表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/73

1.救世主、現る

 東京都内、某所。

 ジャージとヘルメットを装着して乾いたアスファルト上にへたり込んでいる花辻灯香梨(はなつじあかり)は、夜の路上で絶望に打ちひしがれていた。

 今宵、彼女はフードデリバリーサービスの期間限定アルバイターとして、とある洋食店からナポリタンとスープのセットを配達中だった。

 ところが配達先のワンルームマンション近くで、愛用の自転車の前輪がポイ捨てされていた空き缶に接触し、ハンドル操作を誤って派手に転倒してしまったのである。

 背負っていたデリバリーボックスは歩道支柱に激突し、中身はもう全部ひっくり返ってしまって悲惨なことになっている。

 こうなると、最早手の施しようがない。


(あぁ……や、やっちゃった……ど、どうしよう……)


 灯香梨は、立ち上がる気力すらも失われていた。

 間違い無く、お客からはクレームが入るだろう。そして配達依頼主の洋食店からは怒られるだけでは済まされず、下手をすれば弁償金まで取られるかも知れない。

 それだけは絶対嫌だ。何とか上手く切り抜けたい。

 だけど、どうすればこの状況を好転させられるのか、全くアイデアが浮かんでこなかった。

 そもそも、何から手を付ければ良いのか――灯香梨は呆然としたまま何ひとつ頭が廻らない状態で、ただ虚ろな瞳で倒れた自転車と放り出されたデリバリーボックスを見つめるばかりだった。

 配達時間は刻一刻と迫っている。今から店に戻って作り直して貰えれば、何とかなるだろうか。

 そうだ、そうするしかない。

 灯香梨はウェストポーチからスマートフォンを取り出した。が、幾らか操作したところで、手が止まってしまった。

 スマートフォンが起動しないのである。先程の転倒で、壊れてしまったのだろうか。

 最悪だ、もう為す術が無い。

 涙が溢れてきた。どうして、こんなことになってしまったのか。

 ちょっとした興味本位で、社会勉強のつもりで軽く引き受けただけのアルバイトなのに。

 そんなことを漠然と考えていると、いつの間にか目の前に誰かが佇んでいることに気付いた。泣き顔のまま見上げると、どこかで見た覚えのある顔がそこにあった。

 結構な長身に加えて、服の上から見ても分かる程に頑健な体格の持ち主だった。

 それなりにイケメンで、印象的な顔立ちだ。こんなに良い男なら、一度見たり話したりすれば大体覚えている筈なのに、何故かどこかで見たことがあるという程度の記憶しか浮かんでこなかった。


「何や、転んでしもたんか」


 若干渋みのある、低い声音だった。

 ここで漸く、灯香梨は相手の正体に思い至った。

 そう、確か鬼堂徹郎(きどうてつろう)という同級生だった筈だ。

 灯香梨と同じ私立絹里(きぬざと)高等学校普通科に通う一年生で、同じD組の生徒だった。

 しかし、妙だ。

 教室に居る時の彼とは、明らかに雰囲気が異なる。学校で見かける徹郎は黒縁眼鏡と伸びた前髪で表情を隠しており、口数も極端に少ない。そもそも、彼が関西弁を喋っているところなど見たことも無かった。


「えっと……その……」


 灯香梨はどう答えて良いのか分からず、それ以上の台詞が出て来なかった。それに対して徹郎はデリバリーボックスを開けて中身を覗き込んでいる。


「ナポリタンと、コンソメスープか……配達先と配達時間は?」


 灯香梨の目の前でしゃがみ込み、真正面から覗き込んでくる徹郎。

 何となく、奇妙な迫力がある。

 灯香梨はその眼光に吸い寄せられる様な気分で、喉の奥から声を搾り出した。


「期限は8時半で、場所は、すぐそこのワンルームの二階……」

「あと20分あるな。何とかなる」


 いうが早いか、徹郎はデリバリーボックスを抱えたまま灯香梨を立ち上がらせ、更には倒れている自転車を道端に寄せて目の前の高級マンションへと足早に駆け込んでゆく。

 強引に手を引かれている格好の灯香梨は、何が何だか分からないまま、そのマンションの綺麗な一室へと連れ込まれていった。


「依頼店はヨシオカ洋食店……ああ、あそこのなら何ぼか食うたことあるわ」


 キッチンに駆け込んだ徹郎は、ぶつぶつと呟きながら綺麗に絞った台布巾を灯香梨に放り投げてきた。


「それで中、綺麗にしとき。15分ありゃ出来る」


 ダイニングテーブル脇で呆然と佇んでいた灯香梨だが、徹郎の言葉の中に救いを見出し、指示された通りにデリバリーボックス内を掃除し始めた。

 そしてそれから、20分後。

 配達予定時間から少しばかり遅れたものの、灯香梨はお客の部屋へ無事にナポリタンとコンソメスープのセットを届け終えることが出来た。

 勿論、それらの品を作ったのは徹郎だ。彼は灯香梨の目の前で、驚く程の速さと手際の良さでナポリタンとコンソメスープを仕上げてしまったのである。

 念の為にと試食させて貰った味は、もう最高だった。パスタの茹で具合も絶妙で、そこに絡むソースの甘みと酸味は本格イタリアンのシェフが手掛けたものだといっても、遜色は無かったかも知れない。


「鬼堂君……その、本当に、ありがとう! あたし、一時はもうどうなることかと……」

「用済んだんなら、もう帰れ。何時や思てんねん」


 配達後、徹郎が住むマンションのエントランスに駆け戻り、感激の嬉し涙を浮かべながらインターホン越しに感謝の言葉を口にした灯香梨。

 しかしこの時の徹郎は先程までの面倒見の良い好青年ではなく、教室でのいつもの不愛想な反応しか返してこなかった。


「あ、ご、御免ね……じゃあ、また改めて明日、学校で御礼させて貰うから……」

「要らんわ、んなもん。エエからさっさと帰れ」


 そこでインターホンの通話回線は途切れた。

 取り付く島もないとはこのことだが、しかし灯香梨の心には不快な気分は微塵にも無い。ただただ、徹郎への感謝と尊敬の念だけが彼女の胸の内を支配している。


(彼って……あんなに、凄いひとだったんだ……!)


 教室では陰キャで、見るからにぼっちで、しかも微妙にオタク臭まで漂わせている、ただ体が大きいだけのスクールカースト最底辺の男。

 それなのに今夜、灯香梨の前で見せた数々の男前っぷり、卓越した料理の技術は、それらの印象を180度ひっくり返してしまう程の鮮烈さに溢れていた。


(鬼堂君……また、明日ね)


 先程までの絶望感は、もうどこにも無い。 

 今の灯香梨の心を満たしているのは、ひとりの同級生の新たな面に触れることが出来たという、至上の喜びだけであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ