浮気者と健気 《恋愛》
《あらすじ》
浮気した彼氏のひどい言葉に傷ついた梨乃。思わずアイスコーヒーを浴びせかけてしまう。
親友のマコトが気晴らしに遊びに連れ出してくれて楽しく過ごすけれど、帰宅したら玄関前に不審者が待ち構えていて……
喫茶店やレストラン。そういった飲食店で、向かいに座る相手の顔にコップの水をかける。
そんなのはドラマやマンガの中でしか起きない出来事だと思っていた。
まさか自分がそれをやらかすことになるとは……。
目前の男、隆一の顔からポタポタとアイスコーヒーが滴る。
「何をするんだっ!」
彼のヒステリックな叫び声に、はっと我に返った。持ったままだったグラスを置き、代わりにテーブル上のスマホと伝票を手にする。
「浮気者、二度と顔も見たくない!」
私は言い返してやると席を立った。
付き合って半年。浮気され、問い詰めたた時間二分。いや、一分かもしれない。この僅かな時間で、隆一に愛想が尽きた。真剣に好きだったのに。
怒りやら悲しみやらで頭がぐらぐらする。ショックが大きすぎて涙も出ない。
店を出て大通りをフラフラと歩いていくと、突然手首を掴まれた。
「梨乃ちゃん!」
私の手を握っているのは幼なじみで親友のマコトだった。
「大丈夫? あいつろくでもないね」
「うん。……聞こえていた?」
「もちろん」
マコトは大きくうなずく。
私が隆一の浮気を知って真っ先に相談したのがマコトだ。とても親身になってくれて、さっきの店にも待機してくれていたのだ。
「あんなヤツには梨乃ちゃんはもったいないよ」
「……ありがと」
「今日は気晴らしにぱっと遊ぼ! ショッピングしてぇ、マリトッツォを食べてぇ、最後は飲む! わたし、買いたい服があるんだよね。お揃いにしようよ」
「……そうしようかな」
「やったね!」
嬉しそうに笑うマコトに手を引っ張られる。
振り返って出て来た店を見たけど、隆一が追ってくる様子はなかった。
◇◇
隆一に出会ったのは大学四年。卒業間近のときだった。サークルの飲み会に来た三つ上の先輩が連れて来た。最近見た映画の話で盛り上がり、意気投合。翌週、一緒に映画を見に行ってそのまま付き合うことになった。
そんな関係になってから隆一が海外の大学卒でIT企業を経営しており、その業界では有名な起業家だと知った。しかも父親は大病院を経営、母親はお茶の師範でふたりの兄は医者だそうだ。
周りにはいい男を捕まえたねと言われたけれど、私は純粋に趣味が合うところに惹かれただけ。仕事が忙しい隆一にはなかなか会えなかったけど、楽しい交際をしていると思っていた。
それなのに。数日前サークルの仲間から、『見ちゃった!』との言葉と共に隆一が女性の腰を抱いて高級ホテルのエレベーターに乗り込む写真が送られてきた。そこは高層のレストランでデザートビュッフェをしているから、もしかしたらそこに向かったのかもしれない。
だとしても私と付き合っているくせに、他の女性の腰に手という時点でアウトだ。
「見て見て梨乃ちゃん。これ、可愛くない?」
マコトが手にしているのはレースとフリルがたっぷりのブラウスだ。しかもピンク。落ち着いた色合いだけど、私は好きじゃない。
「マコトには似合うと思う。でもそのお揃いはイヤ」
「えぇ。絶対に梨乃ちゃんにも似合うのに。ボトムスはブラックのミニスカとか」
「そんなの、マコトにしか似合わないって!」
「わたしは足がいかついからなあ」
マコトはそう言って別のシャツを手に取り私に合わせる。シャンパンゴールドでデザインはシンプル。
「それならこっちは?」
「うん、これがいい」
「じゃ、これをお揃いね」
マコトがサイズ違いを二枚持って店員さんに声をかける。
「ちょっと早いけど、誕生日プレゼントね、梨乃ちゃん」
「まだ半年先だけどね」
「いいの、いいの」
私を元気づけようとしてくれているのだろう。昔からマコトは気配り上手だ。
小学五年のときに同じクラスになって、仲良くなった。隆一のときと同じように、好きなテレビ番組の話で盛り上がったのがきっかけだった。
一時期疎遠になったこともあったけど、マコト以上に頼れて安心できて、楽しい友達はいない。
レジから戻ってきたマコトは、きれいにラッピングされた袋を持っていた。
「はい、梨乃ちゃん」
「ほんと、マコトはそつがないね」
思わず笑う。
「よし、次はマリトッツォだよ!」
楽しそうなマコトに手を引かれる。
◇◇
一日中遊び回り、八時頃に自宅に戻った。私は実家を離れてアパートでひとり暮らしをしている。だけど今日はマコトも一緒。映画を見ながら朝まで飲むのだ。
マコトのおかげで楽しい気分で帰ったら、玄関前に若い男が立っていた。
「高橋梨乃さんですね。お待ちしておりました」
「ひとんちの玄関前で待ち伏せ? 通報しなきゃ」とマコトがスマホを取り出す。
「いやいや、待って下さい!」
男はいつの間にか手にしていた名刺を差し出した。受け取ってみると、それには弁護士と書いてある。
「渡瀬隆一様の依頼で参りました。あなたの暴行を訴えるとのことです。もしあなたが非を認めるならば……」
「暴行って何?」マコトが私をかばうように前に出る。声が低くなっている。
「本日飲食店で渡瀬様にアイスコーヒーをかけたことです。目に痛みがあり眼科を診断しとところ、全治一週間との診断が下りました」
「アイスコーヒーで?」とマコト。
「氷が眼球に当たったようです」
「え、目も瞑れないほどニブイの?」
弁護士はコホンと咳払いをした。
「店員の証言もとってあります。証拠はございますから、言い逃れはできませんよ」
……隆一と楽しく付き合っていると思っていたのは私だけだったのだろうか。暴行? 訴える?
なんだそれ。非を認めて謝ってほしいのは私のほうなのに、なにこの仕打ち。
マコトの気遣いで払われたはずの気鬱がよみがえってくる。
「これ、見なよ」
マコトがスマホを弁護士に突きつけた。
『浮気?』
スマホから隆一の声がした。
『梨乃がバカだとは思わなかった。そんなことを言う権利があると思ってんの?
俺はお前たちとはいる世界が違うの。一般人のただの女のくせに生意気を言わないでくれる? お前たちは俺が楽しむためのツールだよ、ツール』
弁護士の顔がさっと青ざめた。
「ばっちり顔も映っているでしょ?」とマコト。「梨乃ちゃんは修羅場は初めてだから、わたしが撮っておいたの。あのろくでなし、梨乃ちゃんのスマホがテーブル上にあるからと安心して、言いたい放題だったね」
「……マコト……」
マコトは私を見てすまなさそうな顔をした。
「ごめんね、イヤなものを聞かせちゃって。でも撮っておいて良かった」
マコトはスマホをバッグにしまった。
「この動画を渡瀬さんの会社や取引先に送ろうかな。なんだったら週刊誌でもいいよね。『イケメン起業家、裏の顔!』なんて書いてくれるかも」
「それは……」弁護士が言葉に詰まっている。「……そこまでとは」
「渡瀬さんが『そこまで』バカとは知らなかった、というところかな」マコトはそう言って微笑んだ。「弁護士さん。よく考えたほうがいいよ」
彼は頭を軽く振った。
「嫌な予感はしていたんだ」
「だったら引き受けなければいいのに」
「うちのボスが隆一様のお父様の顧問弁護士なんだ」
「あらあら、大変ね」
「もうひとつ、依頼されているんだ」弁護士はげっそり顔で言う。「高橋さん。渡瀬様から贈られたプレゼントを返してもらえるでしょうか」
「小っさい男!」マコトが笑い出す。
◇◇
弁護士はプレゼント──といってもピアスを一組だけを受け取ると、しおしおと帰って行った。
「常識のある弁護士で良かったね」
マコトがサワーの缶を開けながら言う。
リビングのテーブルにはデパ地下でマコトが選んだ、ちょっとお高めのお惣菜が並んでいる。
「はい、梨乃ちゃん」
たった今開けた缶を私に渡してくれるマコト。
「今日は何から何までありがと。マコトがいてくれて良かった」
「でしょう! わたし、頼りになるのよ」
「うん」
うなずくとマコトはずりずりと床に座ったまま移動してきて、私のすぐそばまで来た。
「梨乃ちゃん、ごめん」マコトの声が低い。「これはチャンスだ、って下心がある」
マコトの顔を見る。丁寧にほどこされた化粧。中高生のころ、よく一緒にメイク用品を買いに行ったことを思い出す。私たちは本当に仲の良い友達だった。
「やっぱりわたし、梨乃ちゃんの友達じゃなくてカレシになりたい」
「……」
私は渡されたばかりで、まだ口をつけていないサワーをテーブルに置いた。
マコトは男だ。だけど出会ったころから口調は女の子っぽくて、可愛いもの好きで。中学に上がってから私服は女性ものしか着なくなった。
よく分からないながらに、マコトは性自認が女性なんだろうと漠然と思い、だから私にとっては完全な同性の友達の感覚だった。
マコトの恋愛対象が女性だと知ったのは、高三のとき。友達じゃなくてカレシになりたいと告白されたときだ。私はすっかり混乱してしまい、マコトから離れた。
でもそれは半年で終了。私が淋しくて仕方なくなったころ、マコトから友達に戻りたいと連絡が来たのだ。
それ以来、マコトと私は友達。マコトは時々女の子と付き合っているけど、どの子とも長続きしない。
「本当はね、梨乃ちゃんがわたしを好きになってくれる機会をずっと待っていたの。気持ち悪いかな? 怒った?」
マコトが不安そうな顔をしている。
「……四年以上前のことだよ」
「告白したのはね。好きになったのはもっと前。だってこんなわたしをありのまま受け入れてくれるの、梨乃ちゃんぐらいだよ? 好きにならずにいられないじゃない」
「ありのままって。カノジョいたよね? 私だけってことは」
「男の格好で会っていたからね」
「そうなの!」
知らなかった。
「『普通』の男になったら梨乃ちゃんが振り向いてくれるかと思ったから頑張ったの。結局、なれなかったけど」
マコトの言葉を考える。
「……ちょっと待って。マコトを断ったのは普通の男じゃないからじゃないよ。女友達のつもりだったのに『カレシ』と言われて混乱したの。そりゃ制服は男子のを着てたけど、マコトは私にとって女子で……」
「じゃあ、『カノジョ』になりたいだったらオーケーだった?」
「え。それは、どうだろう……」
考えてみる。
だけどよく分からない。
やっぱり戸惑ったかもしれない。でも『カレシ』という言葉ほどは混乱しなかったのではないかと思う。
「梨乃ちゃん」
マコトが更に距離を詰めてくる。
「あんなくだらない男に泣かされてる梨乃ちゃんを見てたら、黙っていられないよ。わたしと付き合おう。絶対に泣かさないよ」
マコトは四年以上も私が自分を好きになるのを待っていたんだ。
そう思うとなんとも言えない気持ちになった。
私はこの四年、何も気づかないで友達に戻れたと喜んでいたのだ。我ながらひどい女だと思う。なのにマコトは私がいいらしい。
彼のアイメイクばっちりの目を真っ直ぐに見る。
「私、マコトのかけがえのなさが分かってなかった。待たせてごめん。私のカレシになってくれるかな」
「ありがとう、梨乃ちゃん!」
破顔したマコトに抱き寄せられる。
あ、身体が角張っていると思い、マコトにこんなことをされるのは初めてだと気づいた。
急激に鼓動が速まる。
「マコト、いつから私を好きなの?」
「ヒミツ」
ちゅっと額にキスをされる。
「いけない、口紅がついちゃった」とマコト。「いいや。せっかくだから梨乃ちゃんの全身にわたしのマークをつけちゃえ」
全身?
待って、心構えがまだ。
そう思ったけど、マコトは散々待ったのだよなあと考えて、何も言わないことにした。
エブリスタ




