『楽しめる意味なし』が行き着くところはニヒリズムなのか
私は小説にメッセージ性はいらないと、他のエッセイで書いた。
それは単純に、『読者に好きなように読んでほしい』『作者の【こう読め】は自由に楽しむためには邪魔』という意味であるが、
あまりにも自由にしてしまうと読者さんが途方に暮れてしまうので、形だけはしっかり描いているつもりである。
なにかモヤモヤした、なんだかわからないものをそっと差し出して、「好きにして」では、読者さんも困るだけであろう。
私は面白い形のリンゴを描いて差し出す。それを見て『面白いリンゴだね』と思ってくれてもいいし、『キモいリンゴだね』と思ってくれてもいい。それは読者さんの自由である。そこから勝手にメッセージ性を抜き出してくれたって、リンゴを岩と読み違えてくれさえしなければ、何をされたっていいのである。
ただ、そこに『これは酸っぱいリンゴなので気をつけて』とか『このリンゴこそが尊いものなのです』などといった私のメッセージ性を添えない。
ただそれだけのことなのである。
言い換えればこれは『意味なしを楽しむ』ということなのである。リンゴそのものに意味はないのだから。『栄養になる』とか『おいしい』というのは『価値』ではあるが、『意味』ではない。リンゴにたとえてしまったからややこしくなってしまった。『岩』でもいいのである。食べられない岩は、それじたいには意味はない。岩を見る人がそこに意味を見出そうとも、岩自身は自分自身に意味があるとは思っていないのである。
現代は行き詰まった時代のようによく言われている。
信じるべき大きなものが消え失せ、人々は孤独にそれぞれが相対化されている、と。
生きる意味は見失われ、高度に発達したゲームやCGアクション映画などで人生の暇潰しをしている。
ここにおいて近世や近代の精神の復興を目指すなら、行き着く先はテロリズムだと私には思える。
もはやたったひとつの正しいものなどないことが真っ白な光の下にさらされてしまったこの時代において、それでもただひとつの正しいものを無理やり提示するのだから、どうしてもそれは過激にならざるを得ない。
そんなことを本気でやれる人は熱狂や懐古的憧憬によって狂っている、テロリストなのだとしか私には思えない。
どうせ意味はないのだから、ならば意味なしを楽しんじゃえ。
楽しめる意味なしこそ、現代において最高に価値があるものだと私は思う。
それをただひとつの正しいものとしてテロ活動をするつもりは毛頭ないが。
しかし、意味なしを肯定するのだから、その行き着く先はニヒリズムということになるのであろうか?
何も肯定しない、何も否定しない。
価値などなく、動物のように意味なく生きることだけを肯定するということは、つまり人間を否定するということなのではないか?
否!
いや……、わからんけど。
とりあえず人間、完全に意味なしになることは出来ない。
意味がないからといってつまらないとも限らない。
結局何が言いたいのかわからないいつものパターンになってしまったが、このエッセイをあなたがもし楽しめたのなら、まんまと意味なしを楽しませてやれたということに、私としてはなるのである。
まとまらん!!!
ツァラトゥストラさんは言いました。
『何からの自由だというのか? そんなことがこのツァラトゥストラに何の意味があるだろう? 何をめざしての自由であるか、それを示せ!』
師匠! 楽しめる意味なしをめざしての自由なのです!
全然意味がないのにめっちゃ面白くて感動できるものが書けたら死んでもいい!