向いた。


「何や? また女子部屋でトランプか?」

「うぅん……そうじゃない。ちょっとふたりで、話がしたいの」


 雪奈は休憩エリアの隅の方にあるテーブルへと徹郎を誘った。そうして椅子に腰を落ち着けるなり、彼女は身を乗り出す様な格好でその美貌をぐいっと寄せてきた。


「徹っちゃんさぁ……キリーがあたしにコクること、知ってたよね?」


 成程、と徹郎は内心で合点すると同時に、裕太の予想外に早かった行動に感嘆する想いでもあった。

 確かに背中を押したのは徹郎だが、裕太は案外、最初からこの旅行の中で雪奈に告白する腹積もりだったのかも知れない。

 恐らく、気付いていなかったのは雪奈当人だろう。だから彼女は戸惑っているのだろうし、裕太に告白の指示を出した徹郎に色々と思うところがあるのかも知れない。

 その雪奈に対し、徹郎は知っていた、と素直に頷いた。


「徹っちゃん……それってちょっと、ヒドくない? あたしの気持ち、分かってんでしょ?」

「そういうゆきっぺも、大概残酷なこというとるで」


 徹郎は能面の様に表情を消しながら応じた。

 対する雪奈は徹郎の言葉の意味が理解出来なかったらしく、訝しげに眉根を寄せた。

 矢張り、彼女は分かっていない――徹郎は細々と説くのは野暮だとも思ったが、しかし裕太の気持ちをここで代弁しておかなければ、雪奈は一生理解出来ないままだと判断した。

 ここは多少キツい表現になったとしても、雪奈に分からせておく必要がある。


「振られるにしてもOK貰えるにしても、桐島は桐島で、次のステップに踏み出す機会が要る。そうでなかったらあいつはずっと、生煮えのままや。ゆきっぺはあいつに、そんな中途半端な状態でこの先も過ごせっていいたい訳か?」

「う……そこまで、いうつもりは、無いけど……」


 雪奈は、徹郎が裕太の背中を押した意図を理解したらしい。だが彼女には彼女の気持ちもある。だから理解はしても、納得は出来ていないのだろう。

 その雪奈の気持ちも、徹郎は分かっていた。だからこそ、ここからは徹郎も腹を括る必要があった。


「まぁでも、それならそれでゆきっぺも次に進めんままやし、不公平ではあるわなぁ」


 徹郎のこの台詞の意味を、雪奈は即座に理解したのだろう。少しばかりの期待を滲ませた瞳で、徹郎の顔を真正面から覗き込んできた。

 が、ここから吐く台詞は恐らく、彼女の望んでいたものとはかなり方向性が異なるものになる筈だ。雪奈は果たして、耐えられるかどうか。


「はっきりいうとくわ。俺の彼女になる女には、どうしても譲れん条件がある」

「うん……それって、何?」


 徹郎の射抜く様な視線に若干の緊張を孕ませながら、雪奈は尚も身を乗り出してきた。


「俺の好みとかどうこういう以前に、俺と付き合う女に絶対必要な条件は、腹が据わってることや」

「……どういうこと?」


 雪奈は理解が及ばなかったらしく、両の瞼を何度も瞬かせた。

 徹郎はここでひと息入れてから、一気に勝負へと出た。


「俺な、学生ではあるんやけど、実は特別国家公務員の下請けみたいなとこにも入っててな。そこの指示で、或る日突然、他所へ行ったりせなあかん状況も出てくるんや。そうなった時、すっぱり別れてくれっていわれて、ゆきっぺはハイ分かりましたっていえるか?」


 この時、雪奈は呆然としたまま表情が凝り固まっていた。が、ややあって彼女は、何かを思い出した様子であっと小さな声を上げた。


「そういえば徹っちゃん、西公園であたしを助けてくれた時……何か、めっちゃ強かったよね……あれってもしかして、そういうこと……?」

「それ以上は訊くな。今ここで俺がいうた情報だけで判断してくれ」


 雪奈は何かを察したらしい。そこで一旦口を閉じ、テーブルに視線を落として考え込んだ。

 腹が据わる、ということの意味を頭の中で色々吟味しているのだろう。


「ね……その徹っちゃんのお仕事って、辞めることは出来ないの?」

「出来ん」


 ここはバッサリと斬り捨てた。少しでも希望を持たせることは、口が裂けてもいえない。

 徹郎は己がCIA諜報員として生きてゆくことを、今更捨てるつもりは無かった。

 そんな徹郎に対し、雪奈は何故かほっとした様な笑みを浮かべた。納得したのかどうかは分からないが、彼女の中で腹落ちした部分があるのだろうか。


「そっか……でも、徹っちゃんがあたしや、他の子からどんなに気持ちを向けられても、絶対に応えようとしなかった訳が、やっと分かったよ。あたし達のことが嫌いとか、そういうことじゃなかったんだなって思ったら……何だか急に安心しちゃった」


 この瞬間、徹郎は頭の中に幾つもの疑問符を浮かべた。

 雪奈はすっぱり諦めるだろうと高を括っていたのだが、どうも変な方向に解釈している節がある。


「ってことはさ、皆スタートラインは同じってことじゃん。それって、スゴくない?」

「いやいやいや、ちょっと待て。何でそういう話になんねん」


 今度は徹郎の方が守勢に回る番だった。雪奈がまさか、こんな形で前向きになるとは思っても見なかった。


「だってさぁ、あたしの知ってる子の中で、徹っちゃんがいう様な腹の据わってる女なんて、ひとりも居ないじゃん。まぁあたしもそうなんだけど……だったらそれって、全員が条件同じなんだから、皆にチャンスがあるってことじゃん。めっちゃ燃えてくるじゃん」


 雪奈の中では、徹郎が求めるレベルの『腹の据わった女』は実現可能だという理解らしい。これは少し想定外だった。

 それから雪奈は、徹郎から視線を外して小さく笑った。


「キリーも大変だなぁ……こんな怪物トロフィー目指してる女にコクるなんて……」


 徹郎は腕を組んだまま、眉間に皺を寄せる。図らずも奏恵より先んずる形で、雪奈に徹郎の彼女になる為の条件を説明した格好になった訳だが、どう転ぶのか全く読めなくなった。

 一方の雪奈は、先程までとは随分と表情が異なり、機嫌良さそうに立ち上がった。


「ありがとね、徹っちゃん。やっぱり、こう……目標が出来るのって、良いよね。やる気出ちゃう」

「どんなやる気スイッチやねん……」


 徹郎は飲み残しのコーヒー牛乳を一気に呷った。

 悪い予感しかしなかった。

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