《リンカーネイション》11 She(1)
息を吸う。
夜のように暗い室内。自分の息遣い。鼓動。
(共犯者)
その言葉を反芻して、カミルはそっと瞼を閉じた。
やれることはやったはずだ、と自分に言い聞かせる。
発信器を壊さないことにはどうにもならないが、一歩でも外に出た瞬間に短時間では外すことができないような固いロックがかかってしまう。それならば、と内部の機能そのものを無効化する外付けの機械を作ってみた。出入口付近の電源だって落とした。この小さな箱庭の中で、自分ができる精一杯のことだったはずだ。
ふと、遠出の準備をしているみたいだ、と思う。脳に響く自分の言葉に気付いて、慌ててカミルは手の甲をつねった。甘えたことを考える自分の手を。
どういうわけか、最近はよく昔のことを思い出す。リラとあんな話をしたからだろうか。
もしも。頭を過る沢山のもしも。
手をつねっても、喉をつまんでも消えてくれないのは、痛みに慣れてしまったから?
もしもあの日がなかったら。皆が生きていたら。
或いは、全部全部手遅れで。全部全部、上手くいかなくて。
あそこで死んでいたら。
幼いまま、汚れないまま、未来を奪われていたとしたら。
真っ暗だ、と思う。それこそ今のこの部屋みたいに。
(……なんだ、今と何も変わらないじゃないか)
その気付きはカミルの中でどういうわけか腑に落ちた。きっと、自分の中の大部分はあの日に死んでしまったのだ。
それに、もしもの続きも今はちっともわからない。
普通に生きていたら。家族がいて、仕事があって、そんな普通の中で生きていたら。
その仮定は全部文字止まりで、或いは風景でしか思い描けなくて。その中にいる自分がちっともわからないのだ。
自分だけではない。自分の中の普通も、あの日で止まっている。時を刻むことをやめてしまった時計のように。殺されてしまった風のように。
もしも、普通を忘れずに生きていられたら。もしも、また陽だまりの中に戻れたら。
止まらない仮定に抗うことはもう諦めていた。
もしも、ここを出られたら。
そんな資格はない、とか。自分が逃げてしまったら誰がリラを逃がすのだ、とか。
何かしらの理由を付けて逃げてきた仮定に向き合ってみる。
どこで生きる? わからない。
何をして生きる? わからない。
何をしたい? わからない。
そもそも何が好きだっけ? わからない。
じゃあ、何が嫌い? わからない。
……生きるってなんだっけ? ……わからない。
最後に一つだけ。
誰と生きたい?
「……俺は、」
リラと生きたい。
何もかも捨てたつもりでいた癖に。彼女の言葉を、『一緒に生きて』を拒んだ癖に。
それでも、それでも。
自分の身体を気遣ってくれる彼女と。
無愛想な自分に話しかけてくれる彼女と。
伸ばした長い髪を美しいと言ってくれる彼女と。
血を拭った後のその手を温かいと言ってくれる彼女と。
醜いものばかり映してきたその瞳を綺麗だと言ってくれる彼女と。
こんな自分のために泣いてくれる彼女と。
共に生きたいと言ってくれる彼女と。
手を差し伸べてくれる彼女と。
(……生きたい)
その手を掴みたかった。大好きだって叫びたかった。
もう遅いのに。選び直すことなんてできないのに。
いつも、いつも。気付くのは取り返しのつかない場所まで来た時だけれど。
それでも――。
ガタン。
大きな音を立てて戸が開く。思考はそこで分断された。
「……おやカミル。そんなところで何をしているのかい?」
入ってきたのはオリヴェルだった。相変わらずカミルの苦手なあの薄ら笑いを浮かべて。
「……別に何も」
素知らぬふりをしつつも、内心彼は呼吸を整えるのに必死だった。何もかも抉って見透かすようなオリヴェルの視線から逃れるように目を逸らす。
「そうかね。それなら構わないが」
どうやらその答えで彼はカミルへの興味を無くしたようだった。どこか不満そうな声音も耳障りだが、今はそうも言っていられない。
「それで、お前は何の用だ」
「何の用? 何って、大したことじゃないがね。僕にだって愚痴の一つや二つ言いたくなる日もある。それだけの話だ」
要領を得ない彼の返事に、オリヴェルは眉をひそめた。どういうつもりなのかさっぱりわからない。
「愚痴?」
「そうだとも。ここらの電気をすべて復旧するにはまだ当分かかりそうだからね。君だってさっさと戻って働きたまえよ」
心臓が跳ねる。核心というものがあるなら、この男はその周囲で足踏みしているようなものだ。
「……わかった」
どうやら部屋の外では皆がてんやわんやしているらしい。どさくさに紛れて作業を遅らせることはできないだろうか。どうにかして少しでも時間を稼がなければ。
――微かに握りしめた右手に気付いたのか、或いは初めから全て見通していたというのだろうか。オリヴェルは不意ににやりと笑って声を張った。
「本当にね。困ったものだよ……誰かさんのせいで」
「え」
やっと整った鼓動がまた加速していく。その濁った瞳から、目が逸らせない。
「……だ、誰か、って……。事故か故障なんだろう?」
やっと絞り出したその言葉を聞いた途端、オリヴェルは錆びついたように笑い出した。
絶望的な時間が過ぎていく。まさか。考えたくない最悪のもしも。
「馬鹿だなあ、君は。……僕が気付いていないとでも思っていたのかい?」
オリヴェルの息が耳にかかる。産毛の一本一本まで見える距離。鼓動と息と薄ら笑いが混ざり合う。ヒビが入る。入り込んでくる。脳を、思考を侵すように。
確かに何かおかしいとは思った。だが、その正体がわからなかった。
(……そういうことか)
彼は一度も焦るような素振りを見せなかった。この辺りが機能不全に陥っているというのに。三人も逃げ出したというのに。
それはつまり。
(失敗)
頭を過る二文字。目の前が真っ白になる、とはこのことだろうか。やけに音が遠い。息が詰まる。見えない何かに喉を絞められているみたいに。或いは、外すことのできない首輪をはめられているように。
こちらに主導権がある、と思い込んでいたけれど、そう簡単に手綱を渡してはくれないらしい。いや、オリヴェルが平然としていた時点で、もう結末はわかっていたのかもしれない。
どこで見破られた? 何がいけなかった? 今、彼らは?
疑問ばかりが浮かんで頭が上手くまとまらない。
「……ねえ、カミル」
脳が汚されるみたいだ、と思う。ごつごつした手に髪を梳かれていく。僅かに残されたテリトリーまで、リラが綺麗だと言ってくれた自分の一部まで、その手が搔き乱す。触らないで欲しいのに。嫌なのに。その一言が言えていたら、それもずっとずっと前から言えていたら、こんな現状なんてなかったのだけれど。
「僕は大好きなんだ。蟻地獄で足掻く蟻や、踏みつぶされた咲く寸前の蕾や、そういうものがね。自分は生きていると信じてやまない者、己の手で箱庭の鎖を引きちぎったのだと信じてやまない者……。そういう者を愛しているとも。素晴らしいね、愚かな生命は」
楽しそうに歩き回るオリヴェルとは対照的に、カミルは足の震えを抑えるのに必死だった。少しでも気を抜けば座り込んでしまう。そしてそのまま狂ってしまう。そんな気がした。
大好き、とか、愛している、とか。
カミルが十年かかっても言えなかったその一言を、オリヴェルはいとも容易く口にする。それも、気まぐれに小さな小さな虫を潰すかのごとく。
自分だと思っていた自分の中に、一滴の泥のように混ざりこむ何か。
再演。
誰かに囁かれているみたいに。
また、壊してしまう。やっと身体に馴染んできた当たり前さえ。
あの人を好きになったから。
愛してしまったから。
そうやってまた繰り返す。
思い出す。
悲鳴、肉塊、血の臭い。こみ上げる胃液と毒を入れた袋の重さ。
そうやって、また。
最悪の予感、或いは遠くない未来の足音。
怖い。
怖いのだ、ずっと。
自分で自分の手首を絞める。爪を立てる。できるだけ跡が残るように。
その白い右手を掴まれる。いつの間にか、オリヴェルはまたカミルの目の前に来ていた。
彼は不気味なほど完璧に笑ってみせる。そのまま最後の仕上げと言わんばかりに、もう一度耳元で息を吹きかけた。
「来たまえ、カミル。……世界で一番醜いものを見せてやろう」
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