4.死神皇帝の乳兄弟
皇帝ジルには乳兄弟がいる。
名をベティ。身分としては死神皇帝の側近である。元より身分無き平民であるため、国務には一切の関与を行わないが、皇城で彼を知らぬ者は存在しない。
ジルは、皇帝が街で見かけた平民の女を気に入ったことが切っ掛けで産まれた婚外子である。皇帝が望んで産まれたわけでもなければ、ましてや元々婚約者がいた平民の女が望むべくして産んだわけでもない。
ジルの母は、ジルを産むと同時に亡くなった。理由は彼の瞳の色から理解された。魔力が高すぎる赤児を出産する場合、母親が死亡する確率が異常に高いからだ。
出産という、赤児が母胎から離れることは母子共に命に関わる事であり、その本能による自己防衛で魔力を纏うという説が有力であったが、今でも原因は分かっていない。
そのため、魔力が高い子供は親が居ない事も多く、更には親殺しと言われ忌み嫌われる存在だった。
その不幸を無くすため、中立の機関として魔術師の塔が存在した。魔力が高く産まれた赤児を引き取っているのだ。クリスティーヌも例外では無く、産まれたと同時期に魔術師の塔に預けられた子供であった。
ジルもまた、高い魔力から魔術師の塔に預けられる筈であった。しかし、ジルの出自が出自であったため、皇帝は魔術師の塔にジルを預けることを断った。
魔力は、魔力が高くとも操ることが出来なければ無力であった。その場合、魔力の高い平民として生きていくだけだった。実際、魔力がそこまで高くなければ母子共に無事な状態で産まれることもある。特徴として表れる金色の瞳も魔力が弱ければ榛色、銅色、茶色などの混ざった色だったりもするため、民の中に紛れ、魔力を活用せずに人生が終わる者の方が多い。
魔力の保有に関しては魔術師の塔で研究されていたが、どういった因果関係により魔力の高い子供が生まれるのかは、未だ謎に包まれていた。
ジルは魔術師の塔への誘いがあったが皇帝により機会を失ったのだと、乳母より聞いていた。
婚外子であり、母を亡くしたジルを城に招くこともできない代わりに、破格な給金と共に乳母を雇い乳母の家で育てるよう命じた。それが、乳兄弟であるベティの母であった。
ジルは五歳になるまでベティと共に乳母の元で育っていた。乳母はジルが皇族だろうと構わず実の子供のように育ててくれた。平民のように遊び、近所の子供と走り回り、時には金色の目が原因でいじめられ、兄代わりであったベティに守られることもあった。
五歳を過ぎた時。皇帝の遠縁だという者にジルは引き取られた。それからベティは十五年の間、ジルとベティは時々手紙のやりとりを行う程度の関係であった。
しかし二十歳にしてジルが皇帝となった時、皇帝の側近として仕えないかと打診を受けた。
五歳まで共に過ごした乳兄弟。弟分であったジルの助けになるのなら。何より給金は破格なもので、平民では一生働いても得られないほどの額だった。
母も既に仕事を引退し隠居暮らし。せめて母の老後は贅沢に過ごしてもらいたい。若くして父である夫を亡くし、母一人でベティとジルを育ててくれた母を想い、ベティは皇城で働くことを決心した。
それが恐らく、彼の運が尽きた瞬間である。
出勤して、山のように積まれる陳情書を前にしてベティはどっと疲れがやってきた。まだ出勤してきたばかりだというのに。
ジルの側仕えであるベティの仕事は多くない筈だった。死神皇帝は従者も付けず、日常の世話を任せる侍女も付けていない。側近であるベティが時々手伝う程度で、大体は己で支度をするからだ。
そのため、長い髪も梳かすだけ梳かして適当に一つ結び。それも邪魔にならない程度に付けているだけ。服の支度もジルが行うが、予め服を彼の前に用意しておくことがベティの仕事だった。
何故なら彼の仕える死神皇帝は、彼にとって唯一とも言える趣味にふけるため、衣類を選ぶ時間を作ってくれないからだ。
今日もベティは陳情書を後回しにし、衣服を持って主の居る部屋へと移動した。
主は今、朝の入浴中だった。
一人用の大理石で作られた浴槽にだらしなく仰向けになった姿勢でいる皇帝の姿。入浴するためだけに特設された浴室では、湯気が室内に立ち込めて蒸し暑い。
濡れた長髪がパラパラと浴槽からはみ出ては、ポタリと床に水滴を落とす。
仰向けの寛いだ姿勢のまま、皇帝は一枚の書面を眺めていた。入浴という息抜きの時間ですら執務を行う異常さには、ベティも慣れた。
命じられなくともベティは見終えたであろう書面をジルから受け取った。濡れないよう少し離れた棚の上に紙を乗せた。
「今日から婚約者様のところに家庭教師が見えます。挨拶する時間ぐらいなら取れるでしょう」
「そうか」
「先日決議した事案に関して、財務担当の者から予算の相談を受けました。昨日のヴァンシャ地方で起きた戦争で軍費を使い過ぎているからこれ以上は調整をして欲しいと言っていましたよ」
「黙らせておけ」
皇帝は空いた手を使い長い前髪をかきあげた。長時間入浴していたらしく、身体が仄かに赤く、首筋から汗が伝う。
長時間湯に浸かったためか、そこら中の古傷が浮き出ている。彼は他人の血に染まるだけではなく、自身の血にも染まる生き方をしていた。身体中に刻まれる傷跡は、戦で出来た切り傷や矢傷以外では無かった。何かしらの拷問を受けたような古傷も見え隠れする。しかしジルからその事情に関して聞いたことは一切無い。
「敗戦国から賠償金を根こそぎ奪っておいて使いすぎとはよく言えるものだ。言ってくる者も大方想像がつくな」
「その想像、間違っていないと思いますよ」
皇帝は火照った身体を冷ますため、上半身を起こし浴槽の縁に腰掛けた。見計らうようにベティが手拭を渡す。ジルは受け取ると立ち上がり、浴槽から出た。
受け取った手拭で雑に身体を拭き取り、足首まで隠すローブを軽く羽織った。
浴槽から出て第一に手に取るものは剣だった。
剣をすぐに取れる位置へ移動させてからベティが持ってきた衣類を手に取る。
まずは湯冷ましするため軽装に着替え、濡れたままの髪をろくに拭かずに浴室を出る。
皇帝のように易々と入浴を行うことは難しい。水気を流しやすいように部屋の改築を行い、入浴をしたい場合、彼は浴槽に水を用意する事だけ周囲の従者やベティに命じる。
冷えた水を浴槽に貯めた後、希少な魔石を使い水を一瞬にして湯へと変えさせる。それが死神皇帝の入浴手段であった。
魔石は希少価値が高いため、一度使用するだけで結構な額を払うことになるが、入浴以外に趣味も無い死神皇帝を考えるに、毎日入っても余裕で許されるだろう。
「これからは婚約者のお嬢様にお湯を沸かして頂きますか?」
魔石を取り扱うのは魔術師の塔であった。壊滅状態となった魔術師の塔が再建されるまで、魔石も更に希少価値が増すだろう。
ベティにしか出来ないであろう軽口を告げる。冗談を告げても死神皇帝の態度は変わらない。
しかし、今日は少し異なった。
「つまらない用事で使うつもりはない」
未だ濡れた頬や髪から垂れる滴が余計に美しさを際立たせる皇帝の意外な回答にベティは顔を上げ、驚いて話を続けた。滅多に他人に対して配慮するような言葉を口にしない死神皇帝であっても、婚約者にして12歳という幼い少女には優しさを見せるのか。
乳兄弟の人らしい優しさを見れた気がして、ベティは喜んだ。
「それもそうですね。クリスティーヌ様は召使いじゃないんだし、そんなこと出来るわけが……」
「彼女を使うとしたら大浴場を建設する時だろう」
「は?」
背中が濡れるのを防ぐため、髪を普段よりも上げて一つに束ねる。それでもやはり滴は垂れているのだが、彼としてはこれから行う執務に影響さえ無ければ気にも留めない。
「以前言っていただろう。私一人だけ贅沢に浴槽があることが不満だと。ならば城内に大浴場を用意させようと思っていた。そうなると岩のサイズで魔石を用意しないとならない。見つからずに難航していたところだ。クリスティーヌの魔力であれば可能か聞こうと思っていた」
「本気……ですか?」
「今後は彼女が城内の管理を任される。家庭教師に会う前に相談してみるとするか」
召使いどころか、十分に魔女を使う気でいる皇帝に優しさを見出したのは何だったのか。
そして、だいぶ前に軽口で浴槽が羨ましいと、からかったことを後悔した。
ベティの机にまた陳情書が増える未来が浮かび、彼は深く落ち込んだ。
「魔石ですか? 構いませんよ、ジルが欲しければいくつでもお作りできます」
「それは助かる」
食卓の間は広く、席につくジルとクリスティーヌの席は隣ではあったが、距離にして三人分は離れていた。側には侍女長とベティが並ぶ。
食事の時間はなるべく共に過ごすジルとクリスティーヌは、どちらもお喋りな性格ではないため、静かな食卓であることが多かったが。今朝は大浴場の話が持ち出された。
そして、幼き魔女を労るどころか十分にその力を利用するのだというのに、クリスティーヌは眉ひとつ動かさずに頷いた。
ベティを鋭く睨む侍女長の視線が怖かった。こういった突飛な発言を皇帝が口にする時は、大体ベティが余計な事を言い出したことが切っ掛けだったりする。
皇国におけるベティの渾名は「死神皇帝の良心」と呼ばれていた。死神皇帝に対し唯一軽口が許される存在。陳情したい案件を直接皇帝にするには恐ろしくて実行に移せない者が、ベティを通して頼みに来る。
そのため、ベティのために用意された部屋には常に陳情書の山が出来る。届いた陳情書の中から、これならば聞き入れてくれるかもしれない、といった内容をいくつか選抜して皇帝に口伝えるだけの仕事だが、これがあまりにも数が膨大である上に精神的によろしくない。
ベティとて、死神皇帝が恐ろしくないわけではない。過ごした年月はたった五年。それから十五年以上も離れて過ごしてきた。もはや幼い頃に守っていた弟分の姿は何処にも無い。
それでも、ベティは死神皇帝であり弟分でもあったジルが自分にだけは少なからず皇帝の顔を見せない事を知っている。だから時々このように会話で戯れる。そして、後悔する。その繰り返しだった。
けれど、今はもう一つその存在が増えたようにも思っている。
幼い婚約者に向ける皇帝の視線は柔らかいと、一体何人の者が気付いているだろうか。
ベティは、自身の主君がクリスティーヌに見せる素顔が無表情で変わりないように見えながらも、大切そうに眺めていることを知っている。
五歳の頃、野原で見つけた野兎を見つめていた頃のジルと同じ眼差しで婚約者を見つめている。
婚約者は兎ではないが。
人を人として扱わないとさえ言われる死神が小さき命を愛でるというのなら。
喜ばしい以外の言葉は思いつかないだろう。
「ジルは入浴が好きなのですか」
小さき婚約者が意外そうにジルを見る。
ジルは薄く微笑みながら答えた。
「よく汚れるからな」
土で? 否、鮮血で。
勿論、今は食事中なので誰も口にしなかったが。
その場にいた全ての者は理解をしていた。