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21.伝えたかった想い

 夜の高級マンションのエントランスホール前。

 薄いピンク色のワンピースに身を包んだ灯香梨は、緊張した面持ちでインターホンからの応答を待ち続けていた。

 訪問先は、徹郎宅。

 今宵灯香梨は、アルバイト中に起こした転倒事故の際に助けて貰ったことへの感謝を伝える為に、彼の自室を訪問させて貰う約束を取り付けていた。

 両親には、京子と愛理のふたりとカラオケに行くと伝えてある。流石に女子高生が単身、男のひとり暮らしの部屋を訪れるというのは許して貰えそうにもなかった。

 しかし灯香梨は、後悔はしていない。親に嘘をついてでも、徹郎には感謝の心を贈りたかった。

 それに徹郎は口調こそ関西弁で少しおっかないところはあるが、基本的には紳士だ。男の本性を剥き出しにして乱暴を働く様な人物だとは到底思えなかった。

 寧ろ問題は、灯香梨自身の方だろう。

 ちゃんと伝えたい想いを、はっきりと自分の口で表現することが出来るだろうか。緊張の余り、変な言葉を口走ったりしないだろうか。

 京子も愛理も、灯香梨なら大丈夫だと太鼓判を押してくれたが、いざこうしてインターホンからの応答を待っていると、心臓が口から飛び出してしまう程の緊張感に圧し包まれていた。

 やがて呼び出し音が止まり、渋みのある低い声音が返ってきた。


「あぁいらっしゃい。今ドア開けるわ」


 数秒後、オートロック式の自動ドアが開き、灯香梨は半ば吸い込まれる様にしてエントランスホールへと足を踏み入れてゆく。

 何となく、ふわふわした気分だ。

 もう一度徹郎の部屋を訪れることが出来るなんて、ちょっと前までは考えることも出来なかった。


(だ、大丈夫……大丈夫だから! 頑張れ、あたし!)


 廊下を進みながら、何度も自身を励ます灯香梨。

 自分へのけじめだとして、徹郎と顔を合わせることに凄まじく躍起になっていた筈なのに、いざこうして彼の自室を訪れる段になると、もう緊張で全身ががちがちになってしまっていた。

 それでも何とか、徹郎宅の扉の前にまで到着。

 ここで個室用インターホンを押し、相手からの反応を待つ。程無くして、少し重めのドアが開いた。

 と同時に、甲高い音が突然鳴り響いてきた。灯香梨は思わず、その場でビクっと身を竦ませてしまった。


「おい桐島ぁ! ドア閉めとけいうたやろぉ!」


 玄関口で灯香梨を出迎えた徹郎は、しかしどういう訳か室内に向かって大きく吠えた。

 すると奥の方から、聞き覚えのある声が返ってきた。


「いやぁ、わりぃわりぃ! さっき沖さんがトイレ借りた時、ちゃんと閉まってなかったみてぇなんだわ!」


 直後、弦楽器の高音域を思わせる激しい音はぴたりと止んだ。


「ごめんやで。びっくりしたやろ」

「あ……うぅん、大丈夫! あたしの方こそ、急に押しかけてきちゃって、御免ね!」


 慌てて笑顔で取り繕いながら、ふと足元に視線を落とした。玄関口の三和土には、数人分の靴が無造作に並んでいた。

 どうやら他に先客が居たのだろう。そしてさっきの声の主が誰なのか、漸く理解出来た。

 同じクラスの裕太だった。


「軽音の連中がうちのトレーニング部屋借りたい、いうてなぁ」


 曰く、軽音の部活に利用している音楽室が、音響設備入れ替えの為にしばらく使えなくなっているらしい。

 その間の代替施設として、裕太が白羽の矢を立てたのが徹郎のマンション自室内にあるトレーニング部屋だった。この部屋はサンドバッグを利用する為に完全な防音設備が整えられているらしく、軽音部の練習にも耐え得る程の防音性能を誇るのだという。


「まぁ、一週間程の話らしいから」


 ということで、月曜から今週末まで毎日、徹郎のトレーニング部屋は絹里高校軽音部の臨時部室と化したのだそうな。


「あ、そうなんだ~」


 他の客人が居ることにより、徹郎と密室でふたりきりという局面は回避された格好だ。灯香梨はほっとした半面、何故か残念な気分も同時に湧き起こってきた。その理由は自分でもよく分からない。


「飯喰うたん?」

「え? あ、えーと、まだだけど……」


 リビングに通された瞬間、スパイシーな良い匂いが漂って来た。カレーの匂いだ。どうやら軽音部の面々の為に徹郎が用意してやったものらしい。

 その美味そうな香りが灯香梨の胃を刺激した。途端に腹の虫が騒ぎ始めた。


「食べてく?」

「えぇぇ! そ、そんな、悪いよ……」


 口では遠慮するものの、胃袋は盛大に空腹をアピールしている。灯香梨は自分でも顔が真っ赤に上気するのが分かった。


「エエから、喰うていきぃな。エプロン貸したるから」


 という訳で結局、鬼堂家の食卓に再びお呼ばれする運びとなった。

 が、その前にやることがある。


「あの、鬼堂君……良かったら、これどうぞ。つまらないものですが……」


 灯香梨は駅前のケーキ屋で仕入れてきた高級タルトを差し出した。1ホールで色々な味が楽しめる豪華な品だった。


「おぉ~、すまんな。こりゃあココアに合いそうや」


 徹郎は素直に喜んでくれた。いつも学校で見せる黒縁眼鏡の不機嫌な顔ではなく、爽やかなイケメンスマイルだった。

 ここで灯香梨は、ぐっと拳を握り締めた。

 今なら、いえる。この最高のタイミングを逸してなるものか、と。


「えっと、それからね……鬼堂君、あたし、ちゃんとお伝えしなきゃって、ずっと思ってたの」


 灯香梨は背筋を伸ばして徹郎と向き合い、そして深々と頭を下げた。


「私がバイト中、転倒事故起こして困ってた時に助けてくれたこと、心から感謝しています。本当に、ありがとうございまいた!」


 いえた。

 やっと、いえた。

 ずっと心の奥に閊えていたものが、今この瞬間、漸く取り除くことが出来た。

 灯香梨は、自分の背中を押してくれた京子と愛理の笑顔を思い浮かべながら、少しだけ涙ぐんだ。

 そんな灯香梨の想いを感じ取ったのかどうか――徹郎も小さく頭を下げた。


「どういたしまして。態々ありがとな」


 その言葉を聞いた瞬間、灯香梨はぱぁっと表情が明るくなった。そして嬉しさの勢いで顔を上げた。

 が、そこで思わず硬直してしまった。

 今度は逆に、徹郎が深々と頭を下げていたのである。

 何故彼が、そんな行動に出ていたのか。

 灯香梨には全く理解出来なかった。

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