2.廃止
新しい年を迎えて、心機一転を図るひとびとが大勢詰めかけている都内某所の神社。
そのすぐ近くの公園のベンチに、徹郎は老齢の男性と並んで腰を落ち着けていた。
「……廃止ですか」
「うむ、残念ながらな」
寒風吹きすさぶ静かな公園内で、徹郎は渋い表情で曇天を見上げた。
老齢の男性――CIA(アメリカ中央情報局)年少諜報部の極東支局長を務める真田亮一は、本当に申し訳ないと喉の奥で静かに唸った。
「本国で局長が交代したのは知ってるよな……その新しい局長の方針で決まっちまったよ。年少諜報員はどうしても上院の理解が得られんってことで、最初から廃止に持ち込む腹だったらしい」
真田は苦虫を噛み潰した様な顔つきで、小さくかぶりを振った。
その隣で徹郎は、五歳頃からひたすら耐えてきた数々の厳しい訓練を、熱いココアをすすりながら静かに思い出していた。
彼の知力は、各国最高学府の教授並みの高い学力に達している。
一方でその肉体は常人の域を超えており、十数名の敵兵を数分以内に制圧する高度な戦闘技術を駆使することが可能だ。
更には潜入任務に必要となる各国言語をネイティブレベルで習得済みで、電話越しならば徹郎が日本人だと気付く者は居ないだろう。
加えて彼は様々な職能を数多く習得しており、そのいずれもが超一流のプロと遜色ない技量を発揮する。どの世界に飛び込んでも、トップクラスの結果を叩き出すことが出来るだろう。
「お前は、最高の生徒だったよ……数十年にひとりの逸材と騒がれているが、俺にいわせりゃ数百年にひとりの超人だな」
「でも、クビになった」
徹郎は自虐する様に薄く笑った。
どんなに優れた技術を身に着けても、上から切り捨てられれば、それまでだ。
この十年、一体何の為に頑張ってきたんだろうと、胸の奥にぽっかりと穴が空いた様な虚しさを覚えた。
しかしまだ望みはある、と真田は背もたれに上体を預けながら皺深い面だけを巡らせてきた。
「成人年齢に達しさえすりゃあ、上院も何もいってきやしねぇよ。だからあと三年……何とか我慢してくれ。三年が過ぎてお前が18の誕生日を迎えたら、すぐに復職させる」
「……けど、それまで何してたら良いですか?」
徹郎は公園の向こう側の道路に、大勢の参拝客が行き交う姿をぼんやりと眺めながら訊いた。
今まで徹郎は、兎に角毎日が訓練の連続だった。普通に生活するなど、まるで想像出来ない。
勿論、諜報員として一般人に成りすますことは出来る。だがそれは飽くまでも、任務の一環としての行動だ。本気の本気で、普通の市民として生活した記憶は、入局以前の、ほんの幼かった頃の思い出しかない。
「そいつぁ難しい質問だな……けどよ、考えようによっちゃあ、ここからの三年間も訓練のひとつ、っていえるかもな」
曰く、普通の一般人として溶け込む為の実地訓練、という訳だ。
確かにそういわれれば、その様に解釈出来ないことも無い。
「まぁ、別に良いですけど……んで、どこでどう生活することになるんでしょう?」
「私立高校を手配してある。確か、絹里高等学校の普通科ってなところだな」
この時、徹郎は頭の中で都内の地図を高速で思い起こしていた。しかし生憎、絹里高校という校名は聞いたことも無かった。
「そんな訳で、お前はこれから高校生だ。入試やその他諸々の準備はこっちで進めておく」
「住居は、勝手に探しておいても良いですか?」
その問いかけに、真田は勿論だと眉根を開いた。
生活資金や学資は全て局の方で用意するから、経済面のことは一切心配するな、とも付け加えてくれた。
尤も、徹郎の技量であれば学業の傍ら、幾らでも資金を調達することも出来るのだが。
「後はここに全部書いてある。不明点があれば、いつものアレで」
真田はB4判の書類封筒と、小さな紙袋を差し出してきた。スマートフォンなどの通信機器も、局の方で用意してくれるらしい。
勿論これは便宜を図ってくれている訳ではなく、徹郎を監視する為のツールに過ぎないのだろうが。
「真田さんは、本国に戻るんですか?」
「まぁな。年少諜報部が廃止になるんじゃ、俺がここで出来ることは何も無ぇよ」
答えながら、真田はゆっくりと立ち上がった。
恐らくこれが、当面の別れとなるだろう。
しかし徹郎の心には、寂しいとか悲しいなどの感情は一切、湧いてこない。感情制御は訓練開始の早い段階で既に習得済みだった。
とはいえ、感謝の念は湧いてくる。感情は幾らでも制御出来るが、仁義や倫理観まではこの場で無理に抑える必要も無かった。
「今まで、ありがとうございました」
「おう、元気でな……じゃ、また三年後に」
徹郎も立ち上がり、ふたりはお互いに背を向けて別々の方向に歩き出す。
封筒を小脇に抱えたまま、徹郎は残りのココアを一気に飲み干した。
(高校生か……同年代の連中ってのは、どんな生活してんのかな?)
大通りに出てから、左右に視線を巡らせる。
同じ年頃の顔ぶれが幾つも視界に飛び込んできたが、どの人影もまるで隙だらけであり、緊張感など欠片にも感じられない。
それはそうだろう。
この日本という国は、基本的には平和国家だ。一部の犯罪者を除き、常にピリピリした空気を漂わせている者など皆無に等しい。
緊張感の無い世界など、徹郎には全く思いもよらない空間だ。
だが、そんな中でも生きてゆかねばならない。
「俺に出来るやろか……」
我知らず、生まれ故郷の大阪で使い慣れていた口調が漏れ出していた。