51.チンピラな男
宿は、中々豪勢なホテルだった。
高校一年生が泊まるにしては少し勿体無い気がしないでもなかったが、奏恵の祖父が折角尽力してくれたのだから、ここはお言葉に甘えてしっかり楽しませて貰おうということになった。
更にこのホテルの徒歩圏内には、白い砂が青空によく映えるビーチがある。徹郎を除く五人は早速水着に着替えて、海遊びに繰り出すことにした。
「鬼堂君、本当に行かないの?」
白いワンピースの水着に着替え終えた灯香梨は、男子部屋を覗き込んでひとりラノベを読みふけっている徹郎に声をかけたが、徹郎は海には行かんの一点張り。
「俺、下手に海出て焼ける訳にはいかんねん。エエから、楽しんどいでぇな」
「そうなんだ……じゃあ、また後でね」
物凄く後ろ髪を引かれる思いながら、灯香梨は他の四人が待つビーチへと足を急がせることにした。
が、途中で思わず足を止めた。
懐かしい声が、ビーチとホテルの間を走る歩行者用通路上で灯香梨を呼び止めたからだ。
「お前、もしかして……灯香梨か?」
振り向くと、そこに見覚えのある顔があった。山村頼明――灯香梨の初恋の相手で、元カレでもあった男だ。
「やっぱり、センパイ、だったんだ……」
熱海駅で新幹線を降りる際、灯香梨は遠目に頼明の姿を認めていた。まさかという思いと同時に、彼と別れた一年前の苦い記憶が脳裏に蘇ってきたのである。
雪奈に様子がおかしいといわれた際は、正直なところ、気が気ではなかった。皆の居る前で、頼明に声をかけられたらどうしようという妙な不安が込み上げてきていた。
その頼明が今、目の前に居た。
「その……元気だったか?」
「あ、えぇ、はい……あたしは全然、元気です……センパイは?」
問い返された頼明は、何ともバツの悪そうな笑顔を浮かべて頭を掻いた。曰く、新しい彼女と雰囲気が悪くなってきて、困っているのだという。
そうなんだ――灯香梨は自分が悪い訳でもないのに、何故か俯いてしまった。
昨年の夏に頼明から別れを切り出された時、遠距離でも良いから関係を続けて欲しいと切り出せなかった自分の勇気の無さを、今更ながら心苦しく思うのは何故だろう。
もう終わった恋の筈なのに、こうして再び顔を合わせると胸の奥がきゅっと締まる様な疼きを覚える。
だがこの時、灯香梨の脳裏には別の男の顔が浮かんだ。
アルバイトで窮地に陥った自分を、何もいわずに助けてくれた彼。
足首を挫いて折角の遠足が台無しになりかけた時に、大きな背中を貸してくれた彼。
今、灯香梨の中では頼明ではなく、いつも無言で手を差し伸べてくれた同級生の端正な顔立ちの方が圧倒的な存在感を示しつつあった。
だが同時に、雪奈や奏恵が同じ男性に好意を抱いていることも知っている。それだけにもどかしく、前に進むことが出来ない自分に苛立ちを感じ始めていた。
そんな時に今、こうして再び初恋の男性と相まみえた。これは一体、何かの運命なのか。
灯香梨はどこか気まずそうに笑うかつての恋人に、ただはにかんだ笑みを返すことしか出来なかった。
「なぁ、良かったら今夜、ちょっと話せないか? 俺もあれから色々あったし、灯香梨の今のことも知りたいし……」
「え、でも、あたし……」
灯香梨は断ろうと思ったが、しかしそこから先の言葉が続かなかった。
初恋のひとである頼明は、灯香梨の中では矢張り特別な存在だった。その彼が、今の彼女との間で色々困っているのなら、少しでも役に立ってあげたい、助けてあげたいという気持ちが強くなり始めていた。
そして結局、灯香梨は自分でも納得がいかないまま、何故か頷いてしまった。
「それじゃ、今夜9時頃に、あそこのホテルの前で待ってるからさ……」
それだけいい残して、頼明は去っていった。
この時の灯香梨は、元カレの苦しみを取り除いてあげたいという思いと同時に、凄まじい不安と後悔が込み上げてくるのを感じていた。
だが、頼明の言葉に頷いてしまった以上、今更後戻りは出来ない。
灯香梨は、このことは皆には内緒にしておこうと決意した。
◆ ◇ ◆
ホテルで供された夕食は非常に豪勢で、誰もがその味わいに舌鼓を打った。
そうしてひと通りの食事を終え、いよいよ温泉に浸かろうという段になって、灯香梨はちょっと用事があるからと女子部屋を飛び出した。
雪奈と奏恵は不思議そうな面持ちだったが、無理に灯香梨を呼び止めようとすることもせず、自由に送り出してくれた。
そんなふたりに後ろめたさを感じつつ、灯香梨は頼明に指定されたホテルまで行こうとした。
ところが、途中で暗い路地裏に、何者かに引っ張り込まれた。
頼明だった。
「御免な灯香梨……あのホテルの前はちょっと、都合が悪くなってさ……」
申し訳無さそうに頭を掻く頼明。
灯香梨は、何か事情があるのだろうと思いつつも、何故か不安が尽きなかった。だが今は、頼明の新しい彼女との関係について、色々聞いてやらなければならない。
己の中で込み上げてくる暗い感情を何とか意志の力で抑え込みつつ、灯香梨は必死に笑顔を作った。
「それでセンパイ……彼女さんとは今、どんな……」
「なぁ灯香梨……お前、今でも俺のこと、好きか?」
いきなり頼明が、灯香梨の言葉を遮って予想外のひと言を放ってきた。灯香梨は、表情が固まってしまった。このひとは一体、何をいっているのだろうか、と。
しかし頼明はとういう訳か、にやにやと笑っている。とても恋人との間で苦しんでいる男の顔ではない。
すると、暗がりの向こうからふたりの、いかにも軽薄そうな若い男共が現れた。
「よぉ山村ぁ。そいつがお前のいってたチョロい女?」
「へぇ~……如何にもぼーっとしてんな。でもこういう女って案外、あそこも締まって気持ち良かったりするんだよなぁ」
ふたりの男は灯香梨の左右に立ち、頼明と共に彼女を包囲する位置を取った。
灯香梨はこの時、頭の中が真っ白になったが、しかし全てを理解した。自分は騙されたのだ、と。
それもよりによって、かつて男女の仲にあった初恋の相手に。
最低だと思った。ただ元カレだというだけで、その言葉を信じて何の警戒も無く誘い出されてしまった自分を罵倒したくなった。
そして、同時に思った。
(鬼堂君……た……助けて……!)
だが、灯香梨は誰にも頼明のことを話していない。自分がこの場に来ていることも、友人らには一切明かしていなかった。
そんな状況で一体、誰が助けに来てくれるというのだろう。
ところが――思わぬ方向から、予想外の怒声が鳴り響いてきた。
「おぅこらぁ灯香梨ぃ! ワレェどこほっつき歩いとんじゃあ!」
灯香梨は一瞬、ビクっと身を竦ませた。
同時に、頼明と他の男ふたりも何が起こったのかと理解出来ないままの様子で、いずれもその顔が恐怖に引きつっている。
街灯の下に現れたのは、派手なアロハシャツに真っ白なスラックスを纏った190cm近い筋肉質の巨漢だった。
その声は間違い無く、徹郎――の筈だったが、この人物は袖口やはだけた胸元にカラフルなタトゥーをこれ見よがしにちらつかせており、金のネックレスやサングラス、更にはオールバックにまとめた黒髪など、どう見てもそのスジの男にしか見えなかった。
「おぅこらぁ……何じゃあお前らぁ? どこのシマのモンじゃい……まさかお前ら、うちのシノギに手ぇ出したんちゃうやろうなぁ?」
徹郎は、本物のヤクザとしか思えない程の迫力でのっしのっしと柄の悪そうな歩き方で近づいてくる。
頼明ら三人は、完全に縮み上がっていた。




