57.謎のインド人スパダリ
徹郎はパエリアを手にした奏恵の接近を背後に感じつつ、懸命に思考を巡らせた。
何とかこの場を上手くやり過ごさなければ、これまでの苦労が水の泡だ。
ところが徹郎が対処を思いつくよりも早く、秘密オフィス長の室田改め矢崎謙蔵が孫娘を溺愛する好々爺然としたにこやかな笑みを浮かべつつ、奏恵に軽く手を振った。
「おぉ、奏恵か。今日はこっちに来ておったんだな……で、彼は奏恵のお友達かい?」
「うん。ボクのクラスメイトで鬼堂君っていうんだけど、おじいちゃんの知り合いだったの?」
不思議そうに小首を傾げる奏恵。
矢崎オフィス長はそうだったのかと大袈裟に驚く素振りを見せた。
「いやぁ、実は鬼堂君には少し前に東京で助けて貰ったことがあってねぇ……その時の御礼もしたいから、少しだけ彼を借りても良いかな?」
「へぇ~、そうだったんだ……そんな偶然、あるもんなんだね……うん、勿論良いよ。鬼堂君、うちのおじいちゃんを宜しく頼むね」
奏恵は別段、これといって疑う様な素振りは見せず、来客用のスタンドテーブルに場所を移して、ひとりでパエリアを堪能し始めた。
そんな彼女を尻目に、徹郎は矢崎オフィス長とにこやかに会話を交わす体を装いつつ、とある屋台店舗の脇まで連れ立って歩いた。
「オフィス長、どないなっとるんですか……俺がお孫さんと一緒に来るってこと、把握してはらへんかったんですか?」
「いやいや、済まん。ホテルやら何やらの手配は全部、表の方の部下に任せっきりだったものでな……」
矢崎オフィス長は今になって冷や汗が噴き出してきたのか、白いハンカチで皺深い額をしきりに拭った。
徹郎はやれやれとかぶりを振ってから、奏恵を遠目に一瞥した。彼女は徹郎と矢崎オフィス長を訝しむ様子も無く、パエリアをもぐもぐと美味そうに頬張っている。
しかしそれにしても、困ったことになった。奏恵がCIA極東支局員の身内だったとなると、いつどこで、徹郎の正体がバレてしまうのか分かったものではない。
その点を矢崎オフィス長に追及すると、この老齢のCIA局員は心配するなと低く笑った。
「あの子の様子を見るに、どうやら徹郎君を憎からず想っている様じゃないか」
「それとこれと、何がどう関係あるんですか」
徹郎はあからさまに渋い表情を向けた。
彼は昨晩、奏恵の想いを突き放したばかりなのだ。それが丸一日も経たないうちに、どうしてそんな方向に転がるのか。
「うちの孫を妻に取れ。それで万事解決だ」
「何いうてはるんですか。俺らまだ、高校一年のガキですよ」
徹郎は鼻の頭に皺を寄せた。
如何に奏恵が矢崎オフィス長の孫だとはいえ、諜報員の妻などという危険な立場に置くことは徹郎自身、納得がいかない。彼女の様な器量の良い美人なら、他に幾らでも引く手あまただろう。
何も態々、破滅の人生に足を踏み込ませる必要は無い。
ところが矢崎オフィス長は、残念そうにかぶりを振った。
「徹郎君……君はもうちょっと、自分に自信を持つべきだな。真田もいっていたが、君は数百人にひとり居るか居ないかという程の、完成された超人なんだ。君が一般人の妻や恋人を身近に置いたからといって、そうやすやすと大事なひとを危険に晒すとは思えないがね」
これはつまり、矢崎オフィス長が徹郎に対して恋人や伴侶を持つことを許可したともいえる。
いいかえればCIAが公式に、人並みな生活を送る権利を徹郎に認めた訳だ。
しかし徹郎は、だからといって奏恵を身近に置こうとは思わなかった。徹郎がこれまでに見てきた地獄が、二の足を踏ませていることは間違い無い。
「そう簡単にいわはりますけど、俺ん中では、まだあいつらの死に顔が抜けへんのですわ」
この十年間、徹郎は極限を超えた訓練の中で何人もの同期達を失ってきた。彼の目の前で、一体幾つの命が儚く消えていったことか。
まだまだ若い、これから先の人生の方が遥かに長かったであろう同年代の子供達が、訓練の中で次々と命を落としていった。
それらの記憶が、徹郎の中に未だ生々しく刻み込まれている。自分は、彼ら彼女らの犠牲の上で今の人生を歩んでいるのだ。
それなのに、自分ひとりだけが青春を謳歌するなどおこがましいにも程がある。
そして今後も間違い無く、徹郎には苦難の数々が待ち受けていることだろう。そんな修羅の道に奏恵を巻き込んで良い筈が無い。
「それでも、だ。徹郎君……君はもっと自分自身の幸せを考えても良いんじゃないか? そしてその相手に、うちの孫を選んでやってくれたら、私としても嬉しい限りなんだがね」
「命令なら従いますけど、そうでないなら、ちょっと聞けませんわ……まぁこの話はこの辺にしときましょ。それで今後はどう対処したら宜しいですか?」
徹郎の問いかけに、矢崎オフィス長は特に何もしなくて良いと笑った。
CIAの身分さえ明かさなければ、或る程度の事情は話しても構わないとすらいい放った。余程に徹郎のことを信頼しているのだろう。
「まぁそうだな……特別国家公務員の下請け組織に所属している、ぐらいのことはいっても構わないさ。まぁ国家は国家でも、日本ではなくアメリカなんだがね」
「分かりました。まぁそれ以上はお孫さんも突っ込んでは来ませんでしょう」
そこで徹郎は、矢崎オフィス長と別れた。余り長い間彼と話し込んでいては、奏恵の不審を買ってしまう。
そうして徹郎が奏恵の陣取っているスタンドテーブルに戻ると、いつの間にか灯香梨、雪奈、礼司、裕太の四人も合流していた。
そこで奏恵が、徹郎と自分の祖父が知り合いだったらしい旨を告げると、雪奈が仰天した様に目を丸くして声を裏返した。
「うっひゃあ……徹っちゃんて、もしかしてスパダリの素質アリなんじゃない? 地元の名士とお知り合いだなんて、ちょっとフツーじゃないよ!」
「何やスパダリて。謎のインド人か?」
その瞬間雪奈のみならず、他の面々も一様に凍り付いてしまった。
「え……テツ君、知らないの? スーパーダーリンって意味だよ」
「いや、どう考えてもインド人の名前やろ、スパダリて。百歩譲ってもスリランカ人にしか聞こえんわ」
その直後、雪奈が腹を抱えて膝から崩れ落ち、肩を小刻みに震わせ始めた。声にならない笑いが、雪奈の腹筋を激しく崩壊させている。
「ゆきっぺ、完全にツボったなこりゃ」
裕太が呆れて、横から雪奈の必死に笑いを堪える横顔を覗き込んだ。
「謎の、インド人って……徹っちゃん……それ、ちょっと、可笑し、過ぎ……」
「いつも思うが、大塚さんの笑いの臨界点は、相当低いな」
礼司も呆れて肩を竦めた。
雪奈は尚も、うくくくっと笑いを堪えるのに必死だった。




