6.死神皇帝と籠の中の鳥
「その傷はどうした」
食事の時間に見かけた掌の包帯を見て、ジルがクリスティーヌに聞いた。
ジルが指摘した傷は、クリスティーヌがミルラに友人を見せるため、ニンフを召喚する時に負った傷だった。
その説明をしようと、視線を皇帝に向ければ視線がぶつかりあった。皇帝の金色の瞳が真っ直ぐにクリスティーヌを捕らえていた。
あまりにも深刻に皇帝から視線を送られていたため、クリスティーヌはあり得ないほどに緊張した。自分と同じ金色の瞳だというのに。どうしてこんなにも見つめられるだけで身体が緊張し心臓が騒ぐのだろうか。
「昼に召喚術を行いました。その時つけた傷です」
「ああ。贄が必要だったのか」
先日、悪魔を召喚した時の説明を覚えていたらしい皇帝は納得した後、僅かに視線を従者へと向ける。
すると無言で近づいてきた彼の乳兄弟であるベティが彼の耳元で話しかける。幾ばくか緊張する時間を得た後、ベティが側から離れた。
皇帝の涼しげな瞳が改めてクリスティーヌを見た。
「召喚の贄は供物に魔力を込めれば済むのであろう?」
「はい」
「ならば次からは私を使うがいい。そなたの身体が傷つくのは見たくない」
包帯が巻かれた小さな掌に長く、クリスティーヌよりもひと回りは大きな指が触れた。傷がついた箇所を触れぬよう手で優しく包み込んだ。
「そなたは自身を軽んじすぎる。もうそなただけの身体ではない。皇帝の妻となる身であることを忘れるな」
「は……はい……」
「ん。良い返事だ」
手の甲をそっと触れた後、啄むように唇を押し当てた皇帝の態度は明らかに十二歳の少女に向けたものではない。婚約者である女性としてクリスティーヌをしっかり見てめていた。
クリスティーヌは、予想にもしていなかった皇帝の行動に翻弄され、触れる手を引き離すことも出来ずに掴まれたまま、ジルの温もりを永遠にも感じるような長い時間を過ごした。
十二歳のお子様には正直言って刺激が過ぎる態度だった。大人でさえあのような態度を見せられれば動揺が抑えられないだろうことを、容易くも少女に行う皇帝の真意が周囲の臣下には分からなかった。
ただ、余りにも度が過ぎる行為は控えるべきだと進言してもらいたい。
そんな願いを込めた視線がベティに投げかけられるが。
彼は目を閉じて視線を受け流していた。
食事を終えて、就寝時間になる頃。
皇帝はクリスティーヌの部屋を訪れることにした。
婚前の婚約者に会いに行くには時間も遅い為、一人で訪れることはならないとベティを共に付けた。
皇帝自身、就寝するのはもう暫く後ではあった。彼の睡眠時間は驚く程短い。しかし寝不足である様子を見た事もない。
「クリスティーヌ。少しいいか?」
皇妃の間の前で声をかける。返事は無い。
就寝時間になれば侍女長が声を掛け、婚約者が眠りに入った旨を皇帝に報告させるようにしていた。まだその報告を受けていないためクリスティーヌは起きている筈だった。
しかしいくら待っても戻ってこない返答に痺れを切らし、ジルは返答が来るより前に扉を開けた。
部屋の中は明るい。目的の人物はすぐに見つかった。大きな机に突っ伏してうたた寝をしていたからだ。子供の身体では大きい椅子にクッションを余分に敷き、机の上には幾多の書面と魔法陣が描かれていた。
クリスティーヌは、手に羽根ペンを持ったまま机に突っ伏して眠っていた。皇帝は様子を伺うと無言で部屋に入り、眠る彼女の側に寄った。普段は表情が変わらず淡々と語る少女も、眠れば年相応に幼く見えた。しかし側に散らばる書類を見れば、屈指の学者も顔負けの古代言語を用いた論文が書かれていた。
手に持った書面の内容を読んでから皇帝は婚約者である魔女を見下ろした。机には他にも魔術師の塔から持ってきた書物が散らばっている。
クリスティーヌはひたすらに何かを研究していた。その理由を皇帝は書物に書かれた内容から理解した。
「難儀だな、そなたは」
眠る少女の頬に掛かる髪を指で掬い、無骨な指で頭を撫でる。こうして寝ていれば年相応に見えるというのに、常に彼女からは子供らしさを一切見せることが無かった。恐らく魔術師の塔でも同様であったのだろう。
魔術師の塔で最も高い魔力を誇っていた彼女は、生まれてすぐに次期長老となる立場を約束されていた。年頃の子供が遊興に夢中であった頃、彼女はひたすらに魔術を覚え、古代文字を学び、大人のように学術を教え込まれていた。
ジルにはクリスティーヌが幼い頃に受けたであろう大人からの重圧が痛いほど理解出来た。ジルもまた同様に周囲の大人から皇帝の立場を得るよう掛けられてきた重圧を知っているからだ。
ジルは婚外子であり異母兄が居た。異母兄は皇帝と皇妃の正式な嫡男であり、次期皇帝として皆に傅かれながら育ってきていた。片やジルは秘密裏に皇帝にさせるべく教育させられてきた。ジルの父であった前皇帝をうまく言葉を拐かし、ジルを引き取った一族は野心深い一族であった。
ジルを次期皇帝の保険として育て上げる名目で養子にしながらも、いずれは前皇帝と異母兄を蹴落とし、自身の手駒とするジルを皇帝に仕立て上げようとしていたのだから。
ジルは養子となった家で厳しい躾を受けた。皇帝としての教育といいながら鞭打たれることもあった。
その頃に関して良い記憶も無く、残ったものは尋常ならざる知識量。皇帝として必要とする帝王学や経済学だろう。
ジルを養子とした一族の最大の誤算は、知識を深く得たジルが、育ての親が皇国にとって害なす物だと判断したことにより、後に皇帝となったジルに真っ先に処刑された事だろう。
一切の慈悲も無く養父母の首をはね、実の父の首をはねた日から、ジルは死神皇帝と呼ばれた。
皇国内を一時鮮血に染め上げ、恐怖に落とし込んだジルには相応しい渾名であると、本人は気に入っている。
その死神に供物として遣わされた幼い魔女。
ジルは、眠りに落ちてから目覚める気配のない婚約者の身体をそっと抱き上げた。
横抱きにすれば、その身体の軽さに驚いた。人形のように精巧な顔立ち。あと数年もすれば誰もが目を見張る美しい女性となるだろう。
「身体を労れ。そなたは優しすぎる」
ジルには幼い魔女が何を成し遂げようとしているのかを理解している。幼い身体と心の持ち主が抱くにはあまりに大きすぎる。
死神に生贄にされた幼い少女。ジルの婚約者。
ジルは、感情を見せないながらも真っ直ぐに進む婚約者が愛しかった。野心と恐怖しか周囲に存在しない皇帝にとって、クリスティーヌは唯一の希望に見えた。
まだ出会って数日にしか経っていないというのに、ジルにとってクリスティーヌは愛しい存在。守りたい女性でしかない。
「悪いが、暫くは私の籠の鳥でいてくれ。私の魔女よ」
籠に閉じ込めるには世界が狭すぎる。いずれは高らかに飛び立つ日が訪れてもジルには構わなかった。
ジルと同じように苦境を生きながらも、真っ直ぐに目的に向かい歩む婚約者を眺められる時間があるのなら。
それは血に塗れた死神にとっての唯一の愛しき、束の間の休息であったから。
寝台に起こさぬよう優しく寝かし、柔らかな毛布を彼女にかける姿を一部始終眺めていたベティは、ここにきて漸く声を発した。
「貴方はクリスティーヌ様をどうなさるつもりなのですか」
二人きりの場でしか聞けないことだった。
ベティには、乳兄弟が本当に魔女を皇妃にするとは思えなかった。彼は始終一貫して妻を娶らないと言い張っていた。次期皇帝となる嫡子が必要だと進言する臣下を鋭い視線で黙らせ、今では暗黙のルールとなっているほどに、結婚や嫡子の話は触れられてこなかった。
そこに来てこの幼き婚約者の存在である。周囲は騒然となった。魔女で少女というあり得ない人選ではあったが、不在の皇妃が続くよりマシであると臣下は喜んでいた。
しかしベティは皇帝の思惑が別にあると感じた。だからこそ、この場で問いたかった。
「本気で皇妃に迎え入れられるのですか?」
「…………」
寝台の横に座り、今も尚婚約者の寝顔を眺めていた皇帝は、最後の別れと言うようにクリスティーヌの額に口付けのまじないを与えた。悪夢から身を守るために母親が捧げる小さなおまじない。ベティの母が幼い頃のジルとベティに良く与えていた小さな魔法。
「クリスティーヌを地獄へ道連れにするつもりはない。彼女には陽の当たる未来が似合う」
起こさぬよう寝台から立ち上がり、皇帝は側近と共に皇妃の間を後にした。
部屋の明かりが消え、静かに扉が閉まる音がした。
暫くして、扉の先から足音が消えたことを確認してから、魔女の瞳が開いた。
その金色の瞳は微かに潤んでいた。
彼女には陽の当たる未来が似合う。
そう、告げた皇帝の考える未来に、ジルとクリスティーヌは隣に並んでいない。
確固とした皇帝の意思を盗み聞きしてしまったことに、そしてその会話に傷ついている自身がいることに。
幼い魔女の頬に、一筋の涙が溢れ落ちた。
「地獄に落ちるというのなら、私だって同じなのに」
クリスティーヌには、自分が皇帝の思うような陽の当たる未来が似合うとは思っていなかった。
魔女と忌み嫌われ、魔術師の塔でも決して居心地が良いとは言えない生活を送ってきた。娯楽など何一つ存在しない。
ただ彼女を慰めてくれるものは、契約し召喚して呼び出せる精霊達。彼らだけがクリスティーヌをただの少女として見てくれた。魔女である事に恐怖もしない、数少ない存在。
けれどクリスティーヌは魔術師の塔を出てから初めて出会ったのだ。
私という存在を全て受けいれ忌避しない人間を。
魔術師の塔の内部ですら、魔力が多いクリスティーヌを怖がる者がいたというのに。
死神皇帝は、魔女でありながらも幼いクリスティーヌを婚約者と呼んでくれた。一人の女性として扱ってくれた。
それが、十二年間生きてきた中で初めてのことだったなんて誰が知るだろうか。
「私がもっと大人だったら。ジルは私を皇妃にしてくれるのかな……」
それは。
クリスティーヌが初めてとも言える、子供らしい我が儘とは言えない、可愛らしい我が儘だった。