37.宮殿への招待
七月の前半という時期は、意外と夏の雰囲気が弱い様に思う。
というのも、未だ梅雨が明けていないことが少なくないからだ。
それでも水泳の授業は、普通に実施される。そしてこの日、徹郎は体調不良を理由としてプールサイドでの見学に洒落込んでいた。
勿論、仮病だ。
灯香梨や雪奈、奏恵、或いは礼司や裕太といった面々は徹郎の本来の姿を知っているが、それ以外のクラスメイトは大半がその筋肉隆々の肉体美を知らない。
通常の体育の授業ならばジャージさえ着ていれば十分に誤魔化せるからこれで事足りるのだが、水泳では水着以外は何も着用出来ない為、この鍛え抜かれた肉体が白日の下に晒されてしまう。
飽くまでも陰キャぼっちとして陽キャ連中とは距離を置いておきたい徹郎には、水泳の授業は全て体調不良で過ごす以外の選択肢は無かった。
最初は訝しげな視線が幾つも飛んできたが、そのうち慣れてきたのだろう、プールサイドでジャージを着込んでいる徹郎の姿に意識を向ける者など、今ではほとんど皆無の状態となっていた。
やがて終了のチャイムが鳴り、徹郎は見学者に提出が求められているレポートを手早く仕上げて体育教師に手渡すと、さっさと教室へと戻り始めた。
ところがその途中、廊下で奏恵に呼び止められた。
「やぁ鬼堂君。後で時間取れるかな?」
自慢の長い黒髪はまだ乾き切ってはおらず、風呂上がりの様な艶めかしさを漂わせている。その色気に、廊下を行き交う男子生徒達がちらちらと覗き見しながら去ってゆく姿が多く見られた。
他の陽キャ女子相手なら大体にべも無く断る徹郎だが、相手は極上のココア用ミルクを提供してくれている大事なお得意さんということもあり、邪険に扱う訳にもいかなかった。
「後って、いつ頃?」
「そうだねぇ……お昼休憩なんかはどうかな?」
近頃徹郎は、昼食の際には裏庭の非常階段口に足を向けることが多い。強い陽射しが降りかかる屋上は流石に暑過ぎる為、ここ最近は敬遠気味だった。
「委員長は飯、いつもどこで喰うてんの?」
「教室だよ。お弁当持参だからね」
という訳で、この日の昼休みは奏恵と一緒に過ごす運びとなった。
徹郎としては、校内では陽キャに属する連中と同じ場所に居るのは極力避けたかったが、奏恵は例外だ。学年内でもトップクラスの美少女である彼女は、外見だけなら間違い無く陽キャの部類に入るのだろうが、クラス委員長という立場上、どのクラスメイトとも平等に接することが多い。
その為、徹郎を含むクラス内の全ての陰キャ達とも当然の様に会話しているし、その姿を周囲が不思議に思うことも無い。
そんな訳だから、徹郎としても教室内で奏恵と一緒に昼食を取ることには然程の抵抗感も無かった。
そして昼時。
四時間目の終了チャイムが鳴ると同時に、徹郎は握り飯と水筒が入ったエコバッグをぶら下げて奏恵の席近くまで足を運んだ。
幸い、隣席の生徒は学生食堂へと去っている為、奏恵と差し向かいで言葉を交わすことが出来る。
待ち受けていた様子の奏恵は可愛らしい弁当箱を自席に広げながら、
「お店以外で一緒にご飯食べるのは、これが初めてだね」
などと薄く笑った。
その瞬間、偶々教室に残っていた一部のクラスメイト達が信じられないといった顔つきでじぃっと見つめてきた。徹郎の様な陰キャぼっちが、D組美少女トリオのひとりである奏恵と一緒に外食をしたことがあるというその一事だけで、それはもう結構な事件性があるのかも知れない。
それは徹郎自身も十二分に分かっていたのだが、この程度のことで毎回反応するのも馬鹿馬鹿しくなってきており、そういった視線の群れは一切無視することにしていた。
「んで、話って何?」
「ずばり、これだよ」
奏恵は七月の予定表と記されたプリントを掲げて、とある一角を指差した。
そこには一学期の期末試験の予定が記されている。一週間をかけて行われる一学期の期末試験が、もう来週に迫りつつあった。
「それがどないしたんよ?」
「鬼堂君に教えを乞いたい」
一瞬、相手のいっていることが理解出来なかった徹郎。奏恵は学年二位の成績を取る程に優秀な学力の持ち主だ。そんな彼女が勉強を教えて欲しいというのは一体、どういうことであろう。
「いや……五教科に関しては別に問題無いんだよ。ボクが困っているのは……」
曰く、芸術系選択科目で手こずっているということらしい。
絹里高校では一年生と二年生の芸術系選択科目として音楽、美術、書道のいずれかを履修することになっており、奏恵は美術を選択していた。
実は徹郎も同じだった。
別に音楽や書道でも良かったのだが、陽キャが比較的少なそうな美術と書道のうち、どちらを選ぶかとなった際にサイコロを振って決めた結果、偶々美術になったというだけの話である。
美術の期末考査は、絵画知識や歴史などの座学に於いて試験が実施される。実技に関しては日頃の制作物が対象となっている為、試験の為にと態々新たに用意する必要は無い。
奏恵が困っているのは、その座学の学習方法なのだという。
「あんなもん、ただの暗記やんか。委員長の得意分野とちゃうの?」
「う~ん……具体的な事実とすぐに頭の中で結び付けられるものならどうってことも無いんだけど」
曰く、芸術家の名前や歴史上でどんなことが起きたのか、という部分でぱっとイメージが湧かないということらしい。
「ははぁ、そういうことか」
美術の試験は一週間に亘る試験期間の最終日だ。幸い、まだ時間は十分にある。
「ほんなら委員長に、記憶の宮殿の作り方を教えたるわ」
「記憶の宮殿?」
初めて聞いたフレーズらしく、奏恵は両瞼を何度か瞬かせていた。
記憶の宮殿:出典元『マッテオ・リッチ 記憶の宮殿』ジョナサン・スペンス著




