40.顔の無いヒーロー
徹郎はその場で180度反転し、猛スピードで駆け下りてくる自転車の軌道の、数十センチ横の位置に身を置いた。
そしてその自転車が自身の傍らを通り過ぎる瞬間、左腕を真横に押し出し、運転者の女子生徒の胴部に巻き付ける様にして抱き上げた。久々に、気合の声を上げた。
「……よっしゃ!」
勿論そのままでは、女子生徒の内臓に打撃が通ってしまう。その為徹郎は女子生徒を左の豪腕で抱き上げた瞬間に後方へ身を引き、衝撃を分散させつつその場で一回転した。
まさに、一瞬の出来事だった。
救出された女子生徒は、何が起きたのか全く理解出来ない様子で呆けた表情のまま、いつの間にか地面に佇んでいるといった調子だった。
周囲の下校中生徒達は、その鮮やかな救出劇を目の当たりにして、ただ唖然とするばかりである。
その間に徹郎は運転者を失ってバランスが崩れ、派手に横転した自転車のもとへと歩を寄せていった。
「あ……あの……えと……その……」
未だに事態が呑み込めていない運転者の女子生徒は、その美貌に驚きの色を貼り付けたまま、声にならない声を何とか搾り出そうとしている様子だった。
が、徹郎は無視して自転車を引き起こし、スタンドを立ててガードレールに車体を預けさせた。幸い、放り出された荷物の類は無い。運転者の美少女は軽めのリュックタイプ鞄を背負っていたのだが、その中に全ての荷物を入れてあったのだろう。
そこへ、彼女の友人らしき女子生徒達が慌てて駆け下りてくるのが見えた。
「沙璃耶っち! ねぇ、沙璃耶っちってば! 大丈夫?」
「怪我は? 怪我は無い? どこも打ってない?」
数名の女子生徒達が一斉にその美少女――沙璃耶という名の運転者の周囲に駆け寄ってきて、彼女の全身を必死に検めている。
しかし当人である沙璃耶はただ茫然と、自分を心配している友人達に視線を泳がせながら、ぱくぱくと金魚の様に口を開閉させるばかりであった。
後は、あの友人達に任せておけば良いだろう。
徹郎は何事も無かったかの如く、再び坂を下り始めた。
未然に防がれた事故を目撃していた他の下校中生徒達は、徹郎に声をかけて良いものかどうか迷っている様子だったが、結局誰ひとりとして接触してくる者は居なかった。
勿論、徹郎としてもその方が有り難かったのだが。
◆ ◇ ◆
友人達が半泣きになりながら自分の無事を喜んでくれている姿を見て、絹里高校普通科二年A組の結城沙璃耶は漸く我に返った。
そうだ、彼だ。
危うく大事故を引き起こすところだった自分を救い出してくれた、あの男子生徒に御礼をいわなければ。
ところが慌てて周囲を見渡しても、沙璃耶を救ってくれたヒーローの姿は、もうどこにも無かった。
「ねぇ、沙璃耶、一体どうやって助かったの? 怪我も全然していないみたいだし……!」
友人のひとりが半泣きで問いかけてきた。
が、正直いって沙璃耶自身にもよく分からなかった。
「御免……全然、覚えてない……何か、一瞬で終わったから……」
そこで沙璃耶は自分が一体どの様にして救出されたのかを、周辺にたむろしていた下校中生徒に訊いた。
その生徒達は全員が口を揃えて、ひとりの長身の男子生徒が、高速で通り過ぎようとしていた沙璃耶のお腹に左腕を絡める様にして抱き留めたと証言した。
あの一瞬で、そんなことが出来るものなのか。
救出された沙璃耶自身も、そして彼女の友人達も揃って驚きの表情を浮かべたが、しかし複数人に亘る証言が揃っている以上、それは事実なのだろう。
しかもその恩人は何もいわず、そして名乗ることもせずに去っていった。
もしもあのまま救出されずに坂の終着まで下りてしまっていたら、今頃沙璃耶は全身に大怪我を負っていたことだろう。下手をすれば、命を落としていたかも知れない。
そう思うと、一気に恐怖が込み上げてきた。ライトブラウンに染めたショートボブの柔らかな毛が、額や首筋に脂汗でべっとりと張り付いていた。
そして、同時に思った。何としてでも、自分を救ってくれたヒーローを探し出して御礼をしなければ、と。
やっと恐怖心が引いてきた頃合いになって、沙璃耶は未だに周辺を取り巻いている目撃者達に、自分を助けてくれた男子生徒の特徴について訊いて廻った。
「ねぇ、教えて! 彼、どんなひとだったの? 背が大きくて、逞しそうな感じなのは覚えてるんだけど、私、それ以外は全然記憶に残ってなくて……!」
しかしどの生徒達も、余り詳しくは覚えていない様子だった。
ただ、黒縁眼鏡と厚ぼったい前髪で顔がよく見えなかった、という部分では一致している。
「聞いた感じだと、ちょっと陰キャっぽいイメージだね……」
沙璃耶の友人のひとりが、そんな感想を口にした。
が、沙璃耶はそんな印象などどうでも良かった。自分の命を救う為に、危険も顧みずに敢然と身を投げ出してくれたヒーロー、命の恩人。
そんなひとを、陰キャだなんだという下らない括りで区別したくなかった。
「でも、明日から休みだし……見つけるの、ちょっと難しいんじゃない?」
別の友人が、不安げな表情でそんなことを呟いた。
確かに、その通りだ。
もし彼が休み期間中に遠出してしまうのであれば、次に会える可能性があるのは終業式となる。命の恩人に対して、それ程の長い期間、御礼もいえずに何も出来ないままというのは、余りに失礼な話だった。
「そんなこと、いってられない……絶対に、見つけなきゃ」
そして、感謝を伝えたい。
期末試験を終えて、休み期間中の予定を色々考えていた沙璃耶だったが、もうそんなのはどうでも良くなってしまった。
命懸けで自分を助けてくれた、顔も名前も分からないヒーローの為に、全てを捧げたい。
ただその想いだけが、今の彼女の心を支配していた。




