16.死神皇帝の感情
何度となく打ち付けた頭部から出血が止まらない。
痛みを無視しながらゆっくりと壁に円を刻んだ。
簡単な魔法陣を刻み、依り代はその血を使う。
すると魔法陣が大きな光を生み出し、小さな悪魔が現れた。以前家庭教師を選ぶ際に召喚した悪魔は、慣れ親しんだクリスティーヌからの召喚に喜び傍に寄ってくる。
口を封じられていたため、うまく言葉に出来ないが、クリスティーヌの様子を察し、その鋭い爪で口元の布と手の拘束を解いてくれた。
「ありがとう」
痛みでふらつくため、軽い回復魔法を自身に唱える。血は止まり痛みでどうにかなりそうだった感覚は落ち着いた。それでも完全に回復したわけではないが、今はそれどころではない。
悪魔を肩に乗せたままクリスティーヌは扉の前に立ち、施錠された扉の先に見張りがいないか声を殺して確認する。
人の気配は無い。安堵して悪魔に扉の鍵を壊させる。
そうして足音を殺しながら閉じ込められていた部屋から抜け出した。
守られるだけなんて嫌だ。役立たずになんてなりたくない。
私がジルを守りたい。
その思いだけで、クリスティーヌは勇気をふり絞り、踏み入れたことの無い地を走り出した。
ザイド教国の国境沿いに建てられた古城まで呼び出されたジルは、堂々と正門から入ったため門番が驚いた様子で城内に知らせに行く姿を眺めていた。どうやらクリスティーヌの誘拐並びに皇帝への叛意を知る者は限られているらしい。
訪れたからには命を狙われることは必然であろうと思っていたが、そう易々と討たれるとも思っていない。
新皇帝となった際、常に命を狙われていたため、魔術師の塔の長より身辺を守る結界の魔石を受け取っていた。
害ある者が襲撃にくれば魔石によって防がれる。故にジルはクリスティーヌの安全が保障されるまで命を落とす事は無いと確信していた。
漸く事態を把握したらしい門番により、手を拘束される。縄で縛られ、無言で連行される。
道すがら周囲を見渡し、クリスティーヌが閉じ込められている場所は何処だろうかと考える。恐らく彼女はこの城の何処かにいるはずだ。
彼女の命と引き換えに自らの命を断てと命じるか。
それとも、彼女と共に死を命じるか。
後者であれば容赦なくジルは周囲の者を殺害しよう。方法はいくつか考えている。
だが、前者であれば。
クリスティーヌに刃を差し向け、彼女の命と引き換えに己に刃を突き刺せと命じられたのなら。
答えは是であろう。
そんな考えをしていることなど、誰が知るだろう。
表情も無く、ただ大人しく兵の後ろを歩む皇帝に、捕えているはずの兵ですら恐ろしさから身を震わせつつ、主の元へと進んでいった。
「クローディ様。お連れしました」
「入れ」
懐かしいとも思うクローディの声を聞きながら、ジルは前へと進んだ。
王室というにはかび臭い古い建物の中、クローディは剣を抜きつつジルの訪れを待っていた。
ジルを引き連れていた兵は、恐怖からすぐさま部屋を飛び出した。
「久しいなぁジル」
「ええ。お久しぶりですね」
「九年にもなるか。長いこと顔を見ていなかったが、随分と皇帝らしく見える」
まるで旧来の親族に会うような会話だった。彼らの背景を知らない者が見れば、他愛の無い会話だとでも思うだろう。
「生憎、貴方と雑談を交わすためにここに来たわけではありません。私の婚約者はどこに?」
「あの幼い魔女か。さあな、臣下に預けているので私は知らんなぁ」
ニヤリと笑うクローディの顔は、ジルが幼い頃によく見かけていた表情そのままだった。ジルを下賤の者だと罵り殴る時の表情。あの頃は幼く抵抗せず黙って受け止めていたが、今では身長も立場も兄を越えた。
それでもなお、この兄はジルを下にしか見ない。幼少の頃から、この兄に歯向かうことは無駄な労力でしかないことを知っているジルは、相手にせず会話を進めることにした。
下手に刺激して、クリスティーヌに害があってはならないのだから。
「婚約者と引き換えに私に何を望むのです?」
「フン。馴れ馴れしい奴め……まあいい。どうせあと僅かの命だろうからな」
懐に隠していた短剣を高らかに掲げると、その刃を真っ直ぐにジルへと投げつけた。
刃はジルの目と鼻の先で結界により塞がれ、カランと床に落ちた。
「やはり結界持ちか。煩わしい」
「当然です。それで、クリスティーヌは?」
動じることなくジルは一歩クローディに踏み寄った。
「まさかお前があの少女如きにそこまで追及してくるとは。余程魔術師の塔の長が惜しいらしい」
クリスティーヌが塔の次代の長であることを知るほどの情報力を、この兄が兼ね揃えていると思っていないジルは、恐らく兄がザイド教国からの情報を得ているのだろうと察した。かの国からしてみれば、クリスティーヌの存在は害悪でしかならない。だからこそクローディに手を貸したのだろう。
「ええ。彼女は大切な私の婚約者ですので」
「はっ、お似合いなことだ。あの少女はザイド教国に引き渡す予定だが……分かるだろう? 我が弟よ。お前の命と引き換えであれば、少女を逃がしてやる……といえばお前は乗るか?」
「愚かな選択ですクローディ兄上。そのような事をすれば、協力して下さるザイド教国は貴方を許しはしないでしょう」
「いいや? お前に相当の恨みを持っているようだぞ。魔女の命かお前の命。どちらを選ぶかと問えばお前の命を欲していたよ。さあ、どうかな」
「それこそ愚策。私の命を落とした後、クリスティーヌに害を与えないと、どう約束をしてくださると言うのです。こちらの条件も受け入れてくださらない限り、私の命を差し出すことは出来ません」
単純な話では済まされない。どちらの命をと問われれば迷いなくクリスティーヌを選択するが、その選択をした後に彼女の命を狙わない筈がない。
確実に彼女の命を救ってからではなければ何一つ行動をしないと意思を見せるれば、あまり似てもいない兄の顔が醜く歪んだ。
「お前は発言が許される立場ではない! 卑しい身分でありながら父を殺し、この私までも貶めた俗物めが! さっさとその命を差し出せ!」
「お断りします。彼女の命が保証されない限り私は命を差し出したりなどしない」
「こっの……! 誰か! 子供を連れてこい!」
怒りに顔を真っ赤にしたクローディが叫ぶ。
周囲に居た兵士が慌てた様子で動く。まるで統一が取れていない兵の様子を眺めながら、ようやくクリスティーヌに会えるのかと安堵する。
ジルは、まず第一にクリスティーヌの安否を知りたかった。怪我をしていないか、酷い目に遭っていないか。次に、彼女の身の安全を確保すべきと考える。
兄の暗殺も、自身の命の在り処もそれまで預ける思いだった。
しかし、暫くして戻ってきた兵の蒼白な顔を見て、その考えは一瞬で吹き飛んだ。
「申し上げます! 捕らえた少女が……消えました!」
その、ふざけた報告に対して真っ先に動いたのはジルだった。
「どういうことだ」
主人では無い捕らえられた状態である筈の男に圧され、兵は慌てて言葉を続ける。
「ほ、捕縛した部屋の鍵が内側から壊されておりました! 少女の姿が無いため逃亡したと思われますが、ただ、壁に血痕が残っておりました。行方を捜しておりますが、現在部屋の内部も調査しております」
血痕という言葉に、ジルは世界が一瞬暗闇に変わった。
部屋には彼女しかいかなかったという。つまり、残された血が、クリスティーヌから流されている可能性が高いということだ。
「な、なんだと……探せ!」
驚愕し、動揺を抑えきれないクローディが慌てて命じる。彼にしてみれば切り札がそのまま消え去ったと言える。どれだけ刃を向けても傷を与えられない弟に対して、唯一の切り札がクリスティーヌだと考えていた。更に、彼はザイド教国に借りを作っている状態だった。援助の代わりは弟か少女の命。その借りを返せない時、誰よりも命の危機に瀕するのは自身であることを知っている。
目の前で切り札を失った愚兄を流し見たジルは黙って部屋から出ようとするが、慌てた兵により出口を塞がれる。
「待て! 何処へ行く!」
「決まっている。我が婚約者を迎えに行く」
「い、行かせるわけないだろうが! 誰かこいつを牢に閉じ込めておけ!」
大声で喚く兄の声に、慌てて兵が動くが。
「私の行く手を妨げる者は命を落とす覚悟をもって向かうことだ」
一切の慈悲を持たない死神の言葉に、足を踏み留めた。
周囲に居た兵は、ジルから放たれる殺気と威圧に恐れた。目の前の男が言う通り、彼の前に立てば命が無いと本能が察する。手を拘束された男に何が出来るというのか。それなのに、身体は恐れて動かない。
「お前ら! さっさとしないか!」
怒りに震える主人の声に、一人の男が慌ててジルの前に出た。恐怖を打ち勝つ事を褒めるべきか、自ら命を落とす行為を嘲笑うべきか。
槍を手に前を塞いだ兵に対し、兵が動くよりも先に拘束されたままの腕で兵の顔を殴る。勢いよく殴られ身体が傾いた兵の手から離れた槍を、すぐさま脇で挟む。兵の足を引っ掛け転倒させた後、脇で支えていた槍を心臓に突き刺した。
刺された男から声にならない悲鳴があがる。刺し終えた後の槍を器用に持ち上げ、槍の切っ先を使い拘束していた縄を切り裂く。
足下から流れる血痕により床が赤く染まる。その床を何一つ動じることなくジルは歩き出した。
周囲に居た兵は、二の舞になりたくないと一斉にジルから離れた。主の命よりも命が大事だと悟ったからだ。
「ま……待て……!」
よろめくクローディはジルに向かおうとするが、今目の前で起きた惨劇を前にして、初めて弟が恐ろしいと思い近寄れなかった。
「兄上の相手は、私の婚約者を見つけてからです」
淡々と答えたジルは、兄の呼び止める声を無視して扉を出た。
ジルは、急ぎ城の中を進みながらクリスティーヌが何処にいるかを考える。
何故血が遺されていたのか。捕らえられた彼女ならどうするか。
冷静に行き先を考えたい。けれどもそれ以上に不安がジルを襲う。
もしクリスティーヌに何かあったら。
彼女の命が消えようとしているのなら。
身体中の血が凍るような感覚。
これが恐怖という感覚か。
ジルは、まるで感じたことのない感情に場違いにも感動を覚えた。
幾多の命を奪い奪われたが、今のような感情を抱いたことは一度も無かった。
誰かの命が消えようとすることに、これほど恐ろしいと思ったことは無い。
自らの命が絶たれようとも、きっとこんなに恐れはしない。
クリスティーヌだから。
あの幼くも優しい少女の命だから、恐ろしいのだ。
いつもジルを真っ直ぐに見つめる金色の瞳。
大人びていながら子供らしい姿を見せる少女。
遥か昔に交わした幼い約束。
婚約者らしく在りたいと傍にいてくれるクリスティーヌ。
「ああ……これが、そうなのか」
ジルは初めて、この感情が何なのかを理解した。
これが愛なのか、と。




