9.魔女と皇太子
ヴァルナ皇国の第一皇位継承権を持つ皇嗣オルセー・デューク・ヴァルナが留学先より帰国してきた日、民は盛大にオルセーを歓迎した。
太陽の如く輝く未来ある皇太子。第一皇位継承権を持つ者しか名乗れぬデュークの称号を持つ皇子は、聡明で血筋も由緒正しく民からの信頼も厚い。
誰もが、彼が皇帝になってくれればと願わずにはいられない。
まだ十六歳と若くはあるが、彼の父は大陸随一の剣士としての腕前を持ち、母は賢者と呼ばれるほどの知識で官吏として国に仕えていた。前皇帝と従姉妹であった彼の母は、前皇帝が亡き後もジルに仕えている数少ない臣下でもあった。
聡明であった彼の母は、血生臭くはあるものの悪政ではないジルに信頼を置き、民のためになる限り裏切る事はないと皇帝に伝えていた。
そして、嫡子のいないジルにとっても皇位継承すべき者としてオルセーを頼っていた。
当時七歳であったオルセーは、血に塗れた皇帝が恐ろしくはあった。しかし皇帝と接する間に打ち解け、今では深い信頼関係ある間柄となっている。
オルセーが帰国する日、ジルはクリスティーヌを連れて城門前まで迎えに行った。
日の強い気候であったため、日除けのために麻布のローブを羽織るクリスティーヌは何処か緊張した様子だった。
歳はジルよりも若いオルセーの噂は、侍女長や家庭教師からも聞いていた。皇帝の話を聞くと引きつる彼らの表情も、オルセーの話をすれば自然と嬉しそうなのだ。
それはジルも例外ではなく、滅多に人を褒めるような皇帝ではないが、オルセーの話をする時だけは穏やかな表情を浮かなべながら賢い再従兄弟だと褒めていた。
それだけの賢人とも言えるオルセーがどのような人物なのかクリスティーヌは期待と緊張を抱いて待っていた。
暫くすると馬車が何台か城門に向かってきた。馬車に飾られる旗はヴァルナの紋章。オルセーが乗る馬車である。
数台の馬車が同時に停まり、馬車から先に降りた兵士が周囲を囲う。ひときわ頑丈に作られた馬車の入り口に兵が立ち、扉を開く。
中から出てきた青年は、ジルと同じ黒い髪だった。身長は高いが細身の体格に見えるのは普段クリスティーヌが長身であるジルを見慣れているからだろうか。
顔を上げた青年の瞳の色は鮮やかな青。空色のように澄んだ瞳は、人を惹きつけるには十分だった。
整った顔立ちに白い肌。女神にも愛されそうな美しさを兼ね揃えている。
彼がオルセーなのか、とクリスティーヌは暫く見つめていた。オルセーは、降りてすぐジルを見つけると顔を綻ばせて駆け寄ってきた。
「ジル様! わざわざ来て下さったのですか!」
「久しいなオルセー」
「はい! ジル様も変わらないご様子、ご無事で良かったです。長らく不在にしておりましたこと申し訳ございません」
「よい。そなたが元気そうで良かった」
会話を弾ませる二人の様子は歳の離れた兄弟のように仲睦まじかった。クリスティーヌは、ジルがそこまで仲の良い様子を見せる姿を見たことがないため新鮮だった。
「紹介が遅れたが彼女はクリスティーヌ。私の妃となる者だ」
肩に触れる皇帝がオルセーに紹介してくれる。クリスティーヌは改めて頭を下げて挨拶をした。
「クリスティーヌです」
「小さき婚約者殿。噂を聞いております。オルセー・デューク・ヴァルナです。どうぞよろしく」
穏やかな声色で挨拶を返されたことに安堵し、クリスティーヌは顔を上げたが、固まった。
クリスティーヌを見つめるアルセーの空色の瞳がひどく冷たく彼女を見下ろしていたからだ。
敵視する視線には見慣れている。オルセーが穏やかな挨拶とは裏腹に、彼の視線はクリスティーヌを警戒していた。
何故だろう。オルセーとは初対面であり心象を悪くさせる素振りを見せたつもりは無かったが。
だとすれば、クリスティーヌが魔女であるからか、それとも歳が離れすぎているからか。
どちらにも見覚えのある事であるためにクリスティーヌは納得してオルセーを見つめ直した。こちらに敵意は無いことを伝えるため、いつも以上に穏やかな表情を浮かべて見つめ返した。
「積もる話もあるだろう。オルセー、時間はあるか?」
「勿論です」
クリスティーヌから視線を外したオルセーの声色は明るい。
失礼ながらその光景を見て。主人に懐く飼い犬の姿が目に浮かんだ。勿論、言葉にして伝えることは無い感想である。
オルセーが帰国してから五日ほど経った。
その間、変わらず家庭教師に勉学を学び、合間に結婚式の準備を進めるクリスティーヌは、帰国した日に会って以来顔を合わせていないオルセーの事を思い出していた。
同じ城に滞在しているというオルセーと城の中で会うことがない。聞けば、ジルの仕事を勉強も兼ねてついてきているらしい。そのためジルは毎日会っており、ジルと会えばオルセーの話題が出てくることもある。
意図的に距離を置かれているのだろうという気はしている。露骨な態度や言葉でクリスティーヌを非難することは無いが、一切の関わりを持たないという意思が感じ取られた。
なので、クリスティーヌも敢えてオルセーと距離を近づけようなどとは思っていなかった。そもそも、対人関係など皆無に等しいクリスティーヌには何をすれば関係が良好になるかなど分かるはずもない。
そんな風に考えてから更に五日ほど経過した。
そろそろ夏の準備に取り掛からなければならない時期にもなった。その日、クリスティーヌは家庭教師に教わりながら、皇城での執務に関して相談をしていた。
「ヴァルナ皇国は北に面した国のため、夏はそこまで猛暑となるわけではありません。ただ、寒暖の差が激しいため人も家畜も体調不良になることが多いのです」
「そこまで違うのですか」
「この国は山間にありますからね。早朝と日中ではだいぶ異なりますよ。よろしければ早朝に散歩されるとよろしいでしょう。太陽の恩恵を受ける前のヴァルナは常に肌寒い気候で、日中と全く姿が違いますから」
考えればクリスティーヌは魔術師の塔にいる時から夜型の生活をしていた。日中は日がすっかり登り切った時間、就寝は深夜に近い時間だった。
その生活サイクルを伝えると侍女長に忠告されるためあまり公にしていない。侍女長曰く、まだ十二歳なのだから睡眠は余分にでも取るべきだという。
何より、背を伸ばしたいクリスティーヌならばもっと睡眠を取るように、と。
けれどクリスティーヌには夜更かしを止められない理由がある。その一つが、ジルと会える時間が夜にしかゆっくり取れないからだった。
翌朝。早速クリスティーヌはいつもより早く起きた朝に庭園を散策することにした。
眠い頭をどうにか奮い立たせ、一人で服を着替えそっと部屋を出た。見張りの兵には軽く散歩する旨だけ伝える。少し慌てた様子だったが、すぐに戻る旨を伝えさっさと庭園に向かう。
まだ太陽も顔を覗かせたばかりで、世界は浅黄色 に染まっていた。空では鳥が歌い、人気の少ない世界は普段とは違う顔を覗かせていた。
確かに肌寒い。厚手のショールを身に纏いながら、クリスティーヌは誰も居ないような空間を満喫した。
無人と思いきやしっかりと衛兵が見張りをしており、クリスティーヌの姿を見かけると一瞬驚きながらも冷静に敬礼をする。
はあ、と息を吐く。流石に吐く息が白くはならなかったが、空気は冷たく寝起きのクリスティーヌを目覚めさせるには十分だった。
こうして、一人きりで外に出ることは魔術師の塔に居た頃のようで懐かしかった。今では出かけるにも誰かしら必ず側にいる。随分と塔に居た頃よりも立場が変わってしまったようだ。
ふと、人の気配を感じたため視線をそちらに向けた。丁度同じく庭園に訪れてきたらしい相手と目が合い、二人して目を瞠る。
そこにはオルセーがいた。
「驚きました。どうしてこのような早い時間にいらしてるのですか」
こうしてクリスティーヌに向けてオルセーから話しかけることは、考えれば挨拶以来初めてではないだろうか。
「早朝に散歩してみるのも良いと、家庭教師に教えてもらったのです。気候の違いを肌で感じるのも良いと」
「そういうことですか。そうですね、ヴァルナの朝はとても寒い。今はまだ羽織れば出歩いても気になりませんが、秋から冬にかけてはまるで違う。凍てつくような寒さが襲ってきます。日が落ちるのも早くなります。夏はその分夕刻過ぎても日が落ちにくい。そういった国ですよ。ヴァルナは」
普段は距離を置かれていたというのに、今のオルセーは口が滑らかだった。それもヴァルナ皇国を語るが故か。彼は心からヴァルナを愛していた。
「丁度良い機会です。貴方と二人で話をしたいとも思っていたのです。普段は、皇帝がいらっしゃることもありますし人の目もあるから二人きりにもなれない」
「…………」
未婚の男女が二人きりで会うのは醜聞が悪く、あらぬ噂を生み出しかねない。そう、家庭教師からも礼儀作法の中で学んだ。男女が会話をする場合、第三者を側に置くべきであると。
オルセーもクリスティーヌが単身で庭園に来たとは思っていない。彼女は気付かないかもしれないが、しっかりと皇帝が付けた護衛が見えないところに潜んでいることは分かっている。だが、噂を囃し立てるような駒鳥がいるわけでもない今ならば、彼女と二人で話していても支障は無いと判断した。
「私は、貴方が皇帝の妻となることに納得しておりません。ですがそれが、貴方が魔女だからとか年齢の差を理由にしたものでは無いことだけは伝えておきたかったのです」
「……? どういうことでしょう」
クリスティーヌは素直に疑問を抱いた。
皇帝に相応しくないと思う視線は幾つも受けてきた。諸侯らから、あるいは兵から、数ある成人した美しい女性から。不相応だという視線もあれば哀れだと同情する視線もあった。あるいは魔女という存在を畏怖する視線も受けてきた。理由全てに思い当たることがあっただけに、オルセーの告げる言葉の意味が分からなかった。
魔女だから、幼いから、死神の妻になるのは可哀想だから。
その理由以外に何があるのだろう。
「貴方の意思が無いからです」
オルセーは迷いなく告げた。
「魔術師の塔の前長老と皇帝が取り決めた約束があるからヴァルナに嫁に来たと聞きしました。そこに貴方の意思は無い。皇帝の妻になりたいとも、なりたくないとも。ただ約束だから嫁いだだけ。それでは駄目なのです」
「何が……駄目なのでしょうか」
クリスティーヌは焦っていた。急に突き放されるような気持ちが彼女を襲う。
問うているのは自分だというのに、これ以上聞くことが怖い。
「分かりませんか?」
オルセーの瞳は冷たい。青空のように澄んだ瞳は、まるで氷のように冷たかった。
その冷たさは、まるでジルにも通じるものがあり。彼との繋がりが見えた。
彼は、確固たる意思を持ってジルを尊敬している。だからこそ、クリスティーヌを認められないのだ。
「人形のような皇妃は必要無いと、言っているのですよ」
クリスティーヌは。
哀れにも意志を持たない人形なのだから。
それを自覚した途端。
クリスティーヌは足元が闇に覆われたような気がした。
太陽は朝を告げる光を差しているというのに。
クリスティーヌの心は晴れず、オルセーが立ち去った後も尚、その場に立ち尽くしていた。




