13.魔女の日常が壊れる時
日常は、あっけないほどに壊れやすいと知っていたのに。
どうして今まで忘れていたのだろう。
ヴァルナ皇国にクリスティーヌが暮らしてから三ヶ月が経った。長いようで短い間、家庭教師から多くを学んだクリスティーヌだったが、結婚式まで残り数ヶ月となったところで、今では結婚式に関する準備に追われている。
結婚式と言えば一言で終わるが、それ以外にも披露宴、各諸国からの祝言の面会や国を治めた歴代の王が眠る霊廟への礼拝まで綿密にスケジュールが決められている。その一つ一つに作法や覚えることがありすぎて、数ヶ月では足りないぐらいだった。
今日もクリスティーヌは侍女長に連れられ、国民に向ける祝いの言葉を練習していた。ゆっくりと声を張る。挨拶を行う場所の確認、移動の順番。
一通り終えてようやく昼食を取る時間になった。
「今日は外で召し上がりますか?」
最近皇城内に缶詰め状態であるクリスティーヌを想ってか、嬉しい提案をしてくれた。喜んでクリスティーヌは頷いた。
クリスティーヌが気に入っている庭園にテーブルが用意され、ハムと卵をはさんだパンとサラダにスープ、それに少しの果物が用意された。
昼に沢山食べるとその後身体が重くて辛い事が多いクリスティーヌのためにわざわざ用意された昼食は、食事の量を覚えた侍女長により細かくコックに指示されている。
今日も頬が落ちるほどに美味しい食事を頬張る。
その時、城内から騒ぎが聞こえてきた。誰かが焦ったような声をあげている。
「何事でしょう」
侍女長が気にして騒ぎの聞こえる方へ向かう。クリスティーヌの傍には護衛が数名近づき、盾となる。クリスティーヌも食べていたパンを皿の上に置き、席から立ち上がった。
クリスティーヌも何事が起きたのか早く知りたかったが、理性を欠いて騒ぎの元に行くわけにもいかない。大人しく侍女長が戻ることを待つが、それでも気持ちが急いて落ち着かない。
しばらく待つと、急ぎ足に侍女長が戻ってきた。
「郊外で大きな火事だそうです」
思わずクリスティーヌは空を見上げるが、ここから郊外の建物は遠く、煙は全く見えない。
城下町で火事が発生した場合、井戸や水場から水を使い消す。更には周囲に飛び火しないよう、特別な素材で仕上げられた防火布を周囲に覆うようにしている。しかし火事の範囲が広いと布の量も足らず、とにかく避難を優先する事となる。
被害が酷いようであれば、最悪郊外だけではなく城下町にまで来る可能性もある。更には離れているとはいえ、風向きによっては水源をも巻き込む事を考えなければならない。
「私が火を消しに行きます」
クリスティーヌは侍女長に伝えるが、彼女は渋い顔をして首を横に振った。
「クリスティーヌ様を危険な目に遭わすわけには参りません」
「ですが、今この国で消火できる力を持つ者は私ぐらいでしょう。魔術師の塔は未だ再開の予定も立っていません」
そう。大規模な火災が発生した場合、どの国であろうとも魔術師の塔に要請が届き、氷や水の魔術によって消火することもあった。クリスティーヌも過去に何度か手伝った事がある。例えば山火事など、人の手に届かないような大災害が起きた時などがそうだ。
しかし魔術師の塔は壊滅し、存在した魔術師の数も大きく減った。クリスティーヌ以外にも生き残った魔術師はいるが、今は身の安全を守るためそれぞれが縁のある国に戻されている。やがて再建した際には戻るか、又はそのまま元の国に居続けることも機会として与えられている。それだけ魔術師の塔の存在が無くなるということが、世界に渡り害が大きいのだ。
「お願いです。私に行かせてください。護衛の方にも付いてきて頂きますから。このまま見過ごしては、私がヴァルナ皇国の皇妃となる存在意義すら無くなりそうです」
何のメリットがあってヴァルナという大国の皇妃になるのかと問えば、それはクリスティーヌの底知れぬ魔力があるからだ。魔術師の塔が無い今、権力を最も持つヴァルナ皇国に魔女がいることが、どれほど政治的にも大きい役目を持つかをクリスティーヌは知っていた。
「ですが……」
それでも渋る侍女長を納得させることは出来ないだろう。
仕方ないと、クリスティーヌは召喚術を唱えた。自身と契約をした魔獣であれば何の代償もなく召喚することが出来る。
魔法陣から大きな翼を持つグリフォンが飛び出した。鋭い嘴から零れる唸り声に周囲の使用人達は悲鳴をあげた。
固いグリフォンの毛を撫でながらクリスティーヌは器用にグリフォンの背に乗った。ヴァルナ皇国に来るまで、彼女にとって移動手段はこのグリフォンだった。
「火を消したらすぐに戻ります。護衛の方も乗りますか?」
護衛の男達が動揺し躊躇する。無理に乗せても危険だろう。
「では馬で火の元まで来て下さい。私は空から向かいます」
言うやいなやクリスティーヌを乗せたグリフォンが大きく羽ばたき、空に向かって飛び立った。
クリスティーヌの名を呼ぶ護衛や侍女長の声は、あっという間に聞こえなくなった。
空から城下町を見下ろし、すぐに火と煙が目に見えた。確かに城下町から離れた郊外、特に身分が高い者達が住む屋敷が多い場所から火災が始まったらしい。
周囲に住んでいた者達が散り散りに走り逃げている。国の警備兵が消火活動をしているが、火は全く怯むことなく更に火の勢いが増していく。
グリフォンの背中を軽く叩く。グリフォンはクリスティーヌの意思を理解し、炎から少し離れた距離を保って止まる。
長く詠唱を始める。大きな魔術を使うには時間が必要だ。
幸いなことに、この間ジルと共に泉へ行った時に結界を張った水源に火は届かない。更には自然への加護を強めていたため、最悪な事態は免れるだろう。けれども人への被害を減らすためには火を消すしかない。
伸ばした手の先から冷たい感覚が宿る。
「消えて」
クリスティーヌの周囲に水の球が浮き上がり、一斉に火の元へと飛び出した。雨のように降り注ぎ、大量の水が一瞬にして消火していく。
周囲にいた者達は何が起きたのか分からないまま、消えていく火の中から助けを呼ぶ声を頼りに救助に向かう。ほとんどの炎が消えたとはいえ、まだ全てが鎮火したわけではない。他にも火が無いか確認しようと辺りを見渡した時、林の中から物凄い速さで何かが飛んできた。
飛び出してきた何かはグリフォンに当たり、ギィィという悲鳴と共にグリフォンの身体が傾いた。一瞬にしてグリフォンの浮力が消え、クリスティーヌと共に地上に落ちていく。
クリスティーヌは、必死でグリフォンにしがみ付きながら急いで魔法を唱える。ほんの僅かでも宙に浮くことが出来る魔法。地面に叩きつけられる前に唱え、衝撃は抑えられたものの落下した衝撃で全身を打つ。
「う……」
グリフォンは無事だろうか。クリスティーヌは痛む身体をどうにか顔だけでも浮かす。グリフォンは衝撃を受けた後、傷を受けた身体を治すため元の世界へと姿を消していたところだった。
一人地面に倒れたままのクリスティーヌの前に草を踏み荒らす音がした。護衛が助けにきてくれたのだろうかと思ったが、その期待は大きく裏切られる。
「捕らえろ」
冷淡な声と共にクリスティーヌが拘束される。体中を痛めつけていたため、触られるだけで痛み、悲鳴をあげる。しかしその口も布によって塞がれる。
無理やり身体を動かされる痛みでクリスティーヌは意識を失う。しかし、その直前に見た景色だけは忘れない。
身体の自由を奪われる中、見かけた男は二人。
魔力を持った銀色の瞳を持つ男が一人。そして、黒髪にどこか既視感を持つ男性。
その顔に見覚えがある。
あれは、そう。城内にあった姿絵からだ。
片付けられていた姿絵。元皇帝と共に隅に置かれていた。その中の一つと顔が同じだった。
皇帝の異母兄である、クローディと。
そうしてクリスティーヌの世界は闇に閉ざされ。
クリスティーヌの日常が、あっけない程に崩れ去った。




