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56.まさかの同一人物

 翌朝、徹郎は予定通り夜明け前に起床して、ビーチの隣に位置する漁港へと足を向けた。

 そのすぐ近くに24時間営業の釣具店があり、そこで予約しておいたレンタル釣り具と餌を受け取って、釣り人が点在している防波堤へと向かう。

 いつもならサビキ釣りで鰯の群れを狙うところだが、流石に出先のホテルには持ち帰る訳にもいかない為、キャッチアンドリリースを目的としたチヌ釣りに興じることにした。

 チヌとは、クロダイの別名である。

 サイズによって色々と呼び名が変わり、それも地方によって異なるから、統一性にやや欠ける。関東ではチンチンやカイズと呼ばれることも多く、案外チヌという名では通用しないところも少なくない。

 が、釣り業者の間でならばチヌといえば大体通じる為、徹郎もこの釣具店では普通にチヌ釣り一式でと申し入れていた。

 老齢の店長は、その若さでチヌ釣りとは洒落てるねぇ、などと真っ黒に日焼けした皺深い顔で眉根を開いていた。

 チヌ釣りは、兎に角難しい。

 というのも、チヌは非常に警戒心が強く、少しでも仕掛けや餌に不自然さがあれば絶対に食いつかない。

 その高い難易度から、生涯を通しての趣味にする釣り人も多く、極めようとすればする程に奥の深い獲物といえるだろう。

 そして餌釣りでもルアーでも対応出来る相手だが、この日の徹郎は餌釣りで挑むことにした。

 兎に角色んなものに食いつくことから、餌の種類も多種多様に亘る。今回はゴカイで攻めることにした。


(さて……ここのチヌは、どんな食いつき方しよるんかな……?)


 徹郎は静かに、ただ無心で挑む構えを見せた。チヌ釣りは忍耐力との戦いでもあるのだ。

 そうして夜明けを迎え、少しずつ陽射しが強くなり始めた頃、不意に何者かが近づいてきた。


「おはよう、鬼堂君。釣れてるかい?」


 奏恵だった。

 今朝の彼女は白いTシャツに七分丈パンツを合わせている。昨晩の妖艶な浴衣姿とは、随分と印象を変えてきた。

 徹郎は海水で浸したバケツを目線で示した。そこにやや小ぶりなチヌが三尾、大人しくじっとしているのが見えた。


「わぁ……これは、何て魚なんだい?」

「チヌ。クロダイっていうた方が、通じるかな」


 奏恵はしゃがみ込んで、物珍しそうに覗き込んでいる。普通、都会の女子がチヌ釣りのことなど知る筈も無いだろうから、多少の興味ぐらいは抱くかも知れない。


「これって、食べられるのかな?」

「うん、まぁ不味くはないけど、単価安いから、市場にはあんまり出回らんのとちゃうかな」


 スーパーなどで見かけることは少ないだろうが、中央卸売市場の近隣の店に足を向ければ、時折目にすることもあるだろう。


「鬼堂君、写真は撮らないのかい?」

「そやなぁ……ぼちぼち朝飯の時間やし、撮るだけ撮って返そか」


 徹郎は竿を収めて、スマートフォンを取り出した。

 すると奏恵が、一緒に撮って欲しいとせがんできた。


「んじゃあ、上から撮るで」


 徹郎が立ち上がってスマートフォンのレンズを下に向けると、奏恵はバケツの横にその端正な顔立ちを添える格好でピースでポーズを作る。


「撮れたで」

「あ、じゃあそれ、ボクのスマホに送ってよ」


 今回の写真は、徹郎の姿はどこにも写り込んでいないから、奏恵のスマホに転送することは何の問題も無かった。

 その後、釣った三尾を海に戻して釣具店へと引き返し、レンタル一式の返却手続きを終えるからホテルへと足を向けた。


「鬼堂君は、今日も泳がないつもりかい?」

「うん、やめとく」


 すると奏恵が、ポシェットから一枚のチラシを取り出してきた。


「だったら、これ一緒に行かないかい?」

「ふぅん、海鮮バルか……美味そうやな」


 そんな訳で、この日の予定の半分は決定した。

 後は、同行するメンツが他に居るかどうかを確認して、人数を決定するだけである。


◆ ◇ ◆


 結局、海鮮バルには六人全員で出かけることになった。

 ホテルからは直通のシャトルバスが出ているのだが、会場となっているイベント開催広場は片道で数分程度の距離だった。


「お~、何か美味そうな匂い~」


 シャトルバスを降りた途端、裕太がずらりと並ぶ店舗ブースに目を輝かせた。

 本来なら入場券を購入した上でテーブルを確保しなければならないのだが、ここも奏恵が祖父の力を借りて、既に大体の段取りを終えていた。


「いやはや、委員長様サマだな」


 礼司が敬礼の仕草を見せると、雪奈と裕太も調子に乗って敬礼を送る。そんな三人に、奏恵は何ともいえぬ笑みを返していた。


「さぁて、鬼堂君……ちょっと見て廻ろうか」


 何となく居たたまれない気分になったのか、奏恵が手を取って早速会場内へと突入してゆく。徹郎は有無をいわせぬ奏恵の勢いに、ただついて行くしか無かった。

 そうやってふたりで人混みの中をうろうろしていると、不意に見覚えのある顔が遠くに見えた。


(おろ……あれは、オフィス長やんか。何でまた、こんなところに)


 徹郎は二度三度と見返したが、間違い無い。その老齢の人物は、熱海に置かれているCIA極東支局の秘密オフィスで長を務める男性だった。

 どうやら向こうも徹郎の姿に気付いたらしく、穏やかな笑みを浮かべながら歩を寄せてきた。


「おぉ、久し振りだな徹郎君。確か、今は普通の高校生として生活しているんだったかな?」

「はい……まぁ時限的な措置なんですけど、これも訓練の一環かなと思いまして」


 久々に顔を合わせたオフィス長は、いつもながら穏やかで、それでいて品のある紳士だった。

 ところがここで、思わぬ事態が発生した。


「あれ……鬼堂君、うちのおじいちゃんと知り合いだったんだ?」


 いつの間にか、パエリアをひと皿購入してきた奏恵が徹郎のすぐ後ろに立っていた。

 徹郎は完全に意表を突かれ、内心で僅かに狼狽。そしてオフィス長の方も、驚きを隠せない様子だった。


(まさか……んなこと、ある?)


 だが、どうやら事実の様だ。

 CIA極東支局の熱海秘密オフィス長たる室田謙蔵(むろたけんぞう)は、その本名を矢崎謙蔵というらしいことを、徹郎はこの場で初めて知った。

 そして彼が奏恵の祖父であることも、間違いの無い事実であるらしい。

 まさかの同一人物だった。

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