猛威 《SF》
さなこん参加作品 (ルール・書き出しが共通)
《あらすじ》
突如アメリカ上空に宇宙船が現れて、地球をラタルドラフの水槽にするから滅ぼしますと人類に告げた。圧倒的な強さを誇るたった一艦に完敗する人類。水槽になる運命からは逃れられない。
そんな情勢の中、自分には真の友も恋人もいなかったのだと絶望したとある男が、自殺を図る。が、失敗。三度試み、三度とも失敗。更には世界の終わりも生き延びてしまった。ひとり呆然としていた男は、地球を滅ぼしたザネバジャ帝国皇帝直属愛玩動物課に拉致される。剣闘士として。
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
重い頭と怠い体をもてあましながらキッチンに向かおうとしていた男は、ワンテンポ遅れてキャスターの言葉の意味を理解した。首を傾げる。
起床したらテレビのスイッチを入れるというのは彼の習慣で、考えるより先に体が動く。今だってテレビを見るつもりなど微塵もなかった。スイッチを入れたのは、ただの癖。
しかし『世界の終わりまであと七日』とはどういうことだと彼は不思議に思った。なぜなら──
「世界はとっくに滅んだぞ」
男はガサガサの声でキャスターに言ってやった。それから首を左にひねる。そちら側は壁一面が窓だ。ただしガラスはもうない。バラバラに砕け床に散らばっている。そして窓の向こうは一面、水だ。大海原といった趣。ただしここは都内一等地にある55階建てタワーマンションの最上階だ。にも関わらず水は窓のすぐ下まできていた。
テレビがつくのはきっとマンションの緊急時用自家発電機が作動しているからだろう。大災害を見越してそれがある地下室は頑丈な造りなのだと彼は聞いていた。
「速報です」キャスターは画面の外から手渡された紙に目を落とし、それからまたこちらを見た。「日本政府はコロナに関する一切の業務を停止し、代わりに世界の終わりへの対策を強化する方針を発表しました。国内におけるコロナ新規感染者が50日連続で10人を下回っているため、緊急度は下がったと総理が判断を下したとのことです」
男は手元を見て、自分の指がリモコンの再生ボタンの上にあることに気がついた。どうやら録画したものを知らぬうちに再生していたらしい。ニュースなどを録った覚えはないけどなと思いながら、彼はリモコンをキッチンカウンターに置いた。
記憶はないが多分、何かの弾みで一発録画ボタンを押していたのだろうと男は考えた。世界の終わりが迫っていたその頃の彼は非常に焦り、パニックに陥りかけていたからだ。
というのも遡ること録画ニュースの三日前。突然アメリカの上空に巨大な宇宙船が現れた。それはザネバジャ帝国皇帝直属の愛玩動物課だと名乗った。そして地球は皇帝のペット、ラタルドラフの水槽にすることにした、ひいては十日後に地球の世界を終わらせると告げたのだ。
当然アメリカ軍は総攻撃をかけたが戦いにすらならなかった。戦闘機もミサイルも宇宙船の五十キロ以内に入ることもできなかったのだ。ほとんど全てがその遥か手前で姿を消した。どんな攻撃を受けたのか皆目分からず、消されたものは破片のひとつもみつからなかった。武力の圧倒的な差、アメリカ軍の完全なる敗北の様子は世界中に中継され、人類は世界が終わることを受け入れざるを得ないと悟ったのだった。
ザネバジャ人が世界をどのように終わらせるのか、人類には全く分からなかった。悲観した者、恐ろしさに耐えきれなかった者が次々と自死し、一方で覚悟を決めた者たちは残りの日々を愛する人と過ごそうとしていた。
さて。男はまだ三十代半ばでありながら、世界でも屈指の資産家だった。若くして成功し世間からはベンチャー企業の雄ともてはやされていた。仕事と同等の熱量で交遊にも力を入れ、友人は多く交際している異性は常に五人は下らなかった。
だというのに。世界が終わるとなったとき、共にいてくれる相手がみつからなかったのだ。
友人や恋人たちに囲まれてその時を迎えると思っていたのに、そうではない。今まで笑いあった友人、付き合っていた女性に終末の誘いをしたがことごとく断られた。そんなバカなと男はスマホの電話帳の上から順に電話をかけ、メールをし、SNSに書き込みもした。それがちょうど世界の終わりの七日前ぐらいのことだった。
だがどうやっても、脅したり金をちらつかせたり、更には泣いてすがりもしたけど、最期の時を共に過ごしてくれる者はみつからなかった。今までの友人も恋人も全てまやかしだったと悟った男は、終わりの日の三日前に大量の風邪薬と酒を飲んで寝た。
「これで終わりさ。俺は早く死んだから世界の終わりの日に誰と過ごすなんて関係ないんだ」
そんな空しい強がりを、ひとり呟きながらのことだった。
だが幸か不幸か男は死ななかった。
怒りの衝動のままに今度は大量の頭痛薬と酒を飲み眠った。それでも男は死なず、また目覚めてしまった。彼は神を呪いながらこれで最後と大量の胃薬と酒を飲んだ。
次に男が意識を取り戻したとき、彼はリビングの床に大の字になっていた。記憶が混沌として、何故自分が床で寝ているか分からなかった。異様に頭が重く体が怠い。やけに蒸し暑くてじっとりとした空気が気持ちが悪い。外からは形容しがたい多種雑多な轟音が聞こえる。
かなりの時間を身動きせずにいた男は徐々に自分のおかれた状況を思い出した。
もしや今日は世界の終わりの日かと顔を窓に向けた男は、息を飲んだ。外は荒れ狂う大海原。空からは巨大な火球が幾つも降ってくる。その火球は水面から突き出たビルに次々と当たり、破壊していた。
──どうして俺が寝ている間にここにぶつかってくれなかったんだ。
男は最期をひとりで迎える淋しさと恐怖で声を上げて泣き続けた。やがてまた寝入ってしまったようで、次に気がついたとき辺りは真っ暗だった。聞こえるのは寄せては返す波の音だけ。
窓に顔を向ければ満点の星空が見えた。火球は見えない。
どういうことだと男は鉛のような体に鞭打って立ち上がった。よく見れば窓ガラスは割れて床に散らばっている。際には近づけそうにない。
とはいえ立ち上がってみたところで見えるものは何も変わらず、満点の星空だけ。かつて見えた高層ビルがどうなったのかは明るさがないため分からない。相変わらず聞こえるのはちゃぷちゃぷという穏やかな水の音だけ。
男は確信した。ザネバジャ帝国皇帝直属愛玩動物課が仕掛けた世界の終わりは終わったのだと。
彼は幸運なのか悪運なのか、生き残ってしまったのだった。
神を呪う言葉を吐いて男は寝室に向かった。もしかすれば全て悪い夢なのかもしれないと僅かな希望にすがり、もう一度寝ることにしたのだった。
◇◇
明るい光に満たされた寝室で目覚めた男はすぐに絶望した。寄せては返す水音が彼の耳に届いたのだ。残念ながら現実だったと鬱屈した気持ちになりながらも、起床時の習慣で枕元の時計を見た男は七時であることを確認すると起き上がった。それはザネバジャ帝国を名乗る破壊者が現れる以前の彼の起床時間だった。
男は世界が終わり、体が酒と薬でおかしくなっていても習慣通りに目覚めたことがどこかおかしかった。腹も空いている。それはそうだ。ここ数日の間は酒と薬しか口にしていない。
ひとまずは食事、いややはり酒を、そんなことを考えながらリビングに移動した男は、習慣でテレビをつけたのだった。
窓の外に幾つも見えたはずのビルはきれいさっぱりと消えている。水音は穏やかなのに、時おり不気味なものが流れていく。うすら寒くなる光景のなか、ニュースの内容はともかくとして、久しぶりに聞く人の声は彼の心を落ち着かせた。
男はキッチンに入ると、ウイスキーでも飲もうと被害が少ない食器棚からグラスを出した。冷蔵庫の製氷室を開く。と、ちゃぷんと水がこぼれた。中に氷はなく、すべてとけている。
おや、と首を傾げる男。冷蔵庫の扉を明ける。が、中は冷えていない。辺りを見回すと電気ケトルのスイッチを入れた。だが反応はない。テレビからは変わらずニュースを読み上げるキャスターの声が聞こえてくる
この差はなんだと男が訝しく思ったその時、ブゥンと低い男がして冷蔵が震えた。見るとランプが点灯している。どうやら機器の不具合か何かで通電がいったん途切れていたようだ。
そんなことがあるのかと頭の隅で冷静な自分が疑問を呈していたが、彼は無視した。何も考えたくなかった。ウイスキーを手にとりキャップを外すとそれを放り捨て、瓶に直に口をつけてごくごくと飲み干したのだった。
◇◇
男はソファに座りうつろな目で録画のニュースを見ていた。自慢のイタリア製ソファは酒と嘔吐物にまみれ、床には血の跡がところどころにあった。裸足の足がガラスの破片を踏んで切れたのだが、絆創膏を貼る気力はなかった。死んでしまいたいと心の底から願っていたが、どうしても痛いのは嫌だった。だから酒と薬を大量に摂取するという方法を三度も試みたのだ。だがもう使えそうな薬はない。
痛くなくて苦しくもない死にかたはなんだろうと彼は考え続けていた。とはいえすでに胃と喉、足は痛み、酸素が薄いのか息が上手く吸えなくて苦しかった。スマホの検索バーに安楽死と打ってみたものの、ネットワークに繋がりませんとの表示が出ただけだった。
そうして男が餓死と首吊りはどちらが辛くないだろうかと、やってみなければ答えが分からない難問にとりかかっていると、突然彼の目前からテレビが消えた。目をぱちくりとする男。と、テーブルに投げ出したスマホが消える。振り返りキッチンを見ようとしたところで、彼はすぐそばに侵入者がふたりいることに気がついた。
侵入者はぴたりと体に張り付く不思議な形状の衣服を着た緑色のトカゲだった。後ろ足で立っている。
これは足の付きかたが地球のトカゲとは違うのだな、一般的なトカゲの後ろ足では立つことは不可能だと男は考えた。神経がすり減りすぎて、かえって冷静になっていたのかもしれない。
『ふむ。驚くより先に我々の体の構造に思いを馳せたのは、お前が初めてだ』
男の頭の中にそんな声が響いた。初めて、と彼は呟く。
「俺以外の人間に会ったのか。君たちはザネバジャ帝国のペット管理課か」
『我々はザネバジャ帝国皇帝直属愛玩動物課だ。間違えるな』とまた頭に響く声。『終わりのための作業は済んだのだが、僅かながら生き延びた生物と、ラタルドラフに有害な電磁波を出す機器が残っていた。我々はそれを探しだし全てを無に返している』
ということは、と考えた男の顔に笑みが浮かぶ。悩みが解決したと考えたのだ。自死しなくとも、彼らが自分を殺してくれる、と。
『地球には剣闘士が殺しあう闘技会という野蛮な娯楽があるそうだな。我が皇帝陛下はこれにいたく興味を持たれた』
突然の話題の変更に男は戸惑い、嫌な予感がした。
『今まで2982の世界を終わりにしてきたが、娯楽のために殺しあいをする文化なぞ初めてなのだ』とそれまでとは別の声が男の頭に響いた。『そこで陛下は闘技会を再現することをお決めになられた』
『誇りに思うがいい。2982の世界の中で初めて、お前たちはザネバジャ帝国へ入国できる生命だ』
「……つまり俺に剣闘士になれと」
『その通りだ。通達が来たのが先ほどでな。掃討作業もほぼ終わりのところだったから、お前でようやっと十一人目だ。だが陛下はお前たちのために円形闘技場も建設なされる。厚待遇を誇りに思え』
「断る。今ここで殺してくれ」
男は殺しあいなど真っ平ごめんだった。いかに楽に死ねるかを考えていたのだから。だがトカゲ型の生物は、
『お前の意思なぞ知らぬ』と答えた。
その次の瞬間、男は白い部屋にいた。トカゲたちはいない。ここはどこだと周囲をぐるりと見渡すと、背後に複数の人間がいた。みな疲れた顔でこちらを見ている。数えてみれば十人。なるほど宇宙船の中の檻かと男は悟った。
「……ジャパニーズ」
男は言ってみたが、みな首を横に振った。代わりにひとりのひょろりとした若い白人男性が出て来て、
「カナディアン」と言った。
それから彼は男に説明した。男性は他にふたり。ブラジル人とケニア人。女性が七人でケニア人(先の男性の妻のようだ)、ドイツ人、ベトナム人の母子、チリ人、ヨルダン人、そして謎の老婆。
男は老婆の容姿と服装(焼け焦げてはいたが)から、恐らくは中国あたりの山岳地帯に住む少数民族だろうと考えた。だがそれを伝えられるだけの英語力はなかった。
言語が伝わらないのは他も同様のようで、カナダ人青年が中心になって身振り手振りで出身国の違う人々の意思の疎通を図っているようだった。
黙ってその様子を見ていた男は、他の者たちが何故ここに収容されたか知らないのだと気がついた。彼らは一様に不安を口にして、カナダ人青年とドイツ女性が懸命に希望を持とうと説いているようだ。
殺しあいをするために集められたのだ──と、男は伝える気にはならなかった。それがいつ始まるのか分からないが、円形闘技場を建設するならすぐではないだろう。せっかく助かった彼らを、今から絶望させることはしたくないと彼は考えたのだった。ベトナム人の子供なぞ十歳にもなっていないように見えた。
彼女だけではない。彼は自分を含め、ほとんどの人間が武術と無縁だろうと思った。剣闘士になり得そうな者はふたりのみ。恐らくは警察官の制服を着ている中年のドイツ人女性。見るからに筋肉質で、何かしら嗜んでいるのは明らかだった。もうひとりはブラジル人の男性でがっしりした体型に鋭い目付き。ドイツ人女性へ向ける敵意から、ギャングではなかろうかと男は予想した。
カナダ人青年もブラジル人男性の敵意を悟っているからか、やたらと『ラブアンドピース』との言葉を連発している。きっと仲良くやろうということなのだろうと男も他の者たちも、英語が全く分からない老婆を除いてみな青年の意図を汲んでいた。
どのみち目付きの悪い彼を含め、他人と争う気力のある者はいなかった。世界の終わりを生き抜いたのは偶然でしかなく疲れきり飢えていたし、彼らの多くが親しい者たちの壮絶な最期にうちひしがれていた。この場をまとめようとしているカナダ人青年も例外ではなく、それを忘れるための空元気なのであった。
男は宇宙船に拉致られたのは世界の終わりの翌日だと思っていたが、実際は二日後だった。そうしてどうやら彼が最後の人類だったようだ。男以降に連れて来られる人間はいなかった。
ザネバジャ人にとって人類は飼っている動物という扱いだった。部屋に家具は何もない。食事は、チリ人女性の持つ腕時計によると、三十時間に一回与えられた。それはどこからか投げ込まれてくる苔玉のようなもので、皿も箸もない。味も苔のような青臭いものだった。ただこれは優れた餌のようで、次の食事が来るまで空腹を感じることはなく、男の不調は日に日に良くなっていったのだった。
とはいえ尊厳を奪われていることは間違いない。水はあったが小動物を飼うときに使うような水飲み器がひとつあるだけ。それを全員で使わねばならなかった。
しかもトイレは部屋の片隅に置かれた猫の砂のようなものが敷かれたトレイで、仕切りもない。砂は一回用を足すごとに清潔なものに変わっているようだったが、彼らにとっては屈辱以外のなにものでもなかった。
寝具はなく風呂もない。彼らの体は常にすっきりとしていて清潔で、床に直に寝てもどこかが痛むことも風邪をひくこともなかったが、人間の生活ではなかった。
そうして男が苔玉を三回食べたあと、部屋にザネバジャ人が現れた。
『喜ぶがいい』と彼の言葉が全員の頭の中にそれぞれが使う言語で響いた。『君たちはザネバジャ帝国内に入った。ここは既に皇帝陛下の動物園だ。明日から円形闘技場の建設に入る。他文化の建築のため少し時間がかかる。七日ほどだ』
男と老婆以外の者たちはざわめきたった。
『君たちは剣闘士として立派に戦えるよう、訓練をしておくように』
その言葉が終わると同時にトカゲ人は消え、代わりに幾種類かの剣と三又槍、盾が現れた。
たとえ剣闘士が何なのかを知らなくても、武器とトカゲ人のセリフから察することはできる。ベトナム人母子は泣き崩れ、ケニア人男性は妻を抱きしめ、その他の者もそれぞれ呆然と立ち尽くすのだった。
「俺と対戦するヤツは」と男は声を上げた。「気にせず俺を殺してくれ。八百長に見られないよう、一応戦うふりはするけど。俺は世界の終わりが来る前に三度自殺を図った死に損ないだから、殺してもらえると助かるんだ」
日本語に拙い英語を交え身振り手振り。それでも彼が殺して構わないと主張していることは伝わったようで、みな戸惑いの表情になった。
すると老婆が立ち上がった。今までろくに喋ったことがない彼女が、誰にも分からない言葉で淡々と語る。顔のシワを指さしたり、剣を胸に突き立てるふりをしたことから、恐らくは自分は年寄りだから殺されて構わないと言っているのだと誰もが理解した。
ブラジル人男性がちっと舌打ちをしたあとに何やら汚そうな言葉を吐き捨てて、みなに背を向けて床に寝転がる。
ドイツ人とヨルダン人の女性が抱き合って泣き始め、カナダ人の青年がその背を優しく撫でている。
男は老婆に歩み寄ると
「もしあなたが先に亡くなったなら、心の底から弔います」
と言った。言葉は通じないはずだが老婆は笑みを浮かべた。が、すぐにゴホゴホと咳こんだ。男は彼女の体を支えて座るのを助けた。
老婆が彼に向かって言葉を口にする。
きっと『ありがとう』と言ったのだと感じた男の目からは涙がこぼれたのだった。
◇◇
二回苔玉を食べたあとまたザネバジャ人が現れて、アリーナが完成したからそこで訓練をするようにと告げ、次の瞬間男たちはそこにいた。
足の裏には土の感触。天は抜けるような青空。そして周囲はには建設途中の観客席。多くのトカゲ人が忙しく動き構造物が徐々に増えているが、音もしなければどのように造っているのかも皆目分からなかった。
だが彼らはみな白一色の檻から出られたことに気分が高揚し、顔は明るくなった。剣を取り突く練習をする者、準備運動を始める者、みなそれぞれに動き出す。男は盾を手にすると老婆に渡した。
「重いか?練習するフリだけでも」と男。
老婆はうなずき、それを両手で握りなおすと上下左右と動かした。
「いいんじゃないか」
と男が言えば、老婆は笑みを浮かべた。
◇◇
それからは苔玉を一回食べたあとに一回、アリーナでの訓練時間が与えられた。そこへ行く度に円形闘技場は完成に近づいて行った。その速度を見れば、苔玉は一日に一食与えられているのだと分かる。
カナダ人とドイツ女性とヨルダン女性は、なんとか助かる道はないかと相談しているようだったけど誰にも良いアイディアは浮かばなかった。
そうして五回の苔玉を食べたあと。男たちは今日が円形闘技場の完成日だろうと覚悟を決めた。これからアリーナに転移され、そこでするのがまだ訓練なのか、本番なのかは分からない。ベトナム人の母が、娘は殺さないでと泣いている。男は彼女が自分と対戦となるようにと神に祈った。
ケニア人の男は妻を守るつもりでいるのか目がぎらついている。ブラジル人の男は誰とも目を合わさずに荒い呼吸を繰り返し、最近三人でかたまりがちなカナダ人青年とドイツ女性とヨルダン女性は暗い顔で手を繋いでいる。チリ人の女性は戦う決意をしているのか強ばった顔でひたすら両手を結ぶ開くを繰り返していた。
そして転移。彼らはいつものように武器と共に円形闘技場のアリーナに移動した。周りを見渡して──彼らは首をかしげた。まだ完成していないように見えるし、トカゲ人の姿もない。昨日もやけに少なかったが、完成間近だからだと彼らは考え気にとめてはいなかった。
「どうなっている」と呟く男。
他の者たちもそれぞれの母語で同じような言葉を呟く。工事の遅れならばトカゲ人がいるだろう。何か予定が変わったのだろうかと、彼らは訝しく思いながらも普段通りに練習をし、時間が来ると白い檻に転移されたのだった。
その次の日も、またその次の日も同じだった。円形闘技場は未完成のままでザネバジャ人の姿はない。これはさすがにおかしいとなり、彼らは闘技場を出てみることにした。
足手まといになりそうな老婆とベトナム人母子を残し、八人は闘技場の入り口に見える場所に向かった。
果たしてそれは入り口だったし、難なく通ることが出来た。そして闘技場を出た先は──室内だった。どのような構造になっているのかは全く不明。天井は白い檻と変わらない高さだし、どう見ても普通の部屋だった。
彼らは誰もいないそこを通りすぎて自動で開く扉をくぐり抜け、廊下に出た。が、やはり誰もいない。ひと部屋ひと部屋を見てまわるうちに、ようやくこちらに向かって歩いてくる一体のザネバジャ人に出くわした。彼は杖にすがり、荒い呼吸をしていた。
『犯人はお前たちだな』と彼らの頭の中に声が響いた。『この数日の間に首都の人口の三分の一が謎の死を遂げた。残りの者も激痛に苦しんでいる。何をした』
男たちは一様に顔を見合わせた。何のことか心当たりはない。
『しらばっくれても暴いてやる。解析機にかけ、脳を直接見るのだ。自動転移の予約は外した。時間が来ても部屋には逃げられないからな』
そう言ったかと思うとザネバジャ人は突如体を折って激しい咳をした。そのまま床に倒れ、苦し気な浅い呼吸を繰り返している。
ドイツ人女性が近寄りかがむとトカゲの額に触れ、それから
「フィーバー」と言った。
男は熱があるということかと考える。
彼女はザネバジャ人を熱心に見つめていたが、やがて首を横に振り立ち上がった。彼は息をしているが瞼が痙攣している。意思の疎通ができないのだとみな悟った。
カナダ人青年の提案で彼らは円形闘技場に戻ることになった。居残り組に見聞きしたことを伝える。ベトナム人の母が安堵したのか、娘を抱きしめてまた涙を流した。
「それにしたって、何が起きているんだ」
男がそう呟くと、みなの視線が彼に集まった。日本語は分からなくとも雰囲気で意味を感じ取ったのか、何人かがうなずく。と、チリ人女性が
「コビッド」と言った。
ドイツ人女性がうなずき、みなはっとした顔になった。
男はコビッドとは何だと考え、すぐに思い出した。それはコロナのことだ。カナダの青年が腕に注射を打つ身振りをすれば、みながうなずく。老婆もだ。彼ら全員がワクチンを接種済みらしい。
しかしウイルスが誰かに付着していたのだろう。恐らくはそれがザネバジャ人の間で爆発的に広がった。
そう言えば、終わりにした世界の人間を帝国内に入れるのは初めてと言っていたな、と男は思い出した。彼のマンションにザネバジャ人が現れたときのことだ。慣れぬことをしたザネバジャ人がうっかりミスをしたのか、元から知識がなかったのかは分からない。だがきっと、検疫をやらなかったのだ。彼らは地球からもたらされた未知の病原菌を見逃してしまった。
たった数日で首都の人口三分の一が亡くなったのなら、ゼロになるのもすぐだろう。闘技会なぞ開かれることはないだろうし、ある意味人類が首都を掌握したと言えなくもない。もっとも地球を水槽にするようなザネバジャ帝国だ。きっと首都以外にも広大な領土を持ち、億では済まないほどの国民を有するのだろう。首都掌握といっても三日天下に違いない。それでも。仲間内で殺し合わなくてよいことは彼ら全員を骨の髄から安堵させたのだった。
男の顔には自然と笑みが浮かび、なんとはなしに老婆を見た。彼女も笑顔を返してくれる。男は彼女が殺される場面を見ずに済むことにほっとしている自分に気がついた。そう言えば俺はおばあちゃん子だったと少年の頃を思い出す。
束の間の平穏と自由を心穏やかに過ごせる自信が男には湧いてきた。大量の薬と酒を飲んでいたことが遠い昔のような気すらした。さしあたり食事や水の心配もあるものの、男は生まれて初めて自分が満ち足りていると感じたのだった。
◇◇
それから何週間経っても新しいトカゲ人は現れず、彼らは自由のままだった。首都が見捨てられたのか、はたまたコロナがザネバジャ帝国を滅ぼしてしまったのかは分からない。
十一人の人類は時にいさかいを起こしながらも団結し、未知の世界でたくましく生きた。やがて二十人になり三十人になり……。
かつてザネバジャ帝国の首都だった星は人間の星となったのだった。
《pixiv》




