11.死神皇帝の大切な時間
全大陸の中でも最大を誇るヴァルナ皇国の城下町はどの国よりも栄え、流通に富んだ活気ある街である。
高山脈の中に王城が建てられているが人の出入りは多く、坂道が多くあるが道路の整備が他国よりも群を抜いて整っている。更には自国の警備兵が国境や舗装された道路の合間合間に常駐しているため盗賊や山賊といった被害を負うことはほぼ無いに等しい。
それは、九年前にジルが皇帝となった時に最も優先して執り行われた事業であった。流通の整備、更には城下街の地下水路の整備を強化した彼の偉業は国民に慕われる要因となっている。
それが終わると同時に始めた他国への侵略、制圧により好感度は如実に下がってはいるものの、民は死神皇帝の元で暮らすことに何の不満も抱かなかった。
国内の整備が整うと共に各国から商人が押し寄せてくる。ジルは関税を設け彼らを迎え入れた。そのため、九年前よりも他国の人間がヴァルナではよく見かけるのも今ではおかしくない光景だ。
肌の色も様々だった。ヴァルナの民は寒い季節を迎える機会が多いことから肌が白かったが、城下街では太陽の下から訪れた褐色の肌もいれば、食文化が異なるのか肌の色が異なる者も多くいた。顔立ちも違えば髪の色も様々だった。ただ、どれほど多くの民が城下町に居ようとも、金色の瞳を持つ者は居なかった。
金の瞳は魔の象徴。ジルとクリスティーヌ、国も違えば肌も髪の色も異なる二人が唯一揃いである瞳の色。
今、ジルとクリスティーヌの瞳の色は、クリスティーヌの魔法によってヴァルナ国でよく見かける青色の瞳に変わっていた。
「瞳の色が変わるだけで随分と変わるものだ」
長い髪を束ね、帽子の中に隠しているジルは、町娘のような恰好をしたクリスティーヌを見下ろしながらそう呟いた。
ジルの恰好もまた質素な服装にしており、一見すれば美丈夫な商人といった風情だった。クリスティーヌはクリスティーヌで髪色はそのままだったが瞳の色はジルとお揃いの青色。服装も十二歳という年齢に相当した可愛らしい恰好のためか、普段よりも幼く、十二歳よりも年下に見えた。
「ジルは変装をしても目立ちますね」
どれほど装飾を避けたとしても、彼の良い顔立ちに高い背格好は隠せない。誰もが目を惹くだろうと、クリスティーヌでも分かった。
「そうか? しかしこれ以上姿を隠すとかえって不審に思われてしまう」
なるべく体型を隠すよう緩めの衣装に、帯刀も短い護身用のものだけを差している。帽子により目元だけではなく、俯けば顔も隠せるよう帽子のつばも大きいものを選んだ。
「まあ、もし私が皇帝だと分かったとして近づく者は限られているだろうよ」
確かに。
死神と称される皇帝にみすみす望んで近づく者は滅多にいないだろう。
「さあクリスティーヌ。いや、今はクリスかな。参ろうか」
「はい。ジーク」
二人は城下町にいる間は偽名で呼び合うことにした。差し出されたジルの手に手を置き、幾人かの使用人に別れを告げて二人で馬車に乗った。
死神皇帝の執務が落ち着いたということで、二日ほど前に街へ出かけようと声を掛けられた。それからは街へ出掛けるための服選びを侍女長と行ったり、街での注意点を聞いている間に当日になった。
クリスティーヌは恥ずかしいことに金銭を使った事が無かった。魔術師の塔での買い出しは全て塔の使用人が行っており、クリスティーヌが物品を購入したことが無かったため、まずは硬貨の使い方を教わった。それから買い物の方法を。買い物は全てジルが行おうかと聞かれたが、せっかくの機会だからと丁重にお断りした。
お小遣いだと渡された硬貨が、学んだばかりのクリスティーヌには分からなかったがあまりに高額であると侍女長とベティに止められていた。クリスティーヌは言われるがままに半分以上減らされた硬貨を手提げに収めた。財布というものを用意する方が良いのだと言われ、では城下町で買おうということになった。
お忍び用に用意された馬車で城下町に降り、場所の乗り合い場で二人は降りる。御者に何か声を掛けたジルは、用を済ますとクリスティーヌに手を差し伸べた。
「行こうか、クリス」
クリスティーヌはドキドキと煩い鼓動をそのままに手を取った。初めて訪れる街に高揚しているのか、それともジルと一緒に出掛けるからなのか。恐らくどちらもだろう。
乗り合い場から少し歩けば露店通りと呼ばれる大通りにやってきた。クリスティーヌはあらかじめ予習しているためすぐに分かった。
露店通りとは、異国の商人が臨時で商品を出すために露店が用意された場所で、事前申請又は即日にでも役所に金銭を払えば、その場の露店に商品を出すことが出来る仕組みだった。国により指定される商品のみではあるが、ほとんどの商品を許容しているため様々な物が並んでいた。
見慣れない刺繍がされた織物、何に使うのか分からない小物。可愛らしい陶器、味が想像できない乾物など様々で、クリスティーヌは一瞬で目を奪われた。
「まずは街を把握するためにも歩こう」
「はい」
活気ある露店通りの中、人の隙間を通り抜けながらようやく人通りが減った道に出た。
クリスティーヌは辺りを見回した。さっきまで居た場所とは全く違い物静かな通りでありながらも人通りは多く、更には沢山の良い香りがした。
「ここは宿泊街ですね」
「そうだ。しかも高級な宿の通りだな。少し行けば商人や旅人向けの施設がある」
異国からの流入が多い分、宿泊施設も多く存在する。二人が立つ通りはまさに宿泊施設が並んでいる通りだった。高級な宿もあれば素泊まりするような質素な建物もある。宿と併せて食事処としても開いている店から良い匂いがしていたらしい。朝食の時間は過ぎているため、恐らく昼食の仕込み中なのだろう。
「さあ、まだ見せたいところはあるぞ」
まるで少年のように活き活きとした皇帝に引っ張られ、クリスティーヌは小さな足でつられて走り出した。
それから回った先は高級品ブティックや装飾店の並ぶ道沿い、ヴァルナに住む民が愛用する小さな商店通り、子供たちが通う学び舎、礼拝堂など様々だった。
それだけ歩き回っても、まだ見ぬ場所は多かった。あえて教わりもしていないし、皇帝が案内することも無かったが、歓楽街や武器等が売られている場所があることもクリスティーヌは知っていた。それから行くことは無かったが住宅街もある。貧富の差によって地域は異なるらしい。山間から離れた場所にある民家、郊外に建つ高級住宅街、そして貧困層によるスラム街もある。
ヴァルナには職を求めて流民や戦による難民が流れてくる。全てを救済するには手も足りない。今は自国民の生活水準を維持することが精一杯であるため、流民や貧民への救済措置は難航しているとクリスティーヌは家庭教師から学んでいた。
学んでいても直接目にすることとは違う。街を歩き回りながら、時折微かに見かける物乞いの姿。見るもの全てが、クリスティーヌにとって学びの源となっていた。
「疲れただろう。少し休むといい」
「ありがとうございます」
流石に歩き回り過ぎて足がヘトヘトになっていたため、水車広場と呼ばれる広場の草原に座り込んだ。誰もが自由に寛げる空間としている国営の広場には、母子が遊ぶ姿や子供たちが駆け回る姿があった。
二人で草原に座りながら、ふとクリスティーヌはジルと目があった。
「また膝を貸そうか?」
滅多に無いであろう皇帝のからかいにクリスティーヌは頬を染めて首を横に振った。
「何か飲み物を買ってくる。近くに護衛がいるだろうから大丈夫だとは思うが。何かあればすぐに声を出すと良い」
「そんな、ジ……ジーク自ら買って頂くだなんて」
恐れ多い上に申し訳がない。そう思って立ち上がろうとしたクリスティーヌをジルは制した。
「よい。少しばかり視察も兼ねて出歩く。一息したら今度はそなたの買い物をしよう」
「……はい」
視察と言われれば無理強いすること出来ない。
大人しく座りなおしたクリスティーヌの頭をジルは優しく撫でた。
まるで子ども扱いだ……否、子どもなのだ。
俯いたクリスティーヌを見て、少しばかり困ったようにしながらもジルは立ち上がり、「すぐ戻る」とだけ伝えてその場を離れた。
水車の音と子供たちの笑い声が響く中、クリスティーヌは急に訪れた静けさに改めて景色を眺めた。
穏やかな光景。まるで戦とは無縁の街。けれどもヴァルナを離れれば常に争いの火は絶えない。今でこそヴァルナ皇国により大陸の統一がなされてはいるものの、それまでは国同士の小競り合いが多く、何処かしこで戦が行われていた。
中立を保っていた魔術師の塔に直接的な被害は無かったものの、中立であるが故に各国から煙たがられてもいた。せめてもの協力として、魔力と精霊の召喚により荒地と化した大地を回復したり、戦地で無残な死を遂げた魂を鎮める事を行ってきてはいた。
この平和と呼べる時間を、ジルは一人で守ってきたのだ。勿論、ベティのように側にいる者がいたことは知っている。
けれども王となる立場はジル一人。果てしない戦いを見守ってきた未来の夫を、クリスティーヌは少しでも守りたかった。自身の手は小さく、守るにはあまりにも小さい存在であっても。
穏やかに吹く風は精霊が過ごしやすいと歌っている。
クリスティーヌは聞こえないように小さく呪文を唱えた。
風がより一層強まり、水車から流れ落ちる水は更なる輝きを増す。
クリスティーヌが出来ることといえば、今のように自然界にほんの少し元気を与えることぐらい。
ジルへもまた、こうして何かを与えられる存在であればいいと。
幼い少女は空を見上げながら想った。
護身用に差していた刀が赤く染まった。
城下町の中でも人気の少ない貧民街の隅でジルは一人の男を刺していた。
先ほどより護衛と別にジルとクリスティーヌを見張っていた男だ。ジルが一人になった途端襲い掛かってきたため、ジル自ら迎えたまでだった。
口から血を流す男は蹲り、その場に倒れた。息も意識もまだある。そのように敢えてジルはしたのだ。
「無事に帰れた時に、雇い主に言うといい。姑息な真似ばかりするなと」
昨今奇襲してきた暗殺者も、今のこの男も雇い主は同じだと分かっている。長年、常にジルの命を絶とうと懲りずに刺客を放つ相手を。
「兄に会うことがあるのであれば言っておけ。そろそろ相手にするのも飽きた。次は無いとな」
それだけ言ってジルはその場を離れた。流血する男がたとえ死んだとしても、その次にやってくるであろう刺客にもう一度同じことを告げれば良いだけのこと。
先日拷問した男も、今回の男も、ジルの兄であるクローディの配下による行いであることは分かっていた。
やはり父と共に惨殺しておけばよかったと、ジルは思う。
これほどまでに陰湿に暗殺者を嗾ける兄は、父である元皇帝が殺されてから全ての権力を剥奪したはずだった。
それでも、元皇帝や兄から甘い汁を啜っていた者たちにより未だ息を潜めていることは、ジルにとっても厄介であり目障りだった。
常にクローディの行方を探させては、見つけ次第殺せとは命じている。しかし未だに彼の首はジルの前に届かない。
煩わしい。これから間もなくクリスティーヌとの結婚も控えている今、時間が惜しい。
「せめて式を行う前に終わらせなければな」
でなければ、何故ジルが急いでクリスティーヌをヴァルナに連れていき、婚約者としたのか。
婚約者を迎え入れたことで皇帝としての立場を強め、後継者を考えているのだと証明する。そうすれば現皇帝に仇なす者達と兄が動くと踏んでいる。
実際のところ効果は出た。今まで、これほど短い期間で矢継ぎ早に暗殺者が来ることはなかった。向こうもそれだけ本気で行動に移すのだろう。
これ以上の勢力を兄に持たれては困る。
だからこそジルは囮も兼ねてクリスティーヌを迎え入れた。
その事をクリスティーヌが知れば、ジルを嫌悪するかもしれない。
酷いと、最低だと罵られるような所業であることは分かっている。
だからせめて。
この短くも儚い甘い時間を大切にしたかった。
「さて。何の飲み物が良いか」
露店通りに売っている飲料水を思い浮かべる。甘い果実水、蜂蜜の入った飲み物もあったはず。
ジルは持っていた手拭いで短剣にこびり付いた血を拭き取り露店通りへと急いだ。
歪んでいると分かりつつも婚約者と共に過ごす時間は。
血で薄汚れた死神皇帝にとって掛け替えのない、人間でいられる時間であった。




