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短編集 ~他サイトに載せている作品を集めたもの~  作者: 新 星緒


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勝山探偵事務所② ~パンドラの箱~ 《ヒューマンドラマ》

《あらすじ》


冴えない探偵事務所を開いている勝山。所員はふたり。家族に家を追い出されたダメ男田嶋と、押し掛け助手のユキ。

ヒマすぎて昼間から発泡酒を飲む彼らの元にやって来たのは依頼人ではなく、勝山の祖母の知り合いだった。

『会いたいと泣いているから』

彼女にそう言われて、勝山は四半世紀ぶりに祖母の元を訪れる。田嶋とユキに内緒で。

というのも勝山は祖母に対して……。

「──という訳で、あなたに会いたがっているんです」

 目の前の座っている人の良さそうな中年女性が、目の端に浮かんだ涙をハンカチで押さえる。

「山本さん。こう見えて私、仕事が立て込んでいましてね。会ってくれと言われても時間がちょっと」

 俺は大嘘をつく。この探偵事務所の所長になって以来、そんな状況になったことは一度もない。それはこの事務所を見ればよく分かるだろう。彼女が座っているソファも後ろにあるデスクもミニキッチンとの仕切りに使っているパーティションも全ておんぼろ。買い換える余裕がないからだ。金がない、イコール仕事がない。


 だけど所員(仮)はふたりもいる。デスクの安い回転椅子に座っている田嶋とその隣、折り畳み椅子のユキ。

 山本は安い家具ではなく彼らを見て、俺の言葉を信じたようだ。彼女はしたり顔でうなずいた。

「わかります。探偵のお仕事というのは勤務時間も不規則ですものね。面会時間は限られていますから、難しいとは思いますが」

 彼女はそう言って、傍らのバッグからリーフレットを取り出した。


『カーサ・グランデ

 ~安心と充実、幸せなシニアライフを*介護付きホーム~』


 そんなタイトルの下にシックな色合いの瀟洒な建物の写真がある。一見プチホテルにしか見えない。金がかかっていそうだ。きっと入居するにも相当な額が必要だろう。山本はそこに勤める介護職員だという。


「ここに」と山本が三つ折りのそれを広げた。「面会時間が書いてあります。住所と地図はこちら。私は電車で片道一時間半くらいで着きましたから、往復でたったの三時間。ぜひ会いに来てあげて下さい。チズ子さん、毎日のように『龍之介にひとめ会ってから死にたい』と泣いているんですよ。離れて暮らすようになってから、一度もお会いしていないのでしょう? もう四半世紀近くになるとか。最後に祖母孝行をしてあげて下さい」


 チズ子──瀬ケ崎チズ子は俺の父方の祖母だ。母とふたりであの家を出て以来、連絡はとっていない。

「というか、そもそもあなたはどうやって私を見つけたのですか」


 俺の質問に山本はバツの悪そうな顔をした。

「実は私の弟も探偵事務所に勤めているんです。新宿にある深山ってところで、そこに頼みました。費用はチズ子さんが出してますけど、ご家族の了承も得ていますし、弟の社員割りを使って安く済ませていますから。……本当はこういうのは規則違反なんですけど、チズ子さんがあんまり気の毒で」

 なるほど、山本は違反してでもあの女を手助けしたかったということらしい。


「深山探偵事務所は業界最大手ですね。一番信用できる探偵事務所だと私は思っていますよ」

 俺は愛想よくリップサービスをする。

「この件は今の仕事がひと段落したら、考えます。すみませんがそろそろ依頼人が来る時間ですので。本日は遠いところまでご足労いただき、ありがとうございました」

 俺が立ち上がると人の良さそうな山本も慌てて追随し、必ず来て下さいねと何度も念押しして帰って行った。

 事務所の扉が閉まり、十を数えてからソファにどっかりと座る。

 ああ、ムカムカする。

 なにが祖母孝行だ。何も知らない偽善者め──。


 足音が近づいてくる、と思ったら目の前に発泡酒が差し出された。

「ほらよ、かっちゃん」

 田嶋だ。どうもと受け取りプルタブを起こす。プシュッと小気味良い音。一気に炭酸をのどに流し込む。

 田嶋はソファの背もたれに尻を乗せ、俺には背を向けて飲んでいる。


「まったく。昼間から飲んで」

 そう言いながらやって来たユキも手に同じものを持っている。そもそもこれらはユキの差し入れだ。彼女はひと月ほど前にうちの押し掛け助手となり、給料はなんと歩合制。依頼人が来ない限り無給で働くと自ら言った。だが俺や田嶋より羽振りがいい。貯金がたんとあるらしいが、なんであるのかは知らない。俺の仕事は探偵だが詮索は好きじゃない。


 ユキは俺から少しだけ間を開けて隣に座った。

「私、リュウのお祖母さんを覚えているよ」

 驚いて缶を口から離して彼女を見た。

「なんで。会ったことがあるのか」

「うん。リュウが私をかばって怪我をしたときに病院で」

「ああ、そうか」


 ユキは小学校三年生の夏休みのときに知り合った、秘密の友達だった。親に隠れてこっそり遊んでいたが俺がうっかり大ケガをし、それが原因でユキの家族は町にいられなくなり引っ越して行った。

 お互いに連絡先は知らず、このまま二度と会うことはないのだろうと思っていたのだが、ついひと月ほど前に再会した。俺たちは思い出話をたくさんしたし、彼女の一家が越さなければならなくなったことの謝罪もしたけど、俺がなぜ瀬ケ崎の家を出て勝山になったのかといった事情は告げていない。


「ユキには嫌な思いをさせたんだよな。悪かったよ」

「まあ、そうだね。お祖母さんは特に怖かった。でもそれだけリュウのことを大切に思っているからなんだって、私のお母さんは言ってたけどね」

「ユキの母さんは寛大だな。けどよ、あの女が大切にしてたのは俺じゃない。『瀬ケ崎の跡取り』だ」

「……あまり好きではないの?」

「そうだな」

 腹の奥でどす黒いものがふつふつと煮えたぎる。久しく忘れていた感覚だ。


 彼女から目をそらしたら、ユキのゴールド色のハイヒールが視界に入った。この靴は初めて見る。清楚な服装に反して足元はいつも攻めチョイスのユキ。

 ほんと変なヤツ。

 そう思っていたら、少し腹の中が落ち着いた。ほんの少しだけだが。


「いいんじゃねえの。家族だから好きじゃないと駄目だなんて決まりはねえからな。俺なんて娘にも嫌われちまってるぜ」

 田嶋がそう言って、発泡酒を煽る。

「田嶋さん、お子さんがいるんだ」

「まあね」

 田嶋は二ヶほど前に家を叩き出された。ボーナスを全額競馬につぎ込んだのがきっかけらしいが、それだって一回や二回のことじゃない。結構なろくでなし野郎だが優しい面もある。


「リュウ」

 ユキがやけに真剣な声を出した。

「なんだよ」

「事務所に住んでるからてっきり独り者だと思っていたけど、リュウって妻子がいたりするの?」

「いねえよ」

「あれ、ユキちゃんはかっちゃんの身元調査をしたよね」田嶋が訊く。

「違うよ。リュウを探してもらっただけでプライベートなことは聞いてない。だからリュウの家族のことは全然知らない」


 ユキのまっすぐな視線を横顔に感じる。


「事情は分からないけど、協力とか相談とか、必要なことがあったら言って」

 俺はぐいっと発泡酒を飲む。それから、

「小五になったばかりのときだ。父親がじいさんと一緒に車の自損事故で死んだ。で、母親は俺を連れて瀬ケ崎の家を出た。俺たちは二度と瀬ケ崎の家に近づきたくなかったし、向こうも親父の法要にも招かなかった。今更何を言っているんだって話だよ」

 と言った。


「そっか」とユキ。

「ほら、力みなさんな」田嶋がそう言って、後ろから俺のこめかみを拳でぐりぐりとした。「まずい面相が余計にひどくなる」

「田嶋ほどまずくはねえよ」

「子供のころはあんなに美少年だったのにね。すっかりやさぐれ中年になっちゃって」とユキまでため息をつく。

「俺が中年ならユキも中年だろ。同い年なんだから」

「同じくくりにすんな。かっちゃんとユキちゃんじゃ雲泥の差だよ」

 田嶋とユキがキャッキャと実のない話に興じる。それを聞きながら俺は、腹の底の熱を感じていた。


 ◇◇


 カーサ・グランデ。三階建てのその実物は写真より古びていた。そのせいか陰鬱に見える気がするが、降り続く小雨のかもしれないし、単なる俺の心情のせいかもしれない。

 俺がここに来ていることを田嶋もユキも知らない。野暮用で出かけるとしか話していないからだ。山本が訪れて以来、腹の底でくすぶっている熾火をあいつらに知られたくなかった。俺はほとほと見栄っ張りだ。


 ビニール傘を閉じると傘立てに突っ込んで中に入った。そこはまるでホテルラウンジのようで、受付の人間もスーツ姿だ。


『瀬ケ崎の人間たるもの、一般人と同じではなりません』

 頭の中にそんな声が響いた。あの女の口ぐせのひとつだ。子供のころは分からなかったが、あの家の人間は選民思想の塊だった。一般家庭出身の母はさぞかし居づらかっただろう。望んで結婚したのではなかったと母の兄から聞いたことがある。父親に好かれてしまい、逃れられなかったとか。父親はそれまでに二度結婚して二度離婚していた。どちらも家柄重視の見合い結婚だったらしい。


 受付で山本がいるかを尋ねたらすぐに呼び出してくれた。出迎えた彼女は輝くばかりの笑顔だった。彼女もパンツスーツ姿だ。俺がいぶかしげな表情でもしていたのか、山本は『流行りの、スーツに見える作業着ってやつですよ』と笑う。俺が思い描く介護職員の格好とはだいぶかけ離れている。きっと高級感に重きを置いているのだ。

 カーサ・グランデ。日本語にしたら偉大な家、ってとこだろうか。あの女の好きそうな名前だ。


 山本の案内で施設内を進む間、彼女はあの女のことをあれこれと話した。ちょっと癇癪が強くて親しい仲間も職員もいないけど、本当は淋しくて仕方ないのだといった内容をオブラートに包んで。

 そんな山本とすれ違う職員や入居者の様子を見ていると、この山本自身も浮いた存在のように感じられた。規則を破ってまで入居者に肩入れする、そんなお節介なところが原因じゃないかと考える。


 考えることで俺は冷静を保とうとしているのかもしれない。


 三階でエレベーターを降り、『こちらです』と山本に示された部屋の入り口脇には《瀬ケ崎チズ子》とのネームプレートがあった。目にしたとたんに心臓がドクリと鳴った。

「チズ子さぁん」山本が間延びした口調で声をかけて中に入る。「本当の本当に、お客様は龍之介さんでしたよ。チズ子さんに会いに来てくれたんですよっ」

 山本に続いて室内に一歩入る。

 そこはホテルの一室と見まがうような部屋だった。高級そうな調度類が並んでいる。その中で立派な肘掛け椅子に、あの女がちまっと座っていた。記憶の中よりだいぶ小さい。多分傘寿近いはず。どっからどう見ても、弱々しいただのばあさんだ──。


 ばあさんがのろのろと口を開く。

「よく来てくれたね、龍之介。ずっとずっと会いたかったんだよ」

 ゆったり口調のその言葉を聞いたとたんに、腹の底の熱が爆発した。


「よくもそんなことが言えたな、悪魔が!」

 俺のものとは思えない大声が口から飛び出る。

「随分と値の張りそうな施設に住んでんなあ。あれか? ここの費用も母さんから奪った父さんの保険金を使っているのか? それとも俺に渡さなかったじいさんの遺産か? え?」

 あの女の目が大きく見開いている。

「俺たちから何もかも取り上げて無一文にしておきながら、何が『会いたかった』だ」


 俺の父親は死ぬ直前に祖父から数千万を借りていた。その借り受け書には『いずれ必ず返金する』との言葉と署名と日付が書かれていて、ばあさんや叔父叔母たちはそれを振りかざして、母が浮けとるはずだった父親の保険金を全額奪ったのだ。更に俺が受けとるはずだったじいさんの遺産も、放棄する書類が勝手に作られていた。


「違うんだよ、あれは子供らが……」

 ばあさんはうろたえたように目をキョロキョロとさせている。

「嘘つきめ、俺が何も知らないと思ってんのかよ! あんたや叔父叔母が母さんを囲んで脅迫して、無理やり書かせただろ、俺は見ていたんだ!」

 真夜中だった。怒号で目が覚め、何が起こっているのかと母を探した俺は、その光景を見た。畳に直に座る母の周りをばあさんたちが取り囲み、怒号を浴びせていたのだ。その日の明け方、母と俺は必要最低限のものだけを持って屋敷を逃げ出した。


「違うんだよ」とばあさんがまた言う。「初枝さんが離婚して龍之介を連れて出て行くってバカなことを言うから。お前は瀬ケ崎の跡取りなのに。お金がなければそんなバカなことは出来ないと思って……」弱々しい声での弁明。「瀬ケ崎の名前の重みを、初枝さんは育ちが悪いからちっとも理解しなくてね」


『育ちが悪い』。その言葉に、頭に血が上る。


「あんたたちはいつもそうだった! 何かにつけて母さんをバカにし、人格を否定し、二言目には『育ちが悪いから』となじっていたよな! 俺の良いところは全部『瀬ケ崎の血のおかげ』で、悪いとこは全部『初枝のせい』。テストで一問間違えただけで『初枝の教育が悪い』ってあんたは母さんを殴ってたよな!」

「当たり前だろ、あの女は卑しい生まれの愚かな女だ」


 拳を振り上げそうになる。

 だがそれじゃこの女と一緒だ。


「父さんが会社の金を横領したのだって、母さんが妻としていたらないせいだとあんたたちは責めて、土下座させてたよな! お前の息子は逮捕されなかっただけで犯罪者だよ。そいつを育てたのは誰だ、あんただろうが。愚かなのはあんただよ!」


 父親は、祖父が会長を勤める会社の役員だった。それをいいことに会社の金を勝手に株投資に使い焦げ付かせたらしい。それを祖父が私財から補てんして揉み消した。その直後、何を考えたのだか祖父は四十年ぶりに車のハンドルを握り父親と出かけ、帰らぬ人となったのだ。

 これのどこに母さんが責められる要因があるというのだ。

 愚か者ですみませんと謝る必要があるとすればそれは、育てたばあさんのはずだ。


 腹の中がふつふつと煮えたぎる。


「俺はあんたに会いに来たんじゃねえ。言いに来たんだ。ずっと言ってやりたかった言葉を言いにな」

 握りしめた拳の親指を立て、ビッと下に向ける。

「くそババア、地獄に落ちろ」

 俺は最後にばあさんをひと睨みすると踵を返した。


 腹の中と言わず全身が煮えたぎっている。瀬ケ崎の家にいた頃の記憶はできることなら消し去りたい──。


 部屋の前には人だかりができていたが、さっとふたつに割れて通り道ができる。足早に通り抜け、エレベーターホールでかごを呼ぶボタンを押す。三機あるがどれも一階に止まっている。

 来るときに階段を確認しておけばよかった。

 顔を上げてぐるりと見ると、非常口の案内が目に入った。そちらに向かって歩き出す。

 と、突然、肩を掴まれた。


「やめろっ」

 手を振り払い後ろを見ると、そこにいたのは田嶋だった。となりにはユキ。

「落ち着け、かっちゃん。何度も呼んだぞ」

 うなずくユキ。

「……なんでここに」

「だってなあ。お前、山本さんが来たときから様子がおかしかっただろ」

「それで野暮用なんて言って出掛ければ、ねえ」とユキ。「心配であとをつけて来たの。ごめん」

「でも来て良かった」

 そう田嶋が言ったとき、チンと音がしてエレベーターの扉が開いた。

「さ、帰ろうや。夕飯はユキちゃんの奢りでだるま弁当って決まってるから」

「資金は出す。持って帰るのは田嶋さんだからね」

「任せてくれ。十個くらい持てちゃうけど、どうする」

「ひとり二個まで」

「二個もいいのかい」

 おちゃらけた会話を聞いていたら俺の中の何かが決壊し、どっと涙が溢れ出た。


 ◇◇


 瀬ケ崎の家にいたころ俺は、母がばあさんたちに詰られることに疑問を持っていなかった。あいつらの言う通り瀬ケ崎の人間はみな優れていて、そうでない母は優れていない。心の底からそれを信じていたし、なんなら見下す気持ちさえあったと思う。

 おかしいと初めて思ったのは父の横領が発覚したときだった。あの女をはじめ瀬ケ崎の人間は、俺が何か失態をすれば悪いのは育てた母だといって母に土下座をさせていた。それなら父の失態はあの女が土下座して謝らなければならないはずだ。なのに母が謝らされていた。

 そして瀬ケ崎の家を出て『庶民』の学校に行くようになってようやく、あの状況の異常さを理解したのだった。


 婚家で敵に囲まれ苦しい思いをしていただろう母。本当なら俺が母の味方について、守らなければならなかったのだ。なのに俺は母を助けないばかりか、あの女たちを正しいと思っていた。


「そうか。リュウが怒っているのは自分に対してもだ」

 俺の話を聞いたユキがそう言った。施設のラウンジのソファを借りている。

「でもそれは違うよ。リュウは子供だったんだから。家庭内の異常さに気づけなくても仕方ない。お母さんを守る義務もない」

「守ろうとしたら、余計に『あんたの教育が悪い』って苛められたんじゃねえかな」と田嶋。

「それともお母さんにそのことで責められたことがあるの?」

「……ない」

「でしょう? 悪いのは瀬ケ崎の人たちであってリュウじゃない。お母さんもそれを分かっている。気にするな!」

 ユキがばあんと俺の背を叩く。

「分かっていても、そう簡単には割りきれないんだよな」そう言ったのは田嶋だ。「後悔するのも、ダメと分かっていても改められないのも、人間の性質だ」

「田嶋さん、哲学的だね」

「ユキちゃんはさ、なんかこう、自分の道をバーンと進めそうじゃん。障害があっても蹴散らすタイプ」

「そうかも」

「俺とかっちゃんはさ、ダメ人間タイプだから」

 な、と笑う田嶋。

「しかしとんでもない毒祖母だ。経緯はどうあれ、離れて暮らせたことは良かったよ。じゃねえとかっちゃんもろくでもない人間になってただろうな」

「……なってるよ。八十を越したばあさんを怒鳴り付けるような男だぜ」

「またあ」とユキは俺の背を再度叩いた。「リュウはぐだぐだだなあ。ま、そんなとこもあの事務所に似合っててサイコーだけどね」

「なんだよ、それ」

 俺は泣きすぎてしばしばする目を両手でもんだ。

「かっちゃん」田嶋に呼び掛けられる。静かな声だ。「あのばあさんが『八十を越えても怒鳴られる』ような人生を送ってきたんだよ」

 手を下ろして目を開く。田嶋の表情も静かだった。

「少しは反省してくれるといいな。あのトシじゃ難しいだろうがよ」

「そうだね。田嶋さんの言うとおりだと思う」とユキも言う。

「……四半世紀も前のことだけどな」

 俺がそう自嘲気味に言うと、田嶋は首を横に振った。

「それだけ経ってもまだ許してもらえないことを彼女はしたんだ。俺も散々妻を泣かせたからな。子供たちにも一生許さないって宣言されてるよ」

 田嶋はへへっと笑ってから立ち上がった。

「さ、今度こそ帰ろうや。弁当が売り切れちまう」

「……だな」

 俺も立ち上がる。と、離れた場所にいる山本と目が合った。いつからそこにいたのか、彼女は無言で頭を下げた。俺も会釈を返す。

 受付のスタッフに施設内で騒いだことを詫び、外に出た。小雨は上がり雲の隙間から日が差している。


「カサ、忘れんなよー」

 田嶋が普段の調子に戻ってビニール傘を二本とる。ユキが手にした傘は黒地に派手な花模様がある。清楚な服装とは不釣り合いだ。彼女の好みは謎すぎる。


 差し出された傘を受け取り、三人で駅に向かって歩き出す。ユキと田嶋は土産ものについて話し始めた。ラスクがどうとかうどんがなんとかと、夢中になっている。せっかく遠出をしたのだからと、弁当以外にもあれこれ買いたらしい。


 そんな話を聞いていたら、いつの間にか俺の内で煮えたぎっていたものが消えていることに気がついた。その代わりになんとも言えないむなしさがある。

 往復で一万円近い運賃をかけてまで、俺は何をしているのだろう。言いたいことを言ってスッキリした訳でもない。生産性のないムダなエネルギーを使っただけだ。しかも後味悪め。


「で、リュウはどうする?」ユキが俺を見る。

「ごめん、聞いてなかった」

「ラスク。何味がいい? プレーン以外にもチョコ系、チーズ系、ワインに合うのもあるよ」

「俺はチーズ推し」と田嶋。「ワインは飲まねえもん」

「俺もチーズかな」

「じゃあプレーンとチーズにしよう。ラスクはリュウが持ってね」

「……おうよ」


 後味は悪くても、ムダではなかったなと思い直す。

 俺にはいい仲間がいると分かったじゃないか。

「じゃあ俺はうどんを買うわ。明日の昼に食べよう」

 それからつゆ論争が勃発。手作り派の田嶋と出来合いを購入派のユキが口角泡を飛ばしはじめ、俺は必死に仲裁する羽目になったのだった。


エブリスタ

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