最終話.死神皇帝と12歳の魔女
天井高い皇城の中、覚束ない足取りで歩く幼児の姿が見える。
髪は黒色。瞳は琥珀の淡い色。あどけないながらも整った顔立ちから、将来は美丈夫となるだろうことが分かる幼児だった。
「皇子、エイダ皇子!」
遠くから悲鳴に近い叫び声が天井まで響いた。けれども幼児は気にせず前を進む。
今、この幼児ほど護衛をつけ、誰からも護られるべき存在であるはずだ。だというのに、一体何故なのかこの幼児はまるで気配を消すように姿を眩ませるのだ。
護衛が報告を行うために目を離した瞬間だったり、乳母が身支度を整えるために衣類を取り出している間だったり。それまで全く動く素振りもなく、彼の母親が時折見せる柔らかな笑顔のように愛嬌を振り撒いては周囲を虜にしている天使だというのに、そんな大人達を嘲笑うかのように目を離した途端、忽然と姿を消す。
まだ二歳の幼児だというのに、周囲を翻弄させる存在感はまさに両親譲りだった。
護衛が全速力でエイダに追いつくと傷付けぬよう優しく抱き上げた。
イヤイヤと抜け出そうとする皇子に、「勘弁してください」と泣き出しそうな声で護衛は抱きしめる。傷一つでも付けたら、己の命や職が危ぶまれる。それほどまでに尊い存在なのだ。
「エイダ」
皇子を呼び捨てする女性の声が聞こえると、小さき皇子は顔を満面の笑顔にして手を伸ばした。
「また周りを困らせてたのですね。困った子ね」
慌てた様子の護衛から自身の息子を引き取ったクリスティーヌは優しくエイダを抱き締めた。
周囲の使用人達が、皆頭を深く下げる。
ヴァルナ皇国が皇妃、クリスティーヌ・ヴァルナが穏やかに微笑んだ。
クリスティーヌが正式に皇妃となったのは一五歳の時だった。盛大に国をあげて祝宴をし、結婚記念日は国の記念日として刻まれた。
死神が魔女と婚姻を結んだことは他国にとっては恐怖でしか無いことだったが、皇妃のとある功績がその評判を一瞬で覆したのである。
皇妃の功績、それは魔力が高い赤児を出生する際に起きていた母胎への負担を軽減する方法だった。
クリスティーヌが発見するまで、魔力の高い赤児が生まれた場合、その魔力の高さによっては母親が亡くなるという悲しい事件が相次いでいた。
しかしクリスティーヌが長きに渡り研究した結果、妊婦の頃より妖精による加護を込めた魔法石を身に付けることにより、魔力を緩和することに成功した。
これは、召喚術を得意とする皇妃にしかできない技術だと分かると、民は賞賛した。
我が子を忌み嫌う家族も生まれた。愛すべき妻を亡くした夫もいた。愛したい子供が、魔力の高さ故に魔術師の塔に預けなければならなかった家族もいた。
また、魔力が高い子供はどの家族からも生まれる可能性が高いが故に、皇妃の話は皆が感謝をした。
魔女と悪態を吐く者は減った。
一部は聖女だと崇める者もいた。
そして、その功績が落ち着いた頃すぐに。
皇妃であるクリスティーヌが懐妊した。
民は祝い事の連続に総出で盛り上がったが。
皇城に住む臣下達は知っている。
この研究が完成するまで、お預けを食らっていた皇帝が、漸く念願叶ったということを。
「ジル、入りますよ」
皇室に用意された大浴場に声をかける。
中からは水音だけが響いている。
「クリスティーヌと、エイダもか」
「はい。また周りを困らせていたようです」
エイダは柔らかな母の胸から離れると、大浴場で入浴している父の元に走り出した。足元は水で濡れているため、すぐさま足を滑らせたが、幼児が地面に当たることはなかった。
入浴しながら指をくるくると動かすジルにより、エイダは宙に浮いたまま自身の父の元に辿り着いた。慣れた様子でもう一回と促す言葉をふにゃふにゃ言っている。
「うん。魔法は便利だな」
「すっかり慣れてしまいましたね」
クリスティーヌは苦笑した。
何年前だろうか。突然ジルが魔法を覚えたいと言ったのだ。
元々魔力をクリスティーヌと同等に持っているジルが魔法を覚えるのは早かった。知識量ではクリスティーヌが勝るが、もしジルが魔術師として育てられていれば、歴史に残る魔術師になっただろうと思うのは、決して欲目からの発言では無い。
「うん? エイダも自分でやりたいのか? それは難しいな」
父の真似をして指をくるくる回す息子にジルは僅かに頬を緩ませた。
彼らの息子であるエイダは一切魔力を持っていなかった。琥珀の瞳はジルの母譲りであった。顔立ちこそ夫妻に似ているが、魔力は似なかった。
「御前を失礼致します。エイダ様の勉強のお時間です」
大浴場にもう一人訪問者が来た。オルセーだった。
クリスティーヌが知り合った当初の頃は若々しい印象を持っていた彼だけれど、今はだいぶ大人びており、彼を見ているとクリスティーヌが出会った頃のジルを思い出す。
それをジルに言えば不満そうな顔をするため、クリスティーヌは顔に出さないようにしているが。
「勉強か。私には動物と戯れているようにしか見えないが」
「二歳のうちから馬に慣れて貰わないと、遠出も出来ませんから」
「お前も難儀だな」
クスクスと揶揄う様子でオルセーを眺めるジルの表情は悪戯に満ちている。しかしオルセーは気にもせずエイダを抱き締めた。エイダもオルセーには懐いているため喜んで抱き返す。
「それでは失礼します。どうぞ夫婦でごゆっくり」
「それはどうも」
わざとらしい言い回しにクリスティーヌは頬を染めた。
「ごゆっくりということだし、クリスティーヌも一緒に入るか?」
「…………遠慮致します」
「そうか。残念だ」
入浴しているジルの姿は上半身が裸であり、丹精な体型を目の当たりにして、クリスティーヌは未だに照れてしまう。
それを気にもしない皇帝は、自身の妻の手を引き寄せて、火照る唇を掌に押し付けた。
「では今日の夜の楽しみに取っておくよ」
「…………………っ!」
結婚して何年経とうとも。
クリスティーヌは自身の夫の色気に慣れないのであった。
「クリスティーヌ」
「…………」
かつては見上げることしか出来なかった夫を、今は少し見上げるだけの距離で見つめることが出来るようになった。
「せめて口付けをしても?」
「…………はい」
かつては頬に、額にしか与えられなかった口付けが、常に唇で触れ合うようになった。
「ああ。今日もそなたが愛しいな」
「…………ジルは今日も相変わらずです」
「そうか」
「ええ」
かつて出会った頃と変わらず、大切に扱われることを、今でも喜びに震える胸は、幼い少女だった頃よりも膨らみ、今では隣に立っても兄弟にも、親子にも間違えられない。
その事が、クリスティーヌには嬉しかった。
けれど、きっとどれだけ幼い時であろうとも。
これから歳を取り、夫が骨皮だけの醜いと呼ばれるような姿になろうとも。
変わらず愛する自信がクリスティーヌにはあった。
「家族が欲しいと思っていたのだから、もう二、三人作ろうか」
「…………ジル。今はまだ、お昼なのですよ」
「ふむ。このような話には時刻が関係していたか。覚えておく」
血濡れた死神皇帝が、幼き魔女クリスティーヌを妻に迎え入れる話は、時を得て物語が変貌を遂げ。
麗しき魔女クリスティーヌを、溺愛しながらも大陸を統治する皇帝の話として。
大陸総てに行き渡る逸話として知られることとなる。
最後までお付き合い頂きありがとうございました!




