懐古2
『なんだ、ワタシ……が』
ワタシの身体はどうなってしまったんだ。こんな姿じゃ主人が戻ってきた時に、抱きしめてもらえないじゃないか。
――ああ、そうだった。主人は居なくなったのだった。
主人を思い出せば、きゅう、と身体の中心が青く暗い感情で痛くなる。それと同時に、湖の水が再びざわざわとさざめきだす。
『……』
目の前のそれは、急に一言も話さなくなった。ただ、ワタシの様子を見ているだけ。ただそれだけだというのに、何故か赤黒い感情が溜まっていく。
青く暗い感情に反応したのか、さざめく湖の波が手の形になって伸び、ぴと、ぴと、と、縋るようにワタシに触れて握る。それと同時に、ひんやりとした冷気が身体に流れ込んだ。
これは、ただの人間が触れられると直ぐに凍えてしまいそうな冷たさだ。だけど。ワタシは人間じゃない。生きていない、ただの縫いぐるみだ。……だから、凍える事はない。縋り付いてくるそれらに、沸々と赤い感情が沸き上がる。
『離れろ!……ワタシに触れて良いのは、主人だけだ!』
沸き上がる赤い感情をそのまま爆発させ、黒い手を引き剥がす。赤い感情がぶつかると、青く暗いその手達は表面から削れて消えていった。
こんなところにはもう用は無い。目に前にいるそれもなんだか不気味だし、第一関わらない方が良さそうだ。そう思い、高く飛ぶ為に足に力を込めたその時、
『……可哀想に。沢山の感情を吸い込んで無駄に肥大化してるなんて』
不意に、目の前のそれは呟いた。憐む声色に、哀れう言葉。同情。
『……今、何て言った?“可哀想”、だと?』
“可哀想に”。その言葉は、主人がよく部屋の主に言われていた言葉だ。憐む、言葉。一番、大嫌いな言葉だ。
『お前に、何が分か――『――君、人間みたいなバケモノだね』っぐ?!』
膨らんだ赤い感情をそれにぶつけようとした途端、強い妬みを含んだ言葉が、ワタシを押し潰した。見上げると、それは近付いてきた。じわりと、力が溜まるのを感じる。
『……あぁ、良いねぇ……妬ましい。実に妬ましいねぇ……』
ねっとりと絡み付くような言葉が、暗黒色の実体を伴って身体に纏わり付く。振り払おうにも、身体が全く動かせなくなっていた。
『君は人に近いバケモノなんだ。……オレとは違う。きちんと“本物の感情”を出す事が出来るなんて、』
それの目が一瞬、緑の色を滲ませたように見えた。
『―― 妬ましい』
そう、言葉が聞こえた瞬間、ワタシの意識は途絶えた。
×
意識を再び取り戻した時、それはワタシを見下ろしていた。貼り付けていた笑顔すら無く、無表情で。
『もう、君の悪くなったところとか色々治ったから大丈夫だよ』
なんだか身体が軽い、そう思った時目の前のそれは声を掛けた。
安心させるように言っているかもしれなかったが、それから発せられるその言葉は酷く冷たく、殆ど感情を感じさせない。さっきまでの、人間を模倣したような態度は止めたらしい。
『信じられるか、嘘のようなそんな言葉』
殆ど感情を感じられない言葉に、目の前のそれを睨み付ける。感情の篭っていない言葉は、嘘だ。ワタシには分かる。
可哀想に、いい子だね、怒ってないから。感情の篭っていない言葉を吐いていた部屋の主は、その後すぐに主人を殴っていたのだから。
『……へぇ?』
ワタシの言葉に、それは少し目を見開いた。漸く、会話が成立しそうな予感がした。
『……うーん、本当は違うバケモノを探してたんだけど……』
小さくそれは呟き、
『強さ、純度……色々あるけど、君も良いね』
『萎縮しちゃわないところとか』と、にこりと顔に笑みを貼り付けた。
『言葉と行動に、感情が伴ってない奴は信用出来ない』
『――だから、“オレの仲間にはならない“、ね。……別に構わないよ……今は、ね』
それは何か鎖に繋がった丸い金属――確か『時計』と呼ばれるものだろうか――を、身体の中から取り出し、
『そろそろ時間だから、また来るよ』
そう告げ、瞬間に姿が消えた。
どこまで書こう……此処で止めておくのも手か。
因みに、この話でそれが吐いた嘘は、『色々治った』の部分です。壊れた縫いぐるみの異常は治ったけど、自身の中で異常に膨れ上がった感情は治ってない。ただ抑え込んだだけ。