59.三人目の仇名
熱海の七湯巡りといっても、実際に日帰りで湯に浸かれる施設があるのはそれらの周辺であり、七湯と呼ばれるものはどちらかといえば観光資源と呼んだ方が正しい。
熱海市が公式にホームページなどで紹介しているのは大湯間欠泉、河原湯、佐治郎の湯・目の湯、清左衛門の湯、風呂の湯・水の湯、平左衛門の湯、野中の湯の七つ。
徹郎、灯香梨、奏恵の三人はこれら七湯で温泉玉子を作ったり、スマートフォンで記念撮影をしたり、或いはそれらの近くに点在する日帰り温泉に浸かって汗を流すなどして結構な時間を費やしながら遊んだ。
そして時折カフェや土産物店などに立ち寄り、ふたりを涼ませることも忘れなかった徹郎。
正直、最初は美女ふたりを連れて練り歩くのは面倒だとばかり思っていたが、三人で過ごすのは、それはそれで楽しいと思える時間となった。
やがて陽も少し傾き始め、そろそろホテルに戻ろうかという頃合いになった。幸いすぐ近くに、泊まっているホテルへのシャトルバス停留所がある。
次の便が来るまでに十数分程度の空き時間があったが、三人はエアコンがよく利いている涼やかな待合室で、適当に喋りながら時間を潰そうということになった。
と、ここで奏恵が妙に改まった様子で、ベンチの隣に座る徹郎にじぃっと視線をぶつけてきた。
「実は鬼堂君に、お願いがあるんだ」
「何や、急に改まって。嫌な予感しかせぇへんのやけど」
徹郎は微妙に警戒しつつも、しかし一応は耳を傾ける。奏恵にはココア専用ミルクの手配やその他諸々で、何かと恩義がある以上、無下に断る訳にもいかない。
すると奏恵は、微妙に恥ずかしそうに頬を赤らめながら、まるで少女の様な顔つきで迫ってきた。
「その……ボクにも、何か仇名が欲しいな。委員長ってのは、何ていうかちょっと、別に悪くはないんだけど、親しい友人同士で呼び合う仇名にしてはちょっと他所向きというか……」
「またそのシリーズか。女子ってそういうの、好きやなぁ」
太い腕を組んで首を傾げる徹郎。
その徹郎を挟んで反対側の隣から、灯香梨が何故か食い気味に徹郎の横顔を見つめてくる。
雪奈に対してユキチなどと名付けようとした前科があるから、センスを疑われているのかも知れない。
が、奏恵ならば少々期待から外れていても、文句はいわれない様な気がした。
そうしてしばし考え込んでいた徹郎だが、何とか無い知恵を絞ってひねり出してみた。
「ほんなら、なえちーでエエかな。最初かなちーで考えたけど、それやと悲しいって意味にも取れてまうし」
「へぇ……鬼堂君のセンスにしちゃ、悪くないね」
奏恵は決して社交辞令ではなく、本当に嬉しそうに笑った。もしかすると彼女は、親しい友人同士でこんな風に仇名で呼び合うというのが、今まで余り無かったのかも知れない。
見た目は大人びたクールビューティーであり、年齢以上にセクシーでもあるから、高嶺の花という印象が強いのも事実だ。そんな彼女に、気安く仇名で接するというのは、周囲からすれば畏れ多いと感じられ、敬遠されてきたのかも知れない。
「なえちー……うん、良いね。ありがとう。じゃあボクからも、鬼堂君への呼び方を考えて良いかな?」
「結局、そうなるんかいな」
何となく、予感はしていた。
が、矢張り相手は奏恵だ。拒絶など以ての外だ。ここは諦めて受け入れるしかない。
とはいいながらも、奏恵は考え込んでしまった。案外、何もアイデアを持たないまま徹郎に申し入れてきてしまったのかも知れない。
「テツ君も徹っちゃんも、ボクから呼ぶにしてはちょっと、響きが違うんだよな……」
「そんな拘るとこなん?」
却って徹郎の方が驚いた。
灯香梨も奏恵が示した妙な気の遣い方に、幾分驚いた色を滲ませていた。
「そうだ……鬼堂君は小さい頃、どんな風に呼ばれてたんだい?」
「昔か……昔なぁ」
徹郎の記憶の中にあるのは、常に諜報員候補生として生きるか死ぬかの戦いの連続だった。同じ年頃の子供達と仇名で呼び合う習慣など、経験したことは一度も無い。
そんな中で、若い教官が冗談で呼びかけてきた妙な仇名があったことを思い出した。
「鬼徹、やな」
「オニテツ? 中々渋い呼び方じゃないか」
かなり独特な呼び名であるといって良いかも知れない。実際灯香梨も、そのアイデアは無かったと変な方向で低く唸っている。
勿論徹郎自身はどの様に呼ばれようが、まるで気にはならない。要はその呼び方が徹郎を指しているということが分かれば良いのである。
「うん、それで行かせて貰うよ、オニテツ君」
「ああ、君は要らん。オニテツだけでエエわ……せやけど多分知らん奴が聞いたら、誰のこというてるんやってなるやろな」
からりと笑った徹郎。自分の中では実に懐かしい響きだ。矢崎オフィス長の孫が、諜報員候補生時の仇名を口にするというのも、これはこれで何かの因縁かも知れない。
「じゃあ改めて宜しく……その……えっと……オニテツ」
奏恵は妙に気恥ずかしそうに視線を脇に逸らせながら、頬を上気させている。
オニテツと呼ばれるのは徹郎の方だというのに、何をそこまで恥ずかしがることがあるのか。徹郎には、よく分からなかった。
「あ……シャトルバス、来たよ」
何となく微妙な雰囲気になりつつあったところに、灯香梨がまるで救われたかの如く待合所前の道路を指差した。
徹郎は何の気無しに立ち上がったが、この時どういう訳か奏恵が腕を絡ませてきた。
一方、灯香梨はそんな奏恵の姿には気付いた様子も無く、率先してシャトルバスへと乗り込んでゆく。
奏恵の表情は、どこか照れ臭そうだ。しかし徹郎はそんな彼女を邪険に振り払うことも無く、奏恵の好きにさせたまま待合所の自動ドアを出た。
昨晩確かに突き放した筈の徹郎ではあったが、奏恵の気持ちはその程度では崩れなかったのかも知れない。
(あぁでも、約束やから、いわんと拙いか)
海鮮バルの会場で矢崎オフィス長から恋愛解禁の許可が出たことを、奏恵には伝えておかなければならない。問題はそれを、いつ口にするかだ。
少し考える時間が必要だった。




