懐古。
どの感情よりも、恐れの方が勝っていた。興味を向けられる事を恐怖し、触れられる事を恐怖し、世界の全てに恐怖した、哀れな人。
――これは、ワタシが『ワタクシ』になる前の話だ。
×
灯のない部屋で帰りを待つ。部屋の主はワタシの主人を痛めつける。ワタシを握る主人の手から、じわりと赤黒い感情が流れ込む。その感情は『恐怖』。赤黒い色がワタシに染み付いていく。
ワタシの主人は大変に愚かだった。部屋の主以外の、この世の全てが自身を害するのだと思い込んで、部屋から一歩も出る事はなかった。
主人の唯一の“トモダチ”はワタシだけ。沢山の人の手に渡り、古く穢く汚れ、そこかしこが解れ、右の目が割れた、壊れた縫いぐるみ。
“ワタシ”は主人に愛を返すことの出来ない、ただの縫いぐるみ。
愛を返してくれないと分かっている筈なのに。愛して欲しいと部屋の主に縋って縋って。代わりに返される痛みと恐怖を共に、愛だと思い込んで受け入れていた。
×
ワタシの主人は、『特別』だったらしい。詳しくは知らない。ただ、主人と同じぐらいの大きさの少年少女と違い、外に出られない事だけは知っている。
ワタシは長い間、沢山の人間達の間を渡ってきた。だから、なんとなくはわかる。今の主人の周囲は少しおかしいのだと。
ワタシの主人になった人間達はあっという間に大きくなり、直ぐにワタシを『要らない』と呼び手放す。しかし、今の主人は10年以上たった今も、変わらずにワタシを手元に置いてくれていた。だから、今の主人を助けてあげたいと感じるようになるまで時間はかからなかった。
あまりにもワタシの主人が可哀想だったので、『恐怖』の感情を吸い取ってあげた。
――それが全ての始まりだった。
×
泣いたり怯えたりもしないからと気味悪がって、部屋の主はその暴力を酷くしだした。おかしい。こんな筈では無かった。主人の肌色が、赤く、青黒く、土留色に、染まっていく。
今までは、纏う布で隠れる腹や脇腹、背中等を中心に痛めつけていたが、やがて脚、腕、顔……と、その範囲を広げていった。
ワタシの主人はそれを『かまってくれた』と喜んでいた。嬉しそうに、ワタシに語りかけていた。ワタシの主人が喜んでくれるのは、ワタシも嬉しかった。……だけれど、何かが違う。
『生き物』には食事が必要だ。長い間『生き物』と共に生活をしていれば、流石に『生き物』ではないワタシにも、それは理解できた。
ワタシの主人は部屋の主より身体が小さいからか、食事の量は極端に少なかった。主人は動き出してから暗くなって休むまで、1度も物を口に入れない時があった。部屋の主は3度も食べているのに。
外に締め出されれば、主人は痩せ細った小さな手でワタシを抱きしめ、静かに寒い暗闇が終わるのを待つ。
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そして。
ある日、ワタシの主人は動かなくなった。
部屋の主は口を開く。
「ああ、これで厄介払いができた」
と。
その言葉を聞いた時、ワタシの中で、『何か』が膨れ上がった。
なんだろう、この衝動は。
黒い衝動が、『ワタシ』と、ワタシに染み付いていた、赤黒い感情と混ざり合ってゆく。
×
気が付くと、血溜まりの中に居た。
ワタシに染み付いているものと同じ、赤黒い色が肉片と共に周囲に撒き散らされていた。
騒ぎを聞きつけた人間達も、ワタシが少し動くだけで赤黒い色を湧き起こし、肉片となって散っていく。息を吸うように身体を膨らませると、その赤黒い色がワタシの中に吸い込まれる。
『主人が弱っていく姿を見知っていたのに、お前達が見ないふりをしていたのは、知っているぞ』
初めて発した『音』は、主人達の発する音とは違っていて、低く、地を揺らすような振動だった。
×
ここは何処だろうか。
まっさらな地を踏む。
主人の居ない世界には興味は無くて、そこから飛び出した。そして気が付くと、周囲には色の無い世界が広がっていた。
薄い灰色の空に濃さの違う灰色の地面。黒い植物達が影のようになって、静かに揺れていた。その中を、あてもなく歩き続ける。
しばらく歩いていると、ぴしゃ、と足元から水の音がした。何時の間にか、何処かの湖に来ていたようだ。何かを囁く声、嘆く声、啜り哭く音が聞こえる。
『なんだ、此処は』
呟くと、湖の黒い水が、畝りながら近づいてくる。まるで、『一緒に悲しもう』『悲しいね』と言いたげだ。
『そういう感情』が1番嫌いだ。
分かった風に近付いて、表面だけをさらっていくようなそんな感情が。それに、ワタシにはお前達の哀しみなんて、どうでもいい。
ワタシは、主人の、悲しみや喜び、嬉しさ、怖さだけでよかったのに。縫いぐるみのワタシなんかに、涙なんて出てこない。
ワタシも、涙が出るような生き物だったらよかったのに。主人が時折見せる青くて暗い感情が、割れたプラスチックの右眼から零れ落ちた。
×
『へえ。珍しいモノが居るね』
『っ?!』
軽薄な声が、唐突に背後から聞こえた。それと同時に、凄まじい質量を持った存在感が背後に現れる。
『なんだ、お前は』
地面に立つそれは人の姿をしていたが、人ではない何かだった。人の真似をした、力の塊のようなもの。
『自身を構成していない感情を出すバケモノなんて、初めて見た』
ワタシの問いには答えずに、それは呟く。人間が『考えている時にするような動作』を行いながら。見つめる視線が、ワタシの身体を調べるかのように突き刺さる。
『何の話だ。それに、ワタシはバケモノなんかじゃない』
『おや、“別のやつからの生まれ直し“…か』
じぃっとワタシを見つめるそれは、会話をしているようで、ワタシの話を聞いていないようだった。今発した言葉も、ワタシの言葉を聞いて出したというよりも、ワタシの中身を見抜いて出したようなものだ。
『最近生まれたばかりか……でも、感情が本体に馴染みすぎている……面白いバケモノだねぇ』
ワタシの様子と、自身の思考だけで今を完結させている。ワタシだけが世界から省かれたような、よくわからない不気味さを感じた。その時、じわりと赤黒い感情が溜まっていく感覚があった。
『だから、ワタシは“バケモノ”なんかじゃない!』
その溜まった力を言葉と共に、目の前のそれにぶつける。すると、周囲の空気が強風となって目の前のそれに叩きつけられた。その衝撃で、周囲の周囲の石や岩が砕け吹き飛ばされ、湖の水がワタシから距離を取る。
『……自覚が無いってのも困ったものだね』
だというのに、目の前のそれは何も感じていない様子で乱れた箇所を直しただけだった。そして、『人間が呆れた時にするような動作』をし、それは見て欲しい方向を指すように、尖った指先で下を指した。
『下をご覧』
『なっ、ぐえっ?!』
無駄に威圧のある声だと思った瞬間、頭が無理矢理下を向いた。
『……な、』
無理矢理向かされて千切れそうになった首の痛みよりも、水面に写るそれに、言葉を失ってしまった。
湖に映るワタシは、小さなぬいぐるみなんかじゃ無く、大きな黒い獣だった。