18.ココアで釣る女
チャイムが鳴った。
中間試験最終科目考査がたった今、終わりを告げた。
教壇上で、D組担任であり英語担当教師の新見恵津子がぱんぱんと両掌を軽く叩き合わせる。
「はーい、終了ー。皆、よく頑張ったね。お疲れお疲れー」
後ろの席から答案用紙を回収してゆく作業の間、恵津子は来週以降の特別時間割などの連絡事項を黒板に書き記していった。
絹里高校一年生の中間試験最終日は、金曜日だ。つまりここから先は、待ちに待った試験明けの週末へ突入してゆくこととなる。
「それじゃあまた、来週ね。打ち上げとか何とかで浮かれまくって、変な事故に巻き込まれない様にね」
答案用紙を抱えて教室を出てゆく恵津子。彼女の姿が見えなくなったところで、教室内は一斉に騒がしくなり始めた。
いつもの仲良しグループで集まって、この後どこに遊びに行くのかと相談する声がそこかしこで聞かれた。
或いは、試験終了後すぐに部活が再開するということで、荷物を纏めて部室へ直行してゆく者の姿も少なくない。
「鬼堂、出来はどうだったんだ?」
サッカー部の練習に赴く前に、礼司が態々徹郎の席に寄ってきて黒縁眼鏡の奥を覗き込む仕草を見せた。これに対して徹郎は、まぁ普通かなと素っ気無い返答。
するとそこへ、裕太が恐ろしく疲れ切った表情でのろのろと歩み寄ってきた。
「なぁ鬼堂~……俺、もうくたくただよぉ~……何か美味いもん喰わせてくれよぉ~」
「そういう台詞はな、普通は女子に向けていうもんちゃうの」
裕太に答えながら徹郎は、教室全体の様子をそれとなく見渡した。一部の女子グループからの視線が、裕太を完全包囲している。恐らく彼女らは、どうやって裕太を打ち上げに誘い出そうかと色々策を練りながら、ひとりになる瞬間を虎視眈々と狙っているのだろう。
「ほらほら、早よぅ行ったれや。誘いたがってる子がようけおんで」
「えー、どうしよっかなぁ」
ちらりと後方を振り返る裕太。すると彼に熱い視線を送っていた女子達は一斉に照れた様子できゃあきゃあと可愛らしい声をばら撒き始めた。
「谷岡は今日はもう、部活だけかぁ?」
「いや、終わったら吉崎らと一緒に、カラオケとボーリングに行くよ」
裕太に答えながら、礼司は余裕の表情。流石にサッカー部、体力は有り余っているのだろうか。
するとそこへ、てててっと小走りに駆け寄ってくる姿がある。灯香梨だった。
徹郎は矢張りこの時も嫌な予感を覚え、既に帰宅準備を終えていた学生鞄を小脇に抱えると、何も見なかった体を装って一気に廊下へと飛び出した。
「あぁー! ちょっと、鬼堂君ってば! 逃げないでよぉー!」
(いや、逃げる)
灯香梨の悲鳴に近しい声を背に受けながら、徹郎は物凄い勢いで下駄箱へと向かった。
途中、職員室から出てきた恵津子が、廊下を走るなと説教を飛ばしてきたが、今は聞く耳を持てる場合ではない。一刻も早く、灯香梨や雪奈といった陽キャ女子連中から距離を取らなければならない。
ところが、下駄箱に到達したところで奇襲を浴びた。
「はぁい、ご苦労様。どこ行くのー?」
雪奈が待ち構えていた。
そういえば試験終了早々には、後ろの席から気配が消えていた様な気がする。まさか、徹郎が試験終了と同時に下校ダッシュをキメようとしていたことを、既に読まれていたのか。
雪奈は柔らかくて大きな胸を持ち上げる格好で、腕を組んでいる。そして徹郎の下駄箱を塞ぐ形で、軽く肩をもたれかけさせていた。
「んふふふ……徹っちゃんさぁ、履き替えたかったらね、あたしを倒していくしかないわよぉ」
「何やその中ボスみたいな台詞は」
徹郎はじりじりと間合いを詰めながら、雪奈の隙を伺う。何とか彼女の意識を他に逸らせることは出来ないものか。
ところが――。
「はい、確保」
「んぇ?」
思わず喉の奥から変な声が出た。
振り向くと、クラス委員長の奏恵が徹郎の背後で、上着の裾をむんずと掴んでいた。
「一杯喰わされたで……あいつは囮か」
「いや、偶々目の前に君が居たから」
淡々と応じる奏恵。
大勢の生徒達が行き交う玄関口だから、特定の誰かの足音や気配を捕捉するのは難しい。ましてや委員長奏恵とはこれまでほとんど接点が無かった為、彼女の接近を察知するのは不可能だ。
とかいってるうちに、今度は雪奈がすすすっと寄ってきて徹郎の太い左腕を絡め取る。ふくよかな巨乳を肘の辺りに押し付けてくるのは、何か意味があるのだろうか。
「はぁ~い! あたしも徹っちゃん、か~くほっ!」
美女ふたりに動きを封じられている、ぱっとしない外見の陰キャ野郎。ただ図体がデカイだけで他に何の取り柄も無さそうな男に見えるだけに、周囲からは注目の視線が怒涛の勢いで押し寄せてきた。
「何や。自分ら、何が望みや。俺がベランダで育ててるニラか。あれが狙いか」
「いや別にそんなの……っていうか徹っちゃん、ニラなんて育ててんの?」
目を丸くする雪奈。どうやら彼女とは、価値観に相違がある様だ。
「そんなことは良いから、鬼堂君。軽くお話しようじゃないか。今ならドリンクバーのタダ券があるよ」
レストランチェーン『キャスト』のドリンクバーチケットをちらつかせる奏恵。
そういえば、あそこのレストランはココアが最高に美味かった気がする。
「時間制限は?」
「勿論、無制限」
ならば、乗らない手は無い。
徹郎は大人しく、奏恵に拉致される道を選んだ。