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38.開眼への予兆

 記憶の宮殿とは、要は頭の中に自分のよく知っている場所を思い描き、そこに覚えておきたいものを配置することで、それが何だったのかを思い出すという手法だ。

 例えばアメリカの俳優アンソニー・ホプキンスが某有名サスペンス映画の中で演じた連続殺人鬼はこの記憶の宮殿の中を自由に歩き回り、過去のどの様な記憶でも呼び覚ますことが出来るという設定だった。

 また同じくアメリカの俳優サイモン・ベイカーが主演を務めたミステリー・ドラマに於いても、矢張りその主人公は記憶の宮殿を操る天才的な詐欺師として様々な活躍を見せた。


「へぇ~……何か面白そうじゃん」


 徹郎が握り飯を頬張りながら説明していると、いつの間にか雪奈が隣の席に移動してきて、徹郎から昼食として貰っていた白だしの握り飯をもぐもぐと食べていた。

 そんな雪奈を視界の隅に捉えた徹郎は、また余計な奴が喰いついてきたと内心で溜息を漏らしつつ更に説明を続けた。


「但し、覚えたいことをそのまま配置するんやなくて、覚えたいことの鍵になるものを配置するのがミソや。例えばこの教室を記憶の宮殿として使うとして……」


 いいながら徹郎は教壇に視線を流した。


「そこに桶狭間の戦いの鍵を配置するってことにしたら、あの教壇の上にでっかい桶を置いとくんや」

「あぁ成程……桶狭間だけに、桶なんだね」


 それをそのままの言葉として覚えるのではなく、映像のあるものを配置するという按配だ。

 そしてその桶の見えやすいところに、56という数字を貼り付けておく。


「56番の桶? 徹っちゃん、そっから何を覚えんの?」

「桶狭間の戦いがあったのは1560年な。せやけど、その数字をそのまんま全部覚えるんやないねん」


 頭の1は、覚える必要は無い。何故なら桶狭間の戦いがあったのは鎌倉時代より遥かに後、つまり西暦としては既に1000年を経過した後だからだ。

 そして最後の0は、桶が上から見た時に円形であることから、その丸をゼロとして連想する様にしておけば良い。


「まぁこの場合、記憶の宮殿に置く品の形を数字に絡めて覚えるというルールを最初に作っておく必要があるねんけど」

「成程……何となく、分かってきたぞ」


 奏恵は弁当の隣に美術の教科書を開いた。そして幾つかの内容に目を通してから、一分程度、瞼を閉じて箸を持つ手も完全にその動きを止めた。

 そして――。


「鬼堂君、このページに書かれてある芸術家について、簡単な問題を出してくれるかな?」


 奏恵の求めに応じて、徹郎はそこに登場する芸術家の名前や生年、或いは作品名について幾つか訊いてみた。すると奏恵は、それらについて正確な回答を口にした。


「記憶の宮殿、使えた?」

「うん……びっくりしたよ。こんなにもすらすらと紐づけることが出来るなんて」


 奏恵は自分で自分に驚いた様子で目を丸くしていた。

 が、ここで徹郎は但し、とひとつ断りを入れておくのを忘れない。

 今この場で説明した記憶の宮殿の構築法には、徹郎が自身でアレンジした方法も幾らか含まれている。正確な方法を知りたければインターネットで検索し、その出典元をきっちり調べろと付け加えるのも忘れない。


「なぁ鬼堂~……それって、俺にも出来そう?」


 不意に横合いから、裕太が死にそうな顔つきで泣きついてきた。

 そういえば彼は中間テストで結構悲惨な結果に終わったと聞いている。この期末試験でそこそこの数字を出さなければ、軽音部での活動を自粛して夏休みは勉強漬けにさせられるかも知れない、などと嘆いていた。

 この裕太からの問いかけに対し、徹郎は正直、向き不向きはあるかもなと正直に答えた。


「委員長は元々、地頭がエエから簡単に出来たんかも知れんわな。せやから、記憶の宮殿が万能ツールや、とか思わん方がエエで」

「あ、でも鬼堂君、僕は出来たよ」


 今度は別方向からラノベ愛好家の飯村守が幾分驚きの色を浮かべて言葉を割り込ませてきた。曰く、先程の徹郎の説明に近くで聞き耳を立てていたらしく、彼も試しについ今しがた、自分の頭の中で記憶の宮殿を構築してみたのだという。


「あ……私も、出来たかも」


 図書委員の金山芳子も矢張り同じく、目を丸くして同調した。一体いつから、徹郎の説明がこれらの面々の耳に届いていたのだろうか。

 と思って周囲に視線を走らせると、意外と多くのクラスメイト達が真剣な表情でこちらを見ていた。

 恐らくその大半が、陰キャぼっち徹郎がクラス美少女三強のひとり奏恵と一緒に昼食を取っているということで奇異の眼差しを向けていたのだろうが、その会話の内容が意外と実用的だった為、彼ら彼女らも思わず真面目に聞き入ってしまった、というところなのだろう。


「わ……徹っちゃん、あたしも出来たみた~い!」


 すると雪奈も、自分で自分に感心した様な顔つきで徹郎の筋肉の塊の様な肩をつんつんと突いてきた。

 雪奈は大好きなブランドのコスメ用品や、好きな食べ物を自分の部屋を模した記憶の宮殿に配置してみたというのである。

 これだけ何人も続いたなら、裕太も出来るのでは、と期待を抱いたらしい。彼は購買で買って来たらしい菓子パンを一気に喉の奥に詰め込み、教科書を開いて早速記憶の宮殿の構築へと挑戦し始めた様だ。


「まぁさっきもいうたけど、向き不向きあるかも知れへんから、出来んかったからいうて、俺恨むなよ」


 徹郎の言葉はしかし、裕太の耳に届いていたかどうか。

 そして更に意外なことに、この場に居た他のクラスメイト達も同じく記憶の宮殿の構築に挑戦し始めた様だ。皆一様に教科書を開いたり目を閉じたりして、必死に己の世界に没入している。


「君は本当に教え上手だね。ボクは泳ぎだけじゃなく、学業でも君を師匠と仰ぐべきだと確信したよ」

「そんな大層な……まぁでも、委員長はお得意さんやからな。俺に出来ることなら、何ぼでもいうて」


 などと適当にとぼけながら、徹郎は残りの握り飯を平らげた。

 ところで、この日を境にして記憶の宮殿構築法を伝授されたクラスメイト達、特に陽キャ連中の態度が明らかに変わった。その多くが、徹郎に対して軟化した姿を見せる様になった。

 しかしそれは、陰キャぼっち生活を求める徹郎にとっては余り喜ばしい話ではなかったのだが。

 それはそうと、徹郎にはひとつ小さな悩みがあった。


(この期末試験が終わったら、何して過ごそうかな)


 徹郎としては、今更高校の定期試験など怖くない。

 それよりも、その後に迫っている長期休暇――これにどう対処するか。

 そちらの方が遥かに深刻な問題だった。


(あ、そうや……こないだ飯村君がいうてた、ラノベの大人買いでもやって読書の夏にでもしたろか)


 ふと、そんなことを考えた。

 そのアイデアが一気に形になり始めると、試験明けの休みが急に楽しみになってきた。

 陰キャぼっちの似非オタクがいよいよ、真性のオタクに目覚めようとする瞬間だった。

 良いんだか、悪いんだか。

これにて第一章『ぼっちビギンズ』はおしまい。

お付き合い頂きまして、誠にありがとうございました。


記憶の宮殿:出典元『マッテオ・リッチ 記憶の宮殿』ジョナサン・スペンス著

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