15.せめぎ合い
朝のホームルームが始まる前のひと時を、徹郎は読書で過ごそうと思っていた。
が、どうにも集中出来ない。
原因は、分かっている。
何故か前の席に陣取っている雪奈が後ろ向きに座り、徹郎席の机の上に頬杖を突いてじぃっと真正面から見つめてきているからだ。
「……自分、何してんねん」
「見ーてーるーだーけー」
このやり取りを、周囲のクラスメイト達は驚愕と奇異の入り混じった視線で凝視している。
それもそうだろう。
過日、徹郎は雪奈を傷つける発言で顰蹙を買った。クラスの男子生徒達も、二度と雪奈にちょっかい出すなと怒りを募らせた。
なのに今、その当人である雪奈がすこぶる機嫌良さげに、失礼極まりない暴言を発した相手の顔を、にこにこと見つめているのである。
困惑の空気が広がって然るべき光景であった。
「いや、そこ他の奴の席やろ」
「えぇ~、まだホームルーム始まってないし……別に良いよね?」
最後の台詞は、本来のその席の主である男子生徒に向けられたものだ。件の男子はドキッとした顔で一瞬身を硬直させてから何度も頷き返していた。
「ほらほら、良いってさ」
「いや、そういう問題ちゃうやろ」
徹郎は文庫本を下ろし、雪奈の可愛らしい小顔にずいっと面を近づけた。
それも、凄まじい程にメンチを切りながら。
「自分、ひとの話聞いてへんかったんか?」
「え~、ちゃんと聞いてたけど~?」
とろんとした潤んだ瞳で、うふふと妖艶な笑みを浮かべる雪奈。
やっぱこいつ分かっちゃいねぇ――徹郎は奥歯をぎりぎりと噛み鳴らした。
◆ ◇ ◆
絹里西公園で徹郎に救出された、その日の夜。
彼の自室のバスルームで身を清めた後、雪奈はペペロンチーノとガーリックトースト、コーンポタージュのセットを御馳走になった。
相変わらず、最高の腕前だった。
パスタの茹で具合は硬すぎず、柔らか過ぎず。味付けは多少塩分が強めだったものの、心身共に疲れ切っていた雪奈の体には丁度良い按配だった。
もうこのまま鬼堂家のお嫁さんになって、三食昼寝付きの日々を堪能したい気分だった。
数時間前に受けた精神的なショックは確かに雪奈の心に深刻な打撃を与えたものの、それがこの時点で相当に薄らいでいるのは、徹郎のさりげないケアのお陰だと思っている。
本当に、心から感謝していた。
その徹郎が調理器具の洗い物を終えて、キッチンカウンターから廻り込んできた。
「喰いながらでエエから聞いてくれるか」
「あ、うん……何?」
徹郎はキッチン前で太い腕を組んだまま、舌鼓を打つ雪奈を睨みつける様に凝視していた。
正直、ちょっとドキドキしていた雪奈。物凄く真剣な徹郎の表情が、却って色っぽく思えてしまった。
その徹郎が不意に、頭を下げた。
雪奈は危うく飛び上がりそうになる程にびっくりした。
「こないだは、エラい失礼なこというてしもて、すんませんでした」
「え、こないだって……」
一瞬戸惑ったものの、すぐに思い当たった。徹郎が教室で放った、例の暴言の件を指しているのだろう。
確かにあの時はびっくりしたし、困惑した。そしてその後数日は間違い無く気分が沈んでいた。
でも今はもう、そんなことはどうでも良かった。徹郎が今こうして、目の前に居る。雪奈の為に怒りの拳を振るい、悪い奴らを全部やっつけてくれた。
もう一生忘れられない程の大きな恩を受けた。それに比べたら、あんな暴言は些細なことに過ぎなかった。
それでも徹郎は、謝らないかんと頑として聞かない。
ならばと、雪奈は発想を変えた。徹郎の今の姿を見ていると、あんなことを本気でいったとは思えない。きっと何か事情があったのだろう。
そのことを尋ねてみた。
「まぁ、何っちゅうかな、俺の本業に関わる話やねんけど……取り敢えずこっから先の三年は、その関係でぼっちでおりたいんや」
だから敢えてクラスを敵に廻す為に、雪奈をダシに使う格好となったらしい。
何だ、そういうことだったのか――この時、雪奈は心底、ほっとした。徹郎が自分に悪意を抱いていなかったことが改めて証明されたのだ。
もうこれ以上、何を求める必要があるだろう。
ところが、だ。話はここで終わらなかった。
「で、まぁそういう訳やから、俺は今後も薔薇色のぼっち生活を送りたいねん」
「え? 薔薇色? ぼっちって薔薇色なの?」
この発想が全く理解出来なかった。徹郎にとっての幸せな毎日とは一体、どういう基準なのだろう。
ともあれ、徹郎の希望は今後もクラスメイトとはなるべく距離を取りたいということらしい。だから雪奈に対しても、赤の他人で通して欲しいということの様だ。
「えっと……それ、ちょっと考えさせて欲しいな。あたしは、ぼっち君と仲良くしたい。これは本気の本気、あたしの一番の望みだから」
「そこを何とか頼んます」
結局この夜は、回答保留となった。
◆ ◇ ◆
そして、現在。
「だってあたし、協力するってひと言もいってないんだけど」
「マジか。あの流れやったら、はい分かりましたっていうとこちゃうんか」
徹郎は軽い絶望感を覚えた。
矢張りあの時、しっかり言質を取っておくべきだったか。強姦未遂のショックでまだ精神的に立ち直れていない可能性を考量して、敢えてやんわりと接したのが却って仇となったのかも知れない。
かくなる上は、再び彼女の胃袋を掴むしかない。
「ほんならお姉さん、握り飯何個で話させて貰いましょうか」
「ちゃんと書面でお願いしますよ、ぼっち君」
どうやら、まだ交渉の余地はありそうだった。




